日蓮正宗のススメ

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「日蓮」の二字について

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
日蓮」の二字について

 皆さん、お早うございます。日蓮大聖人様の「日蓮」の御文字。又、日蓮正宗の「日蓮」という宗旨の名前というのはどこから来たかと申しますと、それはもちろん、大聖人様御自身が「日蓮」とお名乗り遊ばされたということに、根本的には尽きるのでございますけれども、そこには深い法義的な意味があるということを申し上げたいのであります。

 大聖人様は『寂日房御書』という御書の中に、

 「日蓮となのる事、自解仏乗(じげぶつじょう)とも云いつべし」(全九〇三)

ということをおっしゃっております。「自解仏乗」。これはどういうことかと申しますと、仏の境地、その教法を自らお悟りになった聖人、仏の故に、お名乗り遊ばされるということを「自解仏乗」と仏教の言葉で申すのであります。 私達の名前もやはり、名は体に到る徳ありと申しまして、皆さん方もお子さんが誕生した時に、だれかが、名前をお付けになります。その時にも、それは、それらしい名前を深くよく考えて、その子にふさわしい、又、このように育っていただきたい、又、そのように育てたいと、親子の一つの感応のもとに、それにふさわしい名前を付けるということが大切だと思うのであります。いい加減な名前、仮りに女の子に熊さんだとか寅さんだとかという名を、仮に女の子にそういう名前を付けますと、やはり、その子が一生悔やむというようなこともあるわけであります。その方が亡くなった後、法名を付ける場合だって、女の人の熊さん、寅さんと言われますと、私達も法名の付けようがない。非常に苦しむものでありまして、お父さんがいたずら半分に付けた名前が、一生その子を左右し、又、亡くなった後まで、住職さえ困らせるということにもなるわけでございまして、やはり名前というものも、よく考えて付けていただきたいと思います。

日蓮大聖人様の、この「日蓮」という、たった二文字でありますけれども、そこには、大聖人様御自身が深く、御自身の御仏智の上から、教法の上から、お名前をお付けになっておられるということを知っていただきたいのであります。

まず、最初に日蓮の「日」の字でありますが、これは大聖人様が『顕仏未来記』という御書の中に、

 「仏法は必ず東土の日本より出づべきなり、(中略)仏の如き聖人生まれたまわんか」(全五〇八)

ということをおっしゃっておられます。末法の新しい正法というものは、大聖人様によって、この日本国を広宣流布の根本の妙国として新しい仏法が出現すると、この日本国に仏の如き大聖人様が御出現になるということをおっしやっておられます。末法の新しい正法というものは、大聖人様によって、この日本国を広宣流布の根本の妙国として、新しい仏法が出現する。この日本国に仏のごとき大聖人様が御出現になる。日月の太陽の如き仏法がこの日本より出ずるという意味において、この日蓮の「日」という御名乗りがあるのであります。それが一つ。

もう一つの意味は、富士山の山の名称は、これは皆、富士山という名前が正式だと思っておりますけれども、大聖人様の御指南によりますと、これは「大日蓮華山」というお名前が正式なのです。大石寺山号は、いずれは「富士山本門寺」と名乗るのでしょうけれども、現在は「大日蓮華山大石寺」と申しております。この「大日蓮華山」というのが富士山の名称でありますし、実名ということをおっしゃっておられます。その実名をとって、大聖人様は「日蓮」とお名乗りになっておられるという意味がそこにあります。

それから、もう一つ申し上げるならば、これは日寛上人も、「日蓮」というお名乗りは確かに大聖人様のお名乗りであるけれども、同時にそれは釈尊自身の釈尊の勅命によるということをおっしゃっております。(富要三ー二五七)それはどういうことかと言いますと、この「日蓮」という「日」のお名乗りは、釈尊法華経の神力品の中に、

 「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間 に行じて能く衆生の闇を滅せん」(開結五八四)

ということをお説きになっておられます。その日月の光明の如き法華経の行者、大聖人様の御出現ということを、釈尊が遥か三千年の昔に法華経において、そのことを予証しておられるわけであります。ですから言うならば「日蓮」というお名乗りの方が、法華経の行者といわれる方が、「日蓮」とお名乗りになつて、新しい末法の人々の救済をされるということを、釈尊自身が予証して、そして「日」というお名前を、日月の光明として、大聖人様の御出現を予証しておられるということであります。その日月の光明の「日」と、日月のごとき、太陽のごとき仏法という意味で「日蓮大聖人」の「日」というお名乗りがあるということです。

それから、もう一つの意味は、この「日蓮」の「日」という字を、字画(じかく)で分解しますと、横棒が三本、縦棒が左右二本、つまり五画になっております。つまり縦に二本、横に三本のこの五画から、この字がつくられているわけであります。この五画、五辺というものが、即、妙蓮華経の五字を表しているんだということを、大聖人様はおっしゃっておられるわけであります。大聖人様の御相伝書の中にそうした御指南がございます。つまり、大聖人様の妙法蓮華経の五字を示し、その五字の法体と大聖人様の「日蓮」とのお名乗りが一体となっておる。そこに大聖人様の法の本尊と人の本尊との人法一箇の御境界を、その当体を、「日蓮」の「日」の一字にそのことを表しておられるということであります。そうしたことをよく心に置いて、日蓮大聖人のお名乗りがあったということをお考えになっていただきたいと思うのであります。

