日蓮正宗のススメ

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世間の魔に紛動されるな

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
世間の魔に紛動されるな

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 皆さん、お早うございます。皆様方も、この日蓮正宗に帰依なさってから、もう二十年、三十年とおなりになる方もいらっしゃいますでしょうし、又一年、二年という方もいらっしゃいますし、唯今、御授戒を受けられ新しく御本尊様をお受けになった方もいらっしゃいます。その長い信心の過程の中におきまして、ともすると御親戚の方々や、おじさん、おばさん達から、あるいは御兄弟の方々から「自分の家は先祖代々、真言宗だった。あるいは田舎のお寺では古来、禅宗の大きなお寺の檀家総代をしている家だ。そういう自分の家は家柄なのだ。それをお前の代になって念仏や真言禅宗を捨てて、そして日蓮正宗に帰依した」ということをもって、ともすると田舎のおじさん、おばさん達は「お前達は親不孝をしているのだ。先祖を蔑ろにしているのだ。お祖父さん、お祖母さんは皆、念仏で送られていったんだ。そうした寺院に今でもお墓があるのだ。そういう先祖の宗旨を捨てて、先祖の意向に逆らって、お前達は日蓮正宗に入った。しかもよりによって創価学会に入った。とんでもない奴だ」と言われる。心ない御親戚のおじさん、おばさん達が、法要や年回等々に集まりますと、寄ると触ると皆様方の信心に対して、中傷する人が多いと思うのであります。

 そうした時に、よく冷静に考えて頂きたいことがあるのであります。それは先般も申上げましたように、宗教とか、あるいは御本尊とか、仏法とかいうものは、われわれの凡夫の浅はかな知恵でもって考えてはいけないということなのであります。どこまでも仏の教えでありますから、いっさい、経文の上に、大聖人様の教えの上に、そうしたことに対してどのように説かれておるかと言うことを正しく学び、その上から判断しなければならないのであります。世間の人の思い付きや、親戚のおじさん、おばさんの心ない中傷の言葉に、皆様方は決して紛動されてはいけないということを強く皆様方に訴えて申上げたいと思うのであります。

法華経』という御経の「宝塔品」の中に、

 「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我則ち歓喜す、三世の諸仏も亦然なり」 (開結四一九)

ということが説かれているのであります。この一閻浮提第一の正法を持って、この信心を貫くということは非常に難しい。又、非常に勇気のいることであります。それは皆様方が既にお一人お一人が体験されておられることと思います。今そのように親戚の人や兄弟や色々な人達が、皆様方の信心に対して、とやかくおっしゃる。だからこの妙法は持ち難い、だからこの妙法を貫くということは難しいのであります。しかしながら、難しいから実は尊いのであります。人に何と言われようとも正法を貫くということが、如何に又、大きな素晴らしい意味をもっているかと言うことは、むしろ世間の心無い人が悪口を言い、蔑み、笑い、中傷し、そして信心をさせまい、信心をさせまいと、束になって皆様方の身の回りに襲いかかってくる。そうした障魔に打勝つということが、実は又、尊いこの信心の大きな功徳の源泉でもあるわけであります。「この妙法は持ち難し、暫くも持つことあらん者は我則ち歓喜す、三世の諸仏も然なり」と、大聖人様を初め、三世十方の仏は歓喜して、その妙法の行者を守るのだということを経文に説かれ、又、大聖人様は、『法華初心成仏抄』という御書の一番最後のところ(全五五七)に、そのことを御説きになっておられるのであります。ですから皆様方も、その心ない御兄弟や親戚の人々の言葉に紛動されるのではなくて、その時こそ大聖人様の教えをしっかりと心に銘記して、堂々とそうした、邪義を「経文の上にはその様な事は説かれておりません」はっきりと「大聖人様の御指南の中には決してその様なことは説かれておりません。仏の正法を持つということが如何に大事であるか、それが信心なのだということを大聖人様は御説きになっておる」ということを、そうした経文の一句一節を示して、破折をしてあげて頂きたいと思うのであります。

