日蓮正宗のススメ

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四つの功徳の現れ方

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
四つの功徳の現れ方

 皆さん、お早うございます。大聖人様は『開目抄』という御書の中に、有名な経文の一節をお引きになりまして、

「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来 の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(全二三一)

ということを仰せになりまして、仏法の鏡は過去と現在と未来の、この善悪を映し出すということをお示しでございます。この道理によりまして、この妙法を信心する人の功徳の現れ方、その姿というものを、やはり、その仏法の鏡に照らして、仏法の道理に照らして、これを見ていくということが大切なのであります。私達が、この信心をした功徳というのは、みんな一生懸命、御本尊様に御祈念をし、勤行を貫く、題目を唱えるその功徳。あるいは又、折伏の功徳。そういう功徳が、即、我が身の上に、我が生活の上に、あるいは生老病死、四苦八苦、そうした一切のものを凌ぐという形において現れてきたものだけを、私達は功徳と考え、それ以外のものは、みんな功徳ではない、功徳とは分からない、気が付かない、ということが非常に多いと思うのであります。

大聖人様は、むしろ末法の功徳は現れての徳、つまり顕益よりも、むしろ冥益(みょうやく)の方が多い。冥益の時代であるということをお示しになっていらっしゃるのであります。

大聖人様は『道妙禅門御書』(全一二四二)という御書の中に、その功徳の現れ方という姿において、先ほど申しました三世を通じての功徳という上において、四つの姿があるということを、お示しになっていらっしゃるのであります。

一つは「冥祈冥応(みょうきみょうおう)」。つまり過去の宿善が、自分は分からないけれども、ひそかに功徳となって身に付いてきておる功徳を「冥祈冥応」と申します。冥冥の過去世のそうした自分の宿善、正しい信心を一生懸命貫いたその善根が、自分には自覚出来なくとも、冥冥としてそれが育ってきておることを「冥祈冥応」というのです。「陰徳陽報」という言葉がありますが、その過去世の陰徳が、いまだ陽報となって現れていないけれども、それが次第次第に熟しておる時代、「冥祈冥応」の姿ということをおっしゃっておられます。

もう一つは「冥祈顕応(みょうきけんのう)」と申しまして、過去世の、自分の前世の妙法の宿善というものが、今日に如実にそれが現れてくる時代、それを「冥祈顕応」という風におっしゃっておられるのであります。例えば、夜になりますと月の光が煌々(こうこう)と照ります。一切のものを照らし出しております。月明かりで、ほとんどのものが見える。そういう日もあります。しかし、雨の日もあれば、風の日もあれば、曇りの日もある。しかし、実際にお天気がどうであっても、月の光は毎日、煌々と照っているのは事実であります。ただそれが、雲が遮り、霧が遮り、もやが遮り、色々なものが遮ってこの月の光を消してしまっております。そして又、月の光というものは、宵の光よりも暁の光の方が、やはり、もっと明らかに照っているものでございます。あるいは又、春や夏の月の光よりも、秋や冬の寒い時の月の光の方が、遥かに煌々と照っているわけであります。同じ照っていても、同じ月の光がそこにあったとしても、その時期によってその光り方が違ってくるわけであります。

この妙法の功徳というものも、やはり万人に同じように、慈悲の光は、燦燦(さんさん)と注がれていても、その人の信心の厚薄によって、それが煌々と照り輝く時と、そして又、そこに至るその時期を待たなくてはならない時があるわけであります。そこに「冥祈冥応」と「冥祈顕応」の違いというものがあるわけであります。

 それからもう一つは、今度は今世に約して、私達の毎日毎日のこの「顕祈」、現実の現在におけるところの祈りが「冥応」として冥益として育っている時代。下種益と申しまして、下種の妙法が芽を吹き出して、大きく根を張って、そうしてこの大地へと段々と育ってくる、そういう時代を「顕祈冥応」というのであります。

 そして、その現在の祈りが、即ち現在のこの信心が、現世の功徳として、実際に私達の日常の上に、暮らしの上に、命の上に現れてくるものを、これを「顕祈顕応」と言われております。今、現実に祈るものが現実の功徳となって現れてくること、これが「顕祈顕応」です。

私達はみんな功徳というと、この「顕祈顕応」の部分だけが功徳だと思って、それ以外は見えませんから、みんな「功徳が頂けない、功徳が頂けない。まだ功徳がない、功徳がない。信心しているのに、信心しているのに・・・」と凡人は嘆くのでございます。しかし大聖人様は「末法は冥利なきにあらず」(全一二七七)と申されています。末法は冥益の時代であり、冥益をもって冥利というのでございます。

従って、この四つの功徳の現れ方が基本となって、つまり過去世の「冥祈」が、過去世において「冥応」として、あるいは又、現実に「顕応」として現れてくる。そして、実際のこの現世におけるところの「顕祈」が、又、未来の「冥応」となり、「顕応」となって現れてくる。過去と現在と未来というものは、この「冥祈冥応」・「冥祈顕応」「顕祈冥応」・「顕祈顕応」と、この四つの姿で、過去・現在・未来と、ずうっと三世につながっているのであります。この妙法の功徳は、今世だけのものではない。

大聖人様は「上七世・下七世、上無量世・下無量世にわたって」(全一四三〇取意)と仰せられております。皆様方はどうか、この四つの姿をもって、妙法の功徳は三世に及ぶのだということを確信していただきたいのであります。このことが分からなければ、このことを知らなければ、結局、功徳に対して、信心に対して、みんな疑問を抱いてしまうのでありますから、どうか皆様は、この姿の上に、功徳というものは厳然として具わるということを確信していただきたいと思うのであります。

天台大師も『法華玄義』というお書き物の中に、

 「今我が疾苦は皆過去に由る。今生に福を修すれば報は将来に在り」(大正蔵三十三ー七四八・B。全二三一)

 「信心の機の熟・不熟あれば、即ち応に遠あり近あり」(大正蔵三十三ー七四九・B取意)

と申されております。信心の現れ方は、今申し上げました四つの姿において、その遠い近いということ、遠近、遅速、速い遅いということがあるにしか過ぎない。妙法の功徳は厳然としてあるんだということを説かれております。 そして、

 「若し四意(つまり冥機冥応・冥機顕応・顕機冥応・顕 機顕応のこの四つ)を解すれば、一切の低頭挙手も福虚しく棄つべからず。終日感無けれども終日悔ゆること無し(中略)邪見を生ぜざれ」(大正蔵三十三ー七四八・B)

ということを、天台も『玄義』に説いているのであります。

どうか皆様方は、この四つの姿ということを、四つの功徳の現れ方の違いがあるということを、しっかり根底に置いて、一閻浮提第一の正法を修する者には、その正法を修する者のみが知る大きな功徳と、大きな用きと、大きな福徳というものが必ず具わる。自分の命の上に、きちっと具わってきておるということを確信していただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただく次第でございます。大変お寒い中を御苦労様でした。

(昭和六十二年十一月二十九日)