日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

快馬は鞭影を見て正路に著く

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
快馬は鞭影を見て正路に著く

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 皆さん、お早うございます。皆様方も御存知だと思いますが、仏様の別称・尊称に十の呼名がございます。一つには「仏」という字を書きまして「ぶつ」ないし「ほとけ」と申します。あるいは世間の人から尊ばれるという意味で「世尊」と書いて仏という意味もございます。又あるいは天上、人界の師という意味で、「天人師」という言葉もございます。その十号の中に「調御丈夫」という尊称がございまして、これはどういうことかと申しますと、馬の鞍の上に跨がった馭者が良く鞭の加減を整えて、じゃじゃ馬や、荒馬や色々な馬がおりますが、その馬を正しく調教して真直ぐに動き出す、走り出す。その様に良く馬を調御するという意味で「調御丈夫」と言う。それは何を譬えているかと申しますと、人間、色々な心の曲がった人や、ねじけた人や、悪人や、あるいは根性の正しくない邪人がございます。そうした色々な境界の人々を、その機根を整えて、みんなそれぞれ立派な人間へとしたてていく。そうした特性を御持ちの方という意味で、仏様のことを「調御丈夫」という風に申すのでございます。

 その言葉の中から天台大師という方は『摩訶止観』という法華経の信心の在り方、修行の在り方を説かれた書物の中に、

 「快馬は鞭影を見て即ち正路に著く」(大正蔵四十六−四九・A)

ということを教えているのであります。これはどういうことかと言いますと、ただ今申し上げましたように本当の名馬、正しい馬というのは、それは鞍の上に跨がった馭者の振りおろす鞭の影を見ただけで、正しく真直ぐ走り出す馬が、一番の名馬なのだということを説いているのであります。

 これは何も馬の話ではございませんで、人間の在り方というものを譬えているのであります。つまり、物事や仕事や自分の責任や自分の使命というものを、人から言われて、あるいは人からやって見せられて、注意をされて、そうして初めて行動を起こすということではなくて、一つ一つ、先々自分で気が付いて、そして自分が発心して、自分の意志でそれをやり抜いていく。あるいは又、世の中の色々な無常感なら無常感、人間の生きざまということを良く見て、そして「自分はああいう人間にはならない、自分ならああいうことをしない。自分ならこのように改革していく。私ならこのようにやっていく」という風に、自ら仕事にせよ、家庭の問題にせよ、生き方にせよ、人生の取組み方にせよ、叩かれたり教えられたり、諭されたり叱られたり、そんなこと言われる前に、自分から一つ一つ考えて、そして改革をしていく。発心をしていく。そういう人間の生き方が一番理想なのだということを教えるために、馬の話をもってきて、馭者が鞭を振りおろす、その影を見ただけでその馬は正しく走り出す。そういう馬もいるのだということを教えておられるのであります。

 それは一つの理想の形であります。私達の、自分のことを考えましてもなかなか、そんなことが出来るものではありません。しかし、一つの理想は理想として、そういう生き方を目指していくということが大切だと思うのであります。それが第一の名馬と言われる所以であります。(雑阿含経巻第三十三=大正蔵二−二三四・A、止観弘決=大正蔵四十六−二一二・A)

 第二の馬は、馭者の振りおろす鞭の痛さを自分の尾っぽの毛先に感じた時に、真直ぐ走り出す馬が第二の馬だと言うのであります。人間に譬えて言うならば生老病死の四つの苦しみの中で「生苦」つまり生きていく上には生きていく上の悩みや苦しみというものが付きものでございます。人間は生れたその日から、ある意味では苦労が始まると言ってもよいわけであります。その生きていく上における色々な悩みや苦しみに対面したその時に、自分の今までの生きざまというものを良く反省して、そして正しい信心に依って自分の境界を高めて、そしてそれを一つ一つ解決していこうという積極的な取組み方が、そこにおいて出来るという人を、第二の名馬に譬えて仏は説いているのであります。人間のどんな悩みや苦しみにしろ、その時点、その時点において発心できる人が第二の人であります。

