日蓮正宗のススメ

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引き題目の意義について

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
引き題目の意義について

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 皆さん、お早うございます。皆様方も妙光寺に御参詣になり、あるいは又、皆様方のお家に御安置申上げました御本尊様を拝しましと、「南無妙法蓮華経」と七文字のお題目が認められておりますが、お題目のそれぞれの御文字を、ずうっと長く延ばしてお認めになっていらっしゃいます。そして又、初座や二座や三座、四座までの勤行におきまして、引き題目と申しまして「なぁ−むぅ−」とお題目を延ばしてお唱え申上げます。どうして、このようにお題目のお認めが、書写する上において、長くなびかせておられるのか、引き題目を唱えるのか、その意義という事に就きまして、皆様方もどういう理由があるのだろうかとお考えになる方もいらっしゃると思うのであります。

 これは大聖人様から日興上人に伝えられました『御本尊七箇の相承』というお書き物が宗学要集の中に残っておりますが、その中(宗要一−三一、聖三七八)に、その意義が説かれておりまして、その理由を一つ申上げますならば、大聖人様が『三大秘法抄』に仰せのように、

 「今、日蓮が唱える所の題目は前代に異なり自行化他に亘りての南無妙法蓮華経なり」 (全一〇二二)

ということであります。従って、この広宣流布の題目として、自行化他にわたってなびかす意味がそこにあるわけであります。

 もう一つの意味は『報恩抄』という大聖人様の長いお書物がございますが、その末文に、

 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし」(全三二九)

末法万年にわたって、その慈悲が伝えられ、又なびいて一切の法界の人々を救済していく、その大聖人様の妙法の功徳と、その慈悲の大きさと、それがずっと末法万年に伝えられていく。その永遠性ということを表しているわけであります。もう一つは、中には髭題目なんて馬鹿なことをおっしゃる人がありますが、そうではないのでありまして、これは光明点と申すのであります。光明、妙法蓮華経の明らかな光が煌々と流れて、伝えられていくことを示しているわけであります。言うならばこれは光明点の光であります。これは大聖人様の『日女御前御返事』という御書がございます。その御書の中(全一二四三)に、大聖人様は、三世十方の仏、菩薩、二界八番の雑衆等々に至るまで、総ての衆生がこの南無妙法蓮華経の光明に照らされて本有の尊形となるということを、お書きになっていらっしゃいます。その光明に照らされて、十界の諸衆が悉くその仏界を成じて成仏しておる。又その中央に在します南無妙法蓮華経に対して、帰依渇仰しておる一切の法界の成仏した姿をそこに顕されておられるわけであります。

 そこで唱える題目、引き題目というものの基本はどこにあるかと申しますと、これは大聖人様が建長五年四月二十八日に房州の古里、大聖人様が御誕生になり、幼少に修行された、又、日本国の中心としての房州の小湊にあって、その旭ヶ森から、大聖人様が遥か遠く太平洋上を望んで、法界の衆生、あるいはその一切の衆生世間に向かって、国土世間に向かって、五陰世間に向かって、その三界の総てを救済するという、末法の元初の仏様の御境涯において、唱えられた題目というものが基本なのでございます。大聖人様がその旭ヶ森からずっと遥か太平洋上を望んで、一切の宇宙法界の成仏を又、一切の末法の五濁の衆生を救済しなければならない。救済せんとして唱えられたお題目、法界のことごとくの成仏を大聖人様が心に期して、それだけの大きな意義と確信と、そして又、勇猛精進の大聖人様の御精神の上から唱えられた題目というものを考えますと、それは「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と鉄砲玉のようなお題目であったとは思えないのであります。す−っと法界の全体に、世界の一切の衆生の命の底に透徹して、染みわたっていくようなお題目を唱えられたはずなのであります。そのお題目は、雄渾の題目であります。この法界のありとあらゆる所に響け、到達せよというほどの確信をもって唱えられた題目。やはり「なぁーむぅー」と法界全体を、ずうっと潤す題目であったと思われるのであります。

 そうしますと、私達も毎日毎日、勤行の時に唱える題目も、その大聖人様のそうした建長五年四月二十八日の第一声を唱えられた題目、そうした意義をよく心に置いて、皆様方もお題目を唱えて頂きたいと思うのであります。引き題目というのは、ただ単に唱題の省略形ということでは決してないと思うのであります。そこには大聖人様の建長五年四月二十八日の立教開宗の御精神に立って、そして又、そこには一切の人々に対する自行化他の意義をもち、末法万年の人々に対して大きな慈悲を伝えて、そして法界のありとあらゆる衆生を救済していく、それほど大きな意義をもったお題目なのだということを、どうか皆様方お一人お一人が心の隅に置いて、お題目を唱えて頂きたいという風に思うのであります。

 今日は又、七月十九日でございます。この十九日という月日を、日時を考えますと、確かに一月から十二月までの間には十二回、十九日という日がやって参ります。ですけれども、七月十九日というのは一年の間には一回しかないのであります。もうちょっと考えまして、昭和六十二年の七月十九日はということを考えますと、私達や皆様方の生涯には、二度と再びない昭和六十二年の七月十九日であります。そう思うと今日の一日というものが、実はどれほど大事な、どれほど貴重な一日なのかということがお分り頂けると思うのであります。やはり人間は、そう思って時というものを、今日一日というものも大事にして、悔いのないように生きていくということが大切だと思うのであります。一日一日、安閑として無為に過ごすか、それとも今日という日が、わが生涯に二度とない今日なのだということを考えて暮らすのか、ほんのちょっとしたことで人間の生き方というものは変わるものでございます。どうかそういうことも一つ心に置いて、一日一日信心に住していって頂きたいということを申上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年七月十九日)