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母親に十徳あり

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『日曜講話』第四号(昭和63年9月1日発行)
母親に十徳あり

 皆さん、お早ようございます。皆様方も、よく御存知だと思いますが、大聖人様の『開目抄』という御書の中に『心地観経』というお経を引かれまして、

 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未 来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(全二三一)

という有名な『心地観経』の御文(註参照)を引いておられます。

 その『心地観経』というお経を読みますと、お母さんの十徳ということが説かれておりまして、私も非常に興味を持って読んだのでございます。皆様方も、ここにいらっしやる大勢の方々が、一人一人どんな人も、等しく一人の母親を持っていらっしゃるということであります。生みの親と、また育ての親とを別に持っていらっしゃる方もあるかも分かりませんし、また一人一人の御婦人がお母さんとしての立場で今日まで生きてこられ、またお若い方々もこれから未来のお母さんとして、今日この信心を全うして行かれると思うのであります。そこで今日はその母親の持っておる十徳ということについてのお話を申し上げたいと思うのであります。

 この『心地観経』(巻第三「報恩品」第二之上、大正蔵三−二九七・B)というお経によりますと、一つには、お母さんは、あたかも大地の如しということを説いているのであります。私達が今、生息しておる大地の如し。つまりお母さんは、よく赤ちゃんを生み出すという、その所依となる意味で、お母さんは大地の如しというのであります。つまり母胎は大地の如く、大きなその力、一切の生命を育む力が、お母さんの命の中に備わっておるということを、大地の如しという風に名づけております。

 二つ目には「能生と名づく」ということを言っております。これは九箇月ないし十箇月ほどの間、胎内に赤ちゃんを宿して、そうしてそれだけの赤ちゃんの顔や、あるいはその体や足や手や、一切のものを整えて、そして立派な子供として生み出すところの力が、その機能が、働きが、お母さんの胎内に備わっておるということで、よく生み出す「能生」の徳がお母さんに備わっておるということを挙げております。その間、お母さんは、赤ちゃんに栄養を与え、また自らは外出することを控えて、そしてそのお母さんが悪阻(つわり)等の苦しみに耐えて、子供さんを着々と自分の胎内において育てあげていく。そうしたよく生み出す力、そこには苦労もあるわけであります。人に言えないお母さんの、この苦しみに耐えて、よく子供を生み出す、という意味で、「能生」という徳が備わっておるということを言われております。

 三番目は、よく正す「能正と名づく」ということを言われております。この間は、先ほども申しましたように、この胎内において子供の五根を整えるというのです。赤ちゃんの一切の細胞を胎内においてよく発達させて、例えば頭だけ発達して手足が発達しないというのでも困ります。手足だけが巨大になって、体がそれに伴わないということでも、またこれは困るわけであります。その赤ちゃんの脳の働きも、心臓の働きも、手足の機能も、全部、着々として、そして胎内において、よく正して、十全な形において育てていく。そういう力が備わっているという意味で、よく正す「能正と名づく」という風に言っております。

 四番目は「養育」ということです。つまり、よく育てる。これは、そこまでは、お母さんの胎内において育てる部分でありますけれども、今度は生まれてから、お母さんは、お乳を飲ませ、よくこの子供を育てるということです。その間、これは大聖人様の『刑部左衛門尉女房御返事』(全一三九九)にもありますけれども、約百八十斛(こく)のお乳を赤ちゃんに飲ませるということが説かれております。実際に量ってみるとどの位の分量になるのかよく分かりませんけれども、まあ一応、仏典の明かすところ約百八十斛ということを説かれております。いずれにしても、お母さんが赤ちゃんをよく育てていくということです。

