日蓮正宗のススメ

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信心をする人の五つの姿

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『日曜講話』第五号(昭和63年11月1日発行)
信心をする人の五つの姿

 皆さん、お早うございます。大聖人様は『秋元御書』という御書の中に、私達の信心の姿勢について、同じように御授戒を受け、御本尊を持(たも)ち、大聖人様の弟子となって信心をいたしましても、その人によって、その姿、在り方というものにも五つのタイプ・姿があるということを、器(うつわ)に譬えてお説きになっていらっしゃるのであります。器と申しましても、皆様方が三度の食事を頂くお茶碗・お皿等々、色々ございますが、そうした器の中にも良く磨かれた完(まった)き器もあるかと思えば、ある時は不始末をして割れてしまう器もあり、汚れて穢れの目立つ器もございますし、中には水の漏れる器もあり、あるときは、お水を盛っても、おつゆを入れても、それをひっくりかえしてしまう、そういう器もございますし、蓋をもって覆う器もございます。その器というものは、ただ単なる器ではなくて、私達の信心の心身を表しているということをこの『秋元御書』にお認めになっていらっしゃるのであのます。

 その姿の一つに、

 「或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳 に覆ひ、或は口に唱へじと吐き出しぬ。譬えば器を覆するが如し」(全一〇七一)

とおっしゃっておられます。せっかく信心をしても、功徳功徳と自分の信心修行は人並み以下に致しまして、功徳だけは人並み以上に欲するという我がままな人が多いのです。ろくに勤行もしない、お題目も唱えない、それでいて功徳がないとか、信心してもすぐ良いことがないとか言って、いつの間にか信心を覆(くつがえ)して退転してしまう人も中にはございます。

現在でも妙光寺におきまして、月々、それぞれ、皆様方の折伏によって百体、二百体と御本尊様を下附申し上げますけれども、残念ながら、また、三十体、四十体と、退転者となって戻されて来る御本尊様もあるのであります。ですから、やはり信心はどこまでも全うするという強い一念、不退転の決意を持って貫いて頂きたいと思います。

一本のロウソクに火を点します。その火が段々と燃え盛ってまいりまして、やがてそれが三分の一、半分、そしていよいよ残り少なくなるまでずっと燈してまいります。そのロウソクの火は、一番最初に点した火が、最後まで燈っているのか、それとも最初の火はいつの間にか消えてしまい、中程のロウが燃えているのか、おそらく最後の一点まで燃え尽きた火というものは決して最初の火ではない。中程の火でもない。あるいは最後の火であるかもわからない。しかしながら、それは一番最初の火があって、また、最後の灯火となっているわけです。このように、営々として貫いて続いておるということが、また、尊いのであります。従って私達の信心も、始めも中程も、また、人生の晩節を迎えた最後も、常に不退転の信心、発心を繰り返し、また、その精進の姿が常にあるということが大切なのであります。

大乗の人の菩薩の修行の姿として、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧と、「六波羅密」ということが説かれておりますが、この中の一つでもよろしい。良く堪え忍ぶなら、堪え忍ぶということでも結構でありますし、精進なら精進の姿でも結構であります。そのどれかを常に自分の信心の鏡として、そこから常にいつの時点においても、また、再び希望を持って立ち上がって行くという、そのような発心というものが基盤となった信心というものを全うし、決して覆すことのない、不退の決意に立った信心を目指していただきたいと思います。

  その次は、

 「少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり 或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり、是は水の漏るが如し」(全一〇七一)

ということをおっしゃっておられます。信ずる日は一日、捨つる日が毎月ということではは困るわけでありまして、一カ月のうち一日だけ信心をして、あとの三十日は捨ててしまっておるということでは、これは滔々(とうとう)と水が漏れているようなものです。大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』(全一三〇八)で、千日尼に対し「なはて(畷)堅固」ということについて、どれほど長く大きな堤防であっても、そこに、ほんの蟻一匹通るような穴があると、その穴が、やがて大きくなって湛えた水が漏れていってしまうように、小さな、まあいいやと思う気持ちが、結局自分の信心の功徳の水を押し流していってしまうのだということをよく心に置いていかなければならないと説かれております。せっかく信心をしても、その信心の一念心が所々欠けておるということにおいて、せっかくの自分が積んできた功徳の水が漏れてしまうということもあるということを、大聖人様は器に譬えられ、説かれておられるのであります。

