日蓮正宗のススメ

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輪円具足・功徳聚の御本尊

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
輪円具足・功徳聚の御本尊

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 皆さん、お早うございます。天台大師という方は『摩訶止観』という大変ぼう大なお書物を残しておられますが、その一巻の中にこういう有名な言葉を残しております。それはどういうことかと申しますと、

 「円の法を聞き、円の信を起こし、円の行を立て、円 の位に住し、円の功徳を以て、而して自ら荘厳し、円 の力用を以て衆生を建立す」(大正蔵四十六−二・A)

という言葉を残しているのであります。この円の法、円の位とか、円の行、この円というのは一円二円の円という字を書きます。円(まどか)という字を書きますが、これは具足円満ということでありまして、その仏の本意、仏の仏智、仏の智慧、仏の意、仏の本誓願、仏の悟りというものが、きちっと整足、具足円満した教えということが円、円満の法、円の法ということであります。

 もっと言葉を変えて申上げるならば、大聖人様は「名体宗用教の五重玄」ということを仰せになっておられます。南無妙法蓮華経の名目、南無妙法蓮華経の法体、南無妙法蓮華経の功徳、南無妙法蓮華経の法門、又、南無妙法蓮華経の用(はたらき)、作用というものが全部、具わった根本の法を信ずるということであります。、根本ということは同時に最も勝れたという最勝という意味と、最第一、唯一絶対という意味がそこにあるのであります。 ですから最勝第一の正法の話を聞き、最勝第一の信心を起こし、最勝第一の行を立て最勝第一の修行をし、最勝第一の位に住して、最勝第一の妙法の功徳をもって、一人一人のこの命を荘厳する。命を飾る。ですから、お化粧をして飾るとか、洋服を着て飾るとか、何か装飾品を付けて身を飾るというのではなくて、本当の人間の輝きというのは、その最勝第一の正法を持って、自分の命の底からその人の輝きを増していく、その人を造っていく、荘厳するということが大切なのだということを教えているのであります。そして最勝第一の妙法の力用、その力と用(はたらき)と功徳によって、その衆生を建立する、人間を造る、人間を育む、人間のこの福徳を身に付けるということの大切さということを天台大師は『摩訶止観』という書物の中に教えているのであります。

 大聖人は、この円の法ということについて、功徳円満の法ということを教えられまして『十八円満抄』(全一三六三)に、円というは満足の義、つまり、仏のその法門、仏の法体、その一切が、ことごとく本誓願を含めて満足した、その本懐の教えでなければいけない。その法をもって、初めて具足円満の義が整ったということが言えるのだということを御指南遊ばされておられます。更に『開目抄』にも、「妙とは具足、具足とは満足の義」(全二〇九取意)という風に説かれております。そして有名な『日女御前御返事』の中(全一二四四)にも、「曼陀羅と言うは」大聖人様のこの大曼陀羅と言うは「天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」ということを教えておられます。

 前にも大聖人様御自身には、末法の仏様として主師親の三徳、師匠と弟子の関係、つまり大聖人様は末法万年の人々の師であり、私達はその弟子であります。そこに御本尊を通して、功徳を通して、教義を通して、大聖人様と私達の間には、師弟の関係が成立つということを申上げました。そして又、救済する大聖人様の、仏様の境涯と私達の間に、仏と衆生との関係、救済する仏と救済される私達の十界の衆生との関係が成立っておるということを申上げました。又、功徳の面において、慈悲の上から大聖人様は慈悲を与える仏であり、私達はその慈悲を頂く、あたかも仏の子供であります。大聖人様が父親ならば私達はその子供でありますから、そこに親子の関係、師弟の関係、仏と衆生の関係が成立つ。その主師親の三徳の関係が成立って初めて、そこに仏法の上における信心の意味が成立つということを申上げました。

 それと同じように、御本尊様と私達の間に、ただ今、申上げましたその一つには輪円具足という関係が成立たなければいけない。つまり御本尊というものは、ただ闇雲に仏像であるとか、例えば阿弥陀さんであるとか、大日如来であるとか、あるいはキリスト教の十字架であるとか、マリアの像であるとか、そういうただ偶像、あるいは架空の世界の権仏や、あるいは仮の仏というものを、いくら仏像に刻んで、あるいは信仰の対象として拝んでみても、そこには救済の手だての関係というものは成立たない。その御本尊には一念三千の法門が成立っていない。今、申上げるところの仏の本意も仏の悟りも、そして又、仏の教義、法門、又、救済の道理というものが具わっていなければそれは御本尊とは言えない。という意味で御本尊には輪円具足のそうした一つの徳分が具わっていなければならないのであります。

 そして又もう一つには、大聖人様は功徳聚と仰せになっていらっしゃいますように、そこには一切の人々を救済するところの功徳というものが、その用(はたらき)が、その法門が、きちっと具わっていなければいけない。十界互具・一念三千の法門の道理が、きちっと具わっていなければ、十界の衆生を、例えば地獄界の衆生を救済する、餓鬼界の人を救済する、畜生界の人を救済する、あるいは人間、天上の、あるいは二乗の人々を救済すると言っても、その御本尊そのものにそうした十界互具・一念三千の法門が、十界の命が、仏界の命が具わっていなければ、そこに境智冥合して、一切の人々を、ことごとく仏界へと導いていく、そうした原理が具わらなければ、まず御本尊として信仰の対象には成り得ないということであります。

 そうした輪円具足という徳と同時に、功徳聚という用(はたらき)と、そしてもう一つはその道場という意味が成立たなければならないのであります。日蓮正宗におけるこの寺院も、皆様方の御家庭に御本尊を御安置申上げるということも、御本尊を御安置申上げた所が即、修行の道場、義の戒壇。総本山は又、事の戒壇戒壇ということは道場という意味であります。その御本尊を安置して、一日、南無妙法蓮華経と唱えて修行する、その修行の道場という意味がそこに成立たなければ、又信心は成立しないのであります。

 ですから大聖人様御自身に人の本尊の上に主師親の三徳の関係が成立つ、同時に大聖人様が命懸けで顕わされたところの御本尊「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ、信じさせ給え」(全一一二四)と仰せになって私達に授与遊ばされた御本尊様の中に、そうした道場という意義と、輪円具足という徳分と、そして又功徳聚、功徳の集り、功徳の用(はたらき)、その功徳の一切が、最第一の功徳が、そこに具わっておるという意義があって初めて、大御本尊、一閻浮提第一の本尊と言われる意味がそこにあるのであります。どうか皆様方は、そうした大聖人様の三徳具足の御本尊、一閻浮提第一の御本尊を持ち、一閻浮提第一の信心を持ち、一閻浮提第一の修行をし、一閻浮提第一の妙法を持った人の位に立って、境界に立って、そうして一閻浮提第一の福徳を身に付ける。そうした信心を貫く者だという誇りを持って、これからも日蓮正宗の信心を全うしていって頂きたいということを申上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年七月十二日)