日蓮正宗のススメ

法華講員のブログ

一心欲見仏 不自惜身命

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『日曜講話』第四号(昭和63年9月1日発行)
一心欲見仏 不自惜身命

 ただ今、勤行致しました「寿量品」の自我偈の中に「一心欲見仏・不自惜身命」という経文がございます。「一心欲見仏・不自惜身命」ということは昔から言われることでありますけれども、この大聖人様の信心を全うするということにおいて、また今までの宗旨を捨てて日蓮正宗に帰依する、入信をするにも、今はそのことによって迫害が自分の命にさえ及ぶということは、ほとんど、あり得ない、全く有り難い時代になっております。

 しかし、大聖人様、日興上人様の時代は、あの熱原の三烈士のことをまつまでもなく、入信するということにつきましても、また信心を全うするという上においても、本当に命懸けの時代であったのでございます。そうした時代がずぅっと江戸の時代にまで及びまして、登山をするということにつきましても、金沢の法難というものがございまして、金沢の法華講衆の人々は、その藩の禁制の時代において、この正宗の信心を全うするということが、いわゆる藩命によって許されない、そういう時代があり、また、そういう国土世間にお住まいであったのであります。そうした中にも大聖人様の信心に目覚めて、また日蓮正宗の信徒として生きる人があったのでございまして、例えば参勤交代の行列の中に加わって藩主にお供をしながら、ある時、富士の吉原の宿に逗留致しました時に、みんなの寝静まる時を待って、そして秘かに約十五キロの道のりを夜陰に紛れて、総本山に駆け登って、そして御宝蔵の冷たい石畳の上に坐って本門戒壇の大御本尊様に向かって唱題をし、勤行をし、そしてまた夜の明けないうちに吉原の宿まで抜け駆けをして帰りまして、そして朝はみんなと一緒に藩主のお供をして江戸に向かったという、そうした金沢の法華講衆の人々の本当に辛い登山の物語りの文書が今日まで残っております。そうした時代の人々にとってみれば、「一心欲見仏・不自惜身命」と、この妙法を求めるために身命を捨てる、身命を惜しまないということが、ひしひしとして実感として我が身の上に感ぜられたことと思うのであります。

 そうした意味からしますと、今は、大聖人様の信心に目覚めたと言って、ある人は中傷し笑い、何だかんだと悪口罵詈(あっこうめり)し、反対の魔の働きをする人はいるかも分かりませんけれども、私達自身が大聖人様の弟子となったから、この命にも及ぶ、あるいは改宗を迫られて処刑に会うというようなことはあり得ない、全く良い時代に私達は生まれております。

 そうした時に、一体この不自惜身命ということを、どのように考えていったら良いのか。総本山に第二十二世日俊上人という方がいらっしゃいましたが、この日俊上人の、「寿量品」の講義を遊ばされました御指南によりますと、不自惜身命ということに、大きく分けて二つの意味があるということを説かれているのであります。一つは世間における不自惜身命と、出世間、つまり仏道を行ずる上においての不自惜身命ということと、二つにおいて考えられたいということをお示しでございます。その世間におけるところの不自惜身命ということはどういうことかと申しますと、それは自分の仕事とか、自分の役割とか、自分の果たすべき責任ということ、そういうものをきちんと守っていく。少なくともこの妙法を行ずる者として、正しい信心を全うする者として、世間の人からそうした仕事の上で、自分の役割の上で、使命の上で、何だかんだと言われるような情けない人間になり下がってしまっては、決してこれは不自惜身命の人とは言えないということを教えておられるのであります。ですから職場にあっても、また、いかなる会社にあっても、その職責の上において、やはり、さすがに信心をしておる人だと、さすがに大聖人様の弟子として生きておる人だと言われる、そうした職責をきちっと果たす、そういう責任感を持って一つ一つやり抜く、果たし抜くという、しっかりとした使命感を持った人になって頂きたいということを教えておられるのであります。

 もう一つは、良く孝養を致すということを説かれております。家族の中にあって、あるいは兄弟の中にあって、親戚一族一門の中にあって、良く孝養の人だと言われる人、心根の正直な、心根のやさしい人だ、いい人だと信頼される人になっていくということが、それがまた不自惜身命。自分の心身を磨く。また人と人との間の信頼関係をきちっと貫いていく。そういう上において、不自惜身命ということを考えて頂きたいということを教えて下さっているのであります。

 そして更に出世間、仏道を行ずる上においての不自惜身命、それは法を求める上において、その求道心、発心という上において、不自惜身命でなければいけないということであります。この発心ということは仏法の世界では一番大切なことでありまして、「発心は万行の半(なかば)なり」という言葉があります。物事は何でもそうです。何でも発心するという心がないと、いかなることも成就しない。発心するということが既に出来れば、物事は半(なかば)、つまり半分成就しておるという風に考えてもいいということさえ教えておられるのであります。物事はどんなことでも、自分が心に期する基を持って、営々として発心を重ねていく。一日一日、発心を重ねていく、ということの積み重ねが非常に大きな結果を生み出していくのであります。ですから信心の上においても発心、又道心とも申します。

 伝教大師という方は『学生式』(がくしょうしき)というお書き物の中の冒頭に、

 「国宝とは何物ぞ、宝とは道心也、道心ある人を名づけて国宝と為す」(伝全一|五)

ということを言われております。国の宝というのは、今人間国宝とか、あるいは国宝というと、すぐ建物とか、京都や奈良の古い仏像とか、そういう物が国宝だと思っておりますけれども、本当の国の宝というのは、一人一人の心の問題。一人一人の人間が持っておる正しい正法を求める心というものが本当の国の宝なのだ。その人の宝なのです。なぜならば、その人の道心がその人の人間を変えていく。

その一家の人々のお互いの道心が、正法を求めるその求道心が一家の繁栄につながっていく。一家の改革につながっておる。そしてまた一人一人の人間の発心の志が集まって地域社会が変革されていく。またそれが国の全体に及んでいくとするならば、一人一人のその求道心、発心というものが結局、人を変え、家族を変え、社会を変え、国を改革していく、そういう道につながっておるということを、既に今から千二百年も前に、伝教大師が教えているのであります。いかに発心というものが大切かということを、よく我々は考えなければいけないと思うのであります。そうした発心の上において求道心の上において、一人一人が不自惜身命の志に立って頂きたいということなのでございます。

 それと同時にやはり、それは自分だけの発心、自分だけの修行、自分だけの道心ということではなくて、自らがこの大聖人様の信心を貫きながら受けた功徳を、その喜びをもって、また人を度するということにおいて、不自惜身命でなければいけない。人を教化し、この妙法を流通(るつう)する上において、広宣流布という志の上において、また「一心欲見仏・不自惜身命」でなければいけないということを、日俊上人はお説きになっていらっしゃるのであります。今、私達は一人一人がこうして本当にすがすがしい朝を迎えて、このようにみんなで集って勤行が出来る。この幸せを噛みしめると同時に、やはりその中で一人一人がその分々において、不自惜身命の志をもって発心をし、不自惜身命の志をもって、この妙法流通のために御精進を頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十二年八月三十日)