三番目の人は、

 「法華経を行ずる人の一口(ひとくち)は南無妙法蓮華 経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し」(全一〇七一)

とありまして、こちらの方は信心の汚れということで、大聖人様の信心をどこまでも純真に全うすることができない。ですから同じ信心を持った仲間といるときは一生懸命「南無妙法蓮華経」と唱えるけれども、不信心の親戚の人であるとか、あるいは兄弟等と交わると、途端に昔の念仏、真言禅宗の執着を捨てることができない。そういう人は、一つの器の中にせっかく白米を盛っても、そこに石やゴミ、芥(あくた)を混ぜてしまうようなものだということをおっしゃっておられるのであります。どこまでも清浄な清らかな信心を全うする。むしろ正法を貫くことによって、わが心身を六根清浄な命へと変えていく訳でありますから、その邪(よこしま)なもの、不浄を捨てるということが真(まこと)の信心なのだということをお考えいただきたいと思うのであります。

それから、その穢れというのにも、器が汚れる方と、そこに盛るものが汚れる方と両方あるわけです。もし自分の器が汚れているならば、どんなに奇麗な水をそこに張っても、その水がゴミのために汚れてしまいます。そしてまた、その器の中に不浄な物を盛ってしまうと、それは総てが不浄になってしまうわけであります。ですから、やはり持つ御本尊も、信仰の対象もまた純真な清らかなものでなければならない。と同時に私達の信心もまた、清らかなものでなければならない。清らかなものと不浄なものが交われば全部、不浄なものになってしまう。どちらが不浄であっても、総てが不浄になってしまう。その恐ろしさということを考えなければいけない。そこに謗法の謗法たる所以があるわけです。大聖人様は、今、末法はこの南無妙法蓮華経の一事を貫く時でありまして、決して余事余経を雑(まじ)えてはいけないということで、

 「世間の学匠は法華経に余行に雑えても苦しからずと思へり、日蓮も、さこそ思い候へども経文は爾らず」(全一〇七二)

ということをおっしゃっておられます。

世間の人は、天台宗等の仏教であろうとイスラム教であろうとキリスト教であろうと、みんな手を携えて世界の平和、世界の平和と言って、如何にも崇高な素晴らしい世界の連帯が出来るように思っておりますけれども、事実はそうではないのであります。本当の純真な信心というものは、どこまでも正法と邪法の弁別をきちっと貫いて、そして不浄なもの、間違った信心を捨てて正しい信心を貫く以外に世界の平和は無いのであります。 世界の人々の、その命の底から救済する為には、その不浄の煩悩を清らかな信心によって、その人を仏界へと導く以外にはないということを、我々は考えていかなければいけないのであります。そこに、大聖人様の正法正師の正義をもって世界の人々を救済する、広宣流布をしていく大道が開かれているのであります。ただ単に姿・形だけ手を繋ぎ合って、心は全く別々の心で、信心も全く別々の信心をもって、世界の連帯、世界の広布は、絶対に出来ないのであります。そこに諸宗の人の姿・形だけの見せ掛けの似非(えせ)平和主義と、大聖人様の正義を貫く上において、一切の人々の命の底から救済していく広宣流布の手だてと大きな違いがあるということであります。

そして最後に一番大切な姿は、完(まった)き器ということであります。それは、どこから見ても、内側から見ても外側から見ても、そのどこも汚れのない純真な、そして崇高な信心というものが大切であります。それは、私達の使う器も、清らかな完き器で、決して不浄のものを盛る器や、汚れのある器、水の漏る器であってはならないのであり、この完き器を「完器(かんき)」と仏法では説かれております。涅槃経の中にも、

「その完浄の者は菩薩僧に喩え、漏るとは声聞に喩え、破るとは一闡提に喩う」(大正蔵十二ー五六〇・C)

ということを説かれております。

どうか皆様方も、お一人お一人が、漏れる器や、汚れた器、割れた器ではなく、完き器を求めるように、信心もやはり完き信心ということを心に置いて、どうか大聖人様の御義に適う信心を目指して頂きたいということを申し上げまして、本日の御説法に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年十月十八日)