 それは又、道理の上から申しましても、皆様方の代になって念仏を捨てて、邪な信心を捨てて、正しい正法を持つということは立派な信心の道なのであります。ともすると世間の人は、この信仰の自由、憲法二十条に保証されているから信心は何をやってもいいんだと、自分の心のままに、好き勝手にやればいいんだという風に考えております。しかし、そうではありません。それは我が儘というものでありまして、小説の本を選んだり、皆様方のネクタイを選んだり、洋服を選んだりというような世界では、それは好き勝手で結構であります。しかし自分の心身の総てを託す大事なこの信心、一人一人の成仏、不成仏に関わる大事な信心の目的から言うならば、悪を捨てて善を持つ、邪なものを捨てて正法に帰依するということが信心の先ず基本的な在り方でございます。それを世間の人は何ら考えることなく、ただ先祖代々、先祖代々ということをおっしゃるのであります。そんなに先祖が好きならば、車に乗ることをやめて昔のように駕籠にお乗りなさい、靴を履くことをやめて草鞋を履きなさい。そこまでやって、先祖、先祖と言うなら、それは先祖の宗旨も良いかも判りませんけれども、とっくに生活の上でも、考え方の上でも、ありとあらゆる世界で先祖の時代の物を払拭して新しい生き方をしながら、こと信心だけは先祖、先祖と皆さん先祖に拘るのであります。それは如何に愚かなことであるかということを考えて頂きたいのであります。

 又、先祖の皆さんも我々と同じ様に、ごく普通の人間だったはずであります。江戸時代の御先祖も室町時代の御先祖も、明治時代の皆様方のお祖父さん、お祖母さんも、お父さん、お母さんも皆、ごく普通の当り前の人間だったはずであります。当り前の人間が子供に対して何を望むかといいますと、ごく普通にこの子供の個性のままに幸せになって頂きたい。自分の我が子、我が孫の幸せを願わない親はいないはずであります。ですから、その親の気持から言うならば、今こそ好い加減な、邪な信心を捨てて正しい信心に自分の子供が就いた、孫が就いた、本当の親ならば、むしろ歓喜して喜こんでくれるはずです。それを「よくも念仏を捨てたな、よくも禅宗を捨てたな、よくも真言を捨てて、呪って呪って呪い倒してやる」そんなことをおっしゃる御先祖は、ただの一人もない。そんなことはあろうはずもない。それを思いつきで親戚のおじさん、おばさんは、そういうことを言うのであります。仏法のことは仏法の鏡に照らして判断しなければいけない。経文に照らして、その仏の真意から、仏の本意から、仏の意に従って仏法の正邪を判断しなければならないのであります。それをただ闇雲に先祖代々何百年この宗旨を貫いてきたとか、やれお墓を捨てたとか、信心を捨てたとか、そういう本当に、わけの分からない、くだらない思い付きでもって、皆様方の信心をさせまい、この正法に就かせまいと、内にも外にもありとあらゆるところから、そのような声が澎湃として、魔が競い起こってくるのであります。そうした時こそ皆様方はそれが即、魔だと知り、打ち破って、この信心を全うして頂きたいと思うのであります。

 しかも大聖人様は、『法蓮抄』という御書の中に、今、皆様方がただ自分だけのためではない、過去の父母のために、先祖代々の人々のために、この御本尊のもと、お題目を唱え、たとえ一本の塔婆であったとしても、それを供養して、しかも自らが題目を唱えて、その妙法の功徳を供えてあげるとするならば、先祖代々の方々は、もはや皆様方に対して単なる子孫ではない。単なる子供ではない。

 「善知識なりとて娑婆世界に向かっておがませ給うらん」(全一〇五一)

と大聖人様はおっしゃっているのであります。その時、回向される、供養される先祖の精霊は皆様方の、その尊い志に対して信心に対して、歓喜して感涙の涙にむせんでおるぞということを、大聖人様は教えて下ださっているのであります。ですから、そうした時こそこの一閻浮提第一の正法を持って、その正法の功徳に依って、力に依って、そのはたらきに依って、十界互具・一念三千の法門の、その道理に従って、正しい御本尊の下に正しい供養をし、最も大きな功徳を供えてあげる。これこそ最善の報恩であり最高の孝養なのだと、大聖人様は教えていらっしゃるのであります。その行為に対して、その信心に対して、その振舞いに対して、御先祖は喜びこそすれ、三世十方の諸仏は歓喜してその尊い信心の人を守るということをおっしゃっておられるのでありますから、常に皆様方はそうしたことをしっかりと心に置いて、世間のどんなに有名な、どんなに力のある人がおっしゃろうとも、そうした個人的な、浅はかな我見に決して紛動されない、強い信念の持ち主になって頂きたいということを申上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年六月十四日)