日蓮正宗のススメ

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身口意三業にわたる精進

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『日曜講話』第四号(昭和63年9月1日発行)
身口意三業にわたる精進

 皆さん、お早うございます。大勢の御信者の長年の信心の姿というものをずっと拝しておりますと、やはりその姿の中に四つのタイプがあるように見受けられるのでございます。一つは、心に信じ、口に唱え、身に行ずるという有名な、身・口・意の三業の上から、全き信心を常に堂々と又、営々と貫いておられる皆様方のような、日々のそうした立派な精進を貫かれるという姿の方。皆が皆、そういう信心を全うして下ださると非常にこれは有難い事であり、又、皆様方にとってもそれは、日蓮正宗の信心を、大聖人様の弟子として全うされる。それがやはり、一つの理想の姿であり本当は皆がそういう姿でなければいけないと思うのであります。大聖人様は御承知のように、「火の信心」と「水の信心」(全一五四四)ということを言われております。 ある時は、燃え立つような信心をなさるけれども、ともすると、そこに波があって停滞してみたり、又、振返ってみたり、止まってみたり、又退いてみたりという風な波があることは非常にいけない。言うならば、本当に燃立つ様な信心を清らかに常に持続できる。そういう信心が一つの理想ということでありますけれども、しかし、なかなかそうはいかない。せめて、一日一日何等かの形において、この発心を繰返し、又、精進の心を忘れずに、一つの執念みたいなものをもって、そして、一日一日、自分の課題を、自分の使命をやり抜いていく。そうして少々のことがあっても、辛いことがあっても、何があってもそれを乗越えていくということが一つの信心の在り方だと思うのでございます。ですから心の内にも、しっかりとした信心を持ち、身の上にも、しっかりとした実践の伴った信心ということが大切だと思うのであります。

 その次には、心には信ずるけれども、なかなか身に伴わない。実践の伴わないという人がやはり皆様方の回りにもいらっしゃることと思うのであります。成るほど、御本尊を受けて一応、心の内では一生懸命、信心を持っているように見えるけれども、なかなか実践が伴わない。なかなか勤行が貫けない。あるいは会合にも出て来れない。寺院にも参詣出来ない。総本山の登山もなかなか、やはり実践が出来ないというような、心には決して信ずる心は持っていないわけではないけれども、しかし行動が伴わない。そういう姿の人が中にはございます。反対に身は行ずるけれども、心が定まっていないというタイプの人も中にはあります。声をかければ非常に喜んで実践をしてくれる。会合にも出てくれる。手伝ってもくれる。ですけれども、ちょっと何かあると、もう信心の姿勢が出来ない。あるいは心がぐらついてしまう。という非常に起伏の激しい信心。ちょっと人から親切にれている、自分が注目されている、大事にされているということが認識出来る時には良いのですけれども、しかし、ちょと声をかけてあげなかったら途端に来なくなる。あるいは、ちょっと何かあると怨嫉をするとか、そうした非常に我が儘な起伏の激しい心の人が中にもございます。

 よく御法主上人猊下に「信伏随従」するということを言われます。「信伏随従」ということはどういうことかと申しますと、人間は順調な時というのは、誰でもその人の指示に従うことが出来るのであります。御主人が会社に出ておられる。例えば、社長や部長や課長や、その上司の指示に従うという時も、自分が、なるほど上司に信頼されている。そして自分にある仕事の分野を任せてくれる。自分が信頼されているということが確信出来ている時、あるいは、自分が陽の当たる道を歩いているということが実感として分かる時には誰だって、社長や部長に随従することは出来るのです。ところが、激しく叱責された時激しく自分の不始末を叱責されたり、あるいはどうも自分より他人の方が重要視されているのではないかという風に思える時、何となく自分が信頼されていないように思える。何となく自分が冷や飯を食っているように思える。そういう何となく心が晴れない時に、その時でもやはりその人の信頼に応える。その人の指示に従うということが、実は本当の「信伏随従」ということなのです。ですから人間は、あたりまえ以上に、人以上に自分が重要視されているとか、信頼されているとか、自分が恵まれている境涯にいる時には、誰だって得意になって一生懸命やる。又、一生懸命やれる。やるから又信頼されるのでありましょうけれども、ともすると、そういう陽の当たる坂道にいる時には従うけれども、ちょっと何かあるともう従えない。自分よりも他人が重要視されると、途端にもうそれに対して腹を立てて、それでその上司に恨みつらみを持って、怨念を持って上司に対するというようなことではいけない。むしろ、そういう不興の時に、自分がともすると信頼されていないと思われる時に、なお一層、一生懸命にやり通して、そうしてその信頼を得る。それは人が見ていようが人が見ていまいが、物事というものは、見た目、その人の目の前だけでやるということではなくて、常に誰が見ていようと見ていまいと自分が与えられた課題に対して一生懸命貫くということが大聖人様の「陰徳陽報」(全一一七八)という御指南の通り、陰でのその徳がその振舞いが、やはり陽報となって現れてくるわけであります。ですから、そういう一時的な見せ掛けの精進、見せ掛けの頑張りということではいけないのであります。「陰徳陽報」ということをしっかりと心に置いて常にしっかりと貫く。そうしたものが、やはり徳となり信頼となって自分の振舞いが、自分の信心が、自分の総てが玉の光となって輝いてくると思うのであります。ですから、そういう随従するとか信伏するとかということは信心というものは、むしろ陰において、人の見ない、いない所において、あるいは人の嫌がるところを率先してやり抜くということがあって、それが又、素晴らしい徳となり輝きとなっていくのだということを、しっかりと心に置いて頂きたいと思うのであります。

 一番悪いのは、心も信ずることが出来ない。又、身も行ずることができない。箸にも棒にもかからない。どうしょうもないというのが、又あるわけでございまして、やはり大勢の御信者の中にも、名前だけ、名簿上だけは生きているけれども、勤行の実践も信心の活動も、自分の一人立ちの信心が出来ていないという人が中には不幸にしてあるのであります。しかし折角入信をし、私達の仲間に入った以上、やはり、その人を消すことは出来ない。除外するということはいつでも出来る簡単なことであります。しかしそういう箸にも棒にもかからない人を、なおかつ又、まともな信心が立っていくように、それを教え、導き、引張っていくことが大切なことなのであります。そういう人といえども、それを見放してはいけない。見捨ててはいけない。やはり三十回、五十回、六十回、百回と通って、その人の心を、その人の仏性を揺り動かしていく。やはりその人も一緒に縁あって正宗の信徒になったのでありますから、その人を全うな信心の人に育ててやっていかなければいけない。そういう使命も又、私達は持っておるということを一つの心に置いて、これからの信心を全うして頂きたいと思う次第であります。

 大聖人は『顕立正意抄』という御書の中に、

 「或は信じ、或は伏し、或は随い、或は従う。但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は、設い千劫をば経ずとも、或は一無間、或は二無間、乃至十百無間疑無からん者か。是れを免れんと欲せば、各薬王、楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山、国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾からずんば五体を地に投げ、偏身に汗を流せ」(全五三七)

ということを仰っておられます。どうか一人一人が自分の分々に応じて、とにかく、心の上においても、口の上においても、身の上においても、精進の志をきちっと持って、そして自分らしい、大聖人様の弟子として恥ずかしくない信心、そういう自分の信心を自ら教訓して、自ら励まして自ら力づけて、自らを精進できる、そういう人になって頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年九月十三日)