 大概のお母さんは、赤ちゃんを左側に抱くか右側に抱きます。そして、それぞれ手が疲れてくると、右側に抱いたり左側に抱いたり、交互に替えると思うのです。あるいは背中におんぶをする場合もあるでしょう。しかしながら左側に抱く人が一番多いというのです。無意識のうちに左側に抱いておる。これはなぜかと言いますと、このお母さんの心音を赤ちゃんが聞くことによって、赤ちゃんが一番安心をするのです。お母さんの心音を母の胎内で一番聞いているわけですね。そうして育っておりますから、生まれてからも、やはり赤ちゃんは、お母さんの心臓の側に頭をもってきて、左側に抱くということが、一番、赤ちゃんにとって落ち着くというのでしょうか。あたかもお母さんの心音を眠りの音楽のように聞いて、そうして安心して眠りに就く。ですから別の人の心音を聞いても、なかなかそうはいかないのです。やっぱりお母さんの心音が一番、赤ちゃんにとって安心する。一種の音楽の睡眠薬というか、眠りを誘う音に聞こえるということらしいのであります。これは、ある人が、スーパーの出口で見ておりまして、無意識にお母さんが赤ちゃんを左側に抱いて出て来るか、右側に抱いて出て来るか、スーパーの入り口で、ずぅっと観察をしていたというのです。そうすると八割以上の人が左側に抱いて出て来るというのです。まあ皆様方も今日から試して見て下さい。それが本当かどうか。それ位、やはり無意識のうちにお母さんは左側に抱いているのだそうであります。そのように、お母さんはお乳を飲ませて、そして人に任せるのではなくて、やっぱり自分でよく育てるということで、「養育」よく養い育てる、お母さんは、そうした徳を持っておられると言うのです。最近は育てる方は人任せにする人も中にはおりますけれども、なるべくは自分で育てて頂きたいと思います。

 五番目は「智者と名づく」智恵の智者と名づく。まあ言葉を教え、知恵を与えるのは、これはやっぱり何よりもお母さんの徳目であります。お母さんから口移しに、お母さんからオオム返しに、やはり赤ちゃんは言葉を教わる。あるいは御飯の言葉、あるいは色んな言葉をお母さんの口を通して、お母さんと赤ちゃんが対話をしながら、意味のないような言葉であっても、お互いに反応し合いながら、赤ちゃんは赤ちゃんなりに、お母さんの意志を、お母さんの言葉を、お母さんの愛情を受け継いで、そしてよく自分の脳を発達させ、色んなこの考える力や判断する力や、色んなものを吸収していくわけであります。ですから言葉を覚える、知恵を発達させるというのも、それはお母さんとの、そうした愛情の中において、対話の中において、あるいは、おしめを替えたり、お乳を飲ましたり、寝かし就けたり、色んなそうした赤ちゃんとのスキンシップの中で、よく育っていくということで、お母さんのことを「智者」の徳が備わっておると言うのです。まあ最近は、それよりも、お母さんよりもテレビの方が先だという子供も中にはありますけれども、少なくとも小さな間は、先ずお母さんを通して赤ちゃんは教育をされ、養育をされていくということです。

 六番目は「荘厳と名づく」荘厳(しょうごん)とは、よく飾ることです。荘厳(そうごん)と書きますけれども、「荘厳(しょうごん)と名づく」これはやはり、お母さんを通して、またお母さんから頂いたそうした命の上で、よくこの体の、例えばまあ髪の毛が十分に生え揃って来るとか、あるいは子供は子供なりに、お母さんのいろんな愛情を通して、わが身というものを整えていくという意味です。またお母さんは赤ちゃんにオモチャを与えたり、着物や洋服や、いろんなものを与えて、そうして赤ちゃんにふさわしい、そうした姿形に、徐々に徐々に、整えて行くわけです。赤ちゃんは三箇月の頃は三箇月の赤ちゃんであり、六箇月、一年経てば一年経ったように、その子供を荘厳していく。子供を整えていく。それは着る物も、あるいは肉体的にもそうでありますけれども、一つ一つ、お母さんが整えていって上げるということであります。よく「荘厳」する、と同時に、その子供なりに、そうしたお母さんの持っているものを、やはり受け継いでいくのです。自分を「荘厳」していく、自分を作っていく、という働き、それをお母さんを通して頂くんだというわけです。

 七番目は「安穏と名づく」「現世安穏、後生善処」と『法華経』(「薬草喩品」第五=開結二八二)にありますが、何よりも赤ちゃんにとっては、お母さんといる時が一番これは安心です。お母さんの懐に抱かれている時が、一番、赤ちゃんにとっては、それ以上、健やかな安穏な場所は何処にもそれはないのであります。それは決して病院のベッドの中が安穏の場所ではない。たとえどんな所であってもお母さんのいる所が安穏の場所であります。

 ですから『心地観経』というお経の中には、「諸の世間に於て何者か最も富み、何者か最も貧しき。悲母の堂に在す之れを名づけて富と為し、悲母在さざる之れを名づけて貧と為す」(大正蔵三−二九七・C)