その次は「蓮」の字でありますけれども、これは皆さん方もよく御存じだと思いますが、大聖人様の『当体義抄送状』の中に、

 「経に云く『世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す』云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり」(全五一九)

ということをおっしゃっております。これは『法華経』の「涌出品」の中に、この地涌の菩薩の出現ということが説かれております。その中に、「如蓮華在水(にょれんげざいすい)」と、この蓮華というものは汚い汚泥の中に出現して、そして、しかも清らかな清浄な花をそこに咲かせます。末法濁悪の世の中に、日蓮大聖人様という末法の正しい仏様が、清浄な白蓮華の如きお姿をもって、その正法を持って、御出現に遊ばされるということも、やはり「涌出品」において、釈尊自身が説かれているのであります。その「如蓮華在水」の「蓮」をお取りになって、そして、大聖人様は、「日蓮」とお名乗りになっておられるわけであります。大聖人様御自身の自解仏乗によるところのお名乗りでありますけれども、その底には、釈尊自身が遥か遠く東土の日本を望んで、末法の時代を望んで、日蓮大聖人という方の御出現を、釈尊自身が、その大聖人様の名号すらも予証して、お説きになっておられるのだと拝せられます。そうした意味で、そこには深い、釈尊と大聖人様、つまり熟脱の仏が末法の、その下種の仏の出現を予証して、遠く遥かに末法を望んで、大聖人様御自身の名号すら、お名乗りすら、釈尊自身が予証しておる。そこに深い仏智、大聖人様と釈尊自身でなければ拝することのできない、深い仏と仏のそうした境涯の上に説かれておるお名乗りなのだということを知って頂きたいと思うのであります。

 大聖人様は『四条金吾女房御書』に、  

 「明かなる事、日月にすぎんや、浄き事、蓮華にまさる べきや、法華経は日月と蓮華となり、故に妙法蓮華経と 名く、日蓮又、日月と蓮華との如くなり」(全一一〇九)と記しておられます。この御文にも、大聖人様の法体と、そして大聖人様御自身との間に、人法一箇の御境界があるということを、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全七六〇)という御指南を、こうした御書の中にも、きちっと示されておられるのであります。この蓮華というものには、「於泥不染(おでいふせん)の徳」。先ほど申しました、汚い土や煩悩や、あらゆる五濁の不浄のものに決して染まらないという徳を、「蓮華」の「蓮」という一字の中に表しているのであります。これは大聖人様が、確かに末法濁悪の世の中に御出現になって、しかも私達と同じような、あらゆる煩悩渦巻く境界の中に、この娑婆世界にお出ましになって、しかも謗法の家に生まれ、又、謗法の師匠について、そしてその当時のあらゆる爾前・迹門の仏法を、全て、大聖人様が一身の上に学んでみせて、読破してみせて、そして正しい妙法の道理をもって、一切の邪義、邪教を打ち破って新しい正法をお立てになる。即ち、謗法の家に生まれ、謗法の師匠に学び、謗法の社会に出現しながら、その謗法に染まらない、その「於泥不染」の徳ということを身をもって、大聖人様は示しておられるのであります。

又、蓮華には「因果同時の徳」というものがございます。蓮華の花は因果倶時。これは、蓮華の花は華果同時(けかどうじ)と申しまして、花とその実とは皆、これは一体に育っているのであります。その大聖人様が、

 「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時、不思議の一法之れ有り。之を名づけて妙法蓮華と為す」(全五一三)

と、その因果倶時、不思議の一法を、大聖人様が証得されておるということを、やはり、この蓮華が象徴しているのであります。

それから、もう一つ大事なことは、蓮華の種というものは、確かに時代を経ても、二千年、三千年たっても厳然と発芽しておる。現在、大賀博士によって発見された二千年前の蓮の実が、千葉県に大賀蓮として新しい芽を吹き出しております。それと同じように、この蓮華には「種子不失(しゅしふしつ)の徳」、つまり大聖人様の久遠元初の妙法蓮華経が、ずっと、五百塵点劫、三千塵点劫という長い長い無限大の時を経て、そして釈尊の在世を迎え、正像二千年を過ぎて、なお末法の今日、大聖人様によって、きちっと、この妙法蓮華経が久遠即末法のそうした法門の上において、御境界の上において、この南無妙法蓮華経の大法が失われることなく、損なわれることなく、又、不浄と交わることなく、末法の今日に、正しく大聖人様の御身の上に所持されて、そしてこの末法に開花しておる。末法に打ち立てられておる。永遠に久遠の元初から、末法尽未来際まで絶えることがない。途絶えることがない。そして不浄のものと交わることがない。正しく永遠の仏法として、永遠の救済を、三世を貫く正法として、大聖人様によって今日に打ち立てられておる。そこに妙法蓮華経の永劫に亙って、失われることのない「永劫不失の徳」というものが示されておられるわけであります。

ですから「日蓮」というたった二字のお名乗りにも、深い大聖人様のそうした教法が厳としてそこに込められており、そして又、大聖人様の末法の仏様としての御境界が、その法体の上に、お名乗りの上に、きちっと示されておるのだということを、一つ心に置いて、どうか日蓮大聖人様の弟子として、日蓮正宗に生きる者として、そうした大聖人様の教法の上に立った、正しい信心を常に心に置いて全うしていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただく次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十二年十一月二十二日)