 第三の馬は、その叩かれた鞭の痛さを肌身に感じた時、背中や首筋やお尻を叩かれて、自分の肌身にそれを感じた時に正しく走り出す馬が第三の馬だというわけであります。人間に譬えて言いますと「生苦」の次に「老苦」老いというものが犇々と自分の身に迫って来る。四十代五十代になってきますと、自分のこれからの先行きというものが見えてくるわけであります。その時に「自分はああこんなことをいつまでもしていてはいけない。十代二十代の自分ではない。これでは自分の一生というものが台無しになってしまう」。ある意味では、人間は一日生きるということは、一日死に近ずくということでもあるわけであります。ですから「時」という字を分解してごらんなさい。これは「日」偏に「寺」と書くのであります。一日生きるということは一日一日お寺に近づいて来る。これが「時」ということでありまして、やはり老いというもの、自分の一生というものを考えた時に「ああこんなことをしていてはいけない。こういう自暴自棄な暮らしをしていては結局自分の一生が台無しになってしまう。今こそ発心して、正しい正法に就いて自分の生き方を改めて、そしてこれからの行く末を全うしないといけない」ということをつくづく感得できる人を、つまり第三の人として仏は説いているのであります。

 その次の第四の馬は、鞭の痛さを肌身を通して筋肉の中にも達するほどまで叩かれて、初めて真直ぐ走り出す馬がいるというわけであります。人間に譬えて言うならば「生苦」「老苦」の次に「病苦」ということであります。人間は今はどんなに若さを誇り頑健を誇っておりましても、必ず病いに倒れる日が来るのであります。又、家族の誰かが病む日がやって来るのであります。そういう時々に、実際に自分が病魔に侵されて毎日毎日、来る日も来る日も眠れない夜を病院のベッドで過ごしながら、今までの自分というものを深く反省して「これではいけない。これで埋もれてなるものか」と、そこで初めて気がつく人が第四の人であります。ですから、その時その時に、如何に何を機縁にして本当の求道心、正法を求める心、発心の心に自分が住することが出来るかということを、仏は色々なタイプに分けて説かれているわけであります。

 その次の第五の馬は、叩かれた鞭の痛さを肌身から筋肉から、それを通り越して骨の髄に達するまで、叩かれて叩かれて叩かれ抜いて、初めて真直ぐ走り出す馬がいるわけであります。これも又、人間に譬えて言うならば生老病と三つの苦しみを越えて、いよいよ自分が死に至る病いに達して明日の命がわからない、お医者さんにも見離され、家族にも見離され、そして自分の明日の命がわからないという時になって、初めて気がつく人が第五の人であります。それでも、その臨終の間際にでも気がつくということは、まだ結構なことであります。しかし世の中には、そこに至ってもなお気がつかない、言われても諭されても教えられても聞く耳をもたない。あるいは見る目をもたない。とにかく、何と言いましょうか、心の曲がった人が多いものでございます。

 末法末法としての、末法に生きる人間の特性として五濁乱漫の時代の「劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁」(開結一七〇)ということが法華経に説かれております。皆様方の身の回りにも、そうした明日の命がわからなくなっても、なおかつ、皆様方の折伏の志が聞こえない、聞く耳をもたないという人が世の中にいることも事実であります。馬でもそうであります。馭者に叩かれても叩かれてもなお、走れない荒馬や、じゃじゃ馬がいるのでございます。果して自分は、その範疇の中のどこに属する人間であるかということを、お互いに良く考えて頂きたいと思うのであります。ここに集っている皆様方は幸いにして、この生老病死の四苦・八苦の中の何等かの時点において、どこかの時点において発心することが出来たわけであります。

 どうか、こうした馬の譬えを通して皆様方の御兄弟や友達や、あるいは色々な方々に対しまして、如何にして自分自身の生き方というものを改めて、そしてこの正法に依って、これからの未来を切開くということが、発心するということがどれほど大切なことなのかということを、良く教えてあげて頂きたいと思うのであります。今朝は、そのことを申上げまして一言、御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でした。

(昭和六十二年六月七日)