とあります。赤ちゃんにとって一番豊かであり、一番富んでおる、一番安心だという所は、お母さんの所にあることである。今、自分のお母さんがいないということが子供にとっては一番貧しいことであり、一番それが辛いことであり、一番暗いことなのである。人生の暗黒は赤ちゃんにとって、お母さんがいないということなんだということを説かれております。

「悲母の在す時、名づけて日中と為し、悲母の死する時、名づけて日没と為す」(同上)と。お母さんがこの世にいらっしゃることが、あたかもこの太陽の天に在すごときものである。お母さんが不幸にしていない、お母さんを亡くしたということは「名づけて日没となす」日の暮れのごとくだということを説かれているのであります。それほど、これは大人にとっても、やはり子供にとっても、お母さんがいないということほど辛いことはないのであります。ですから安穏、お母さんのことを「安穏と名づく」という風に言っております。

 八番目は「教授と名づく」授業の先生の教授。これは、いろんな善巧方便を設けて、よく子供を導く、しつけ、教育するという意味において、お母さんのことを「教授と名づく」というわけです。子供のしつけの問題は、やっぱり何よりもお母さんが大きな役割を背負っているとしなければなりません。そして皆様方のお子さんも、やはりお母さんに育てられたという部分が非常に多いのであります。男の子であれ、女の子であれ、将来は、やはり一人立ちして、一個の社会人として出ていくわけであります。その時に、やはり一人前の人間としてやっていけるように、女の子ならば、どこにお嫁に行っても十分にやっていけるように、やはり育てるのは、しつけるのは、またお母さんでありますから、そうした意味で、お母さんのことをを「教授と名づく」。良き人材に、わが子を育てていく。ですから皆さん方も自分の子供を自分の子供だけに育てるのではなくて、やっぱり、どこに行っても、どんな分野に進んでもやっていける、そういう人間にしていかなければなりませんし、またその信心を通して、信心の上での人材、大聖人様の子供として育てる、という位の一つ覚悟を持って、しっかりとこの信心を植え付けて、福徳を子供に授与して頂きたいと思うのであります。

 九番目は「教誡」教え誡(いまし)めるのです。「教誡と名づく」それは、善いことと悪いこと、その善悪、ものの善し悪しということを、やはりきちっと子供に教えていくということが大切であります。その衆悪・衆善を、ものの善悪を教える。また信心の上における善悪、その正邪ということも、きちっと子供に教える。そうしたよく教え誡める、「教誡」の徳をお母さんはまた持っていらっしゃる。そういう使命を持っていらっしゃるのだという風にお考え頂きたいと思います。

 最後は「与業」業を与える、与業。「与業と名づく」という風に言っております。これは「能(よ)く家業を以て子に付囑するが故に」(同上)これは子供さんに、いろんなお手伝いをさせたり、あるいは子供さんと一緒に何事か仕事をしたり、あるいは運動したり、家族で、みんなで、ある物事をきちつと成し遂げていきつつ、いろんな生活する力や、生きる力や、あるいは家族の意志やら、信心やら、そういうものを一つ一つ子供に、やはり授与していく、付囑をしていく、子供に与えていく。ですから皆様にとっては、信心というのは大事だということも、勤行ということも、あるいは功徳ということも、善根を積むということも、あるいは仕事の面のことも、あるいはお母さんならお母さんの人生観というものも、そうしたものを通して、一つ一つ子供に、日常の暮しの中で、それを授与していく、付囑をしていく。そうした意味で、与業、業を与える「与業と名づく」という風に『心地観経』には説かれております。

 どうか皆様方も、わが身にそうした十徳が備わっておるということを考えると同時に、そうした十徳を備えた良き母親となり、あるいはまた良き母親を目指して、一つこれから生きていって頂きたいと思うのであります。今日は母親に十徳ありということを御紹介申し上げまして本日の御挨拶に代えさせて頂く次第であります。大変、ご苦労様でございました。

(昭和六十二年九月六日)

 (註) 『大乗本生心地観経』巻第三「報恩品」第二之下の文の取意。「諸法無不因縁成 若無因縁無諸法 説無生天及悪趣 如是之人不了因 因無果大邪見 不知罪福生妄計 王今所受諸福楽 往昔曽持三浄戒 戒徳薫修所招感 人天妙果獲王身 若人発起菩提心   願力資成無上果 堅持上品清浄戒 起居自在為法王」等(大正蔵三−三〇三・A、B)とある。

 なお『諸経要集』巻第十四には「故経曰。欲知過去因。当看現在果。欲知未来果。但観現在因」(大正蔵五十四−一二九・C)とある。