日蓮正宗のススメ

この世に生まれてきた意味を成し遂げるために

今日の一日を大切に生きよ

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
今日の一日を大切に生きよ

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 皆さん、お早うございます。今朝、御参詣の皆様方の過去遠々劫以来の謗法罪障消滅、家内安全、息災延命、信心倍増、現当二世、心願満足、並びに皆様方の御一家の御健勝と御繁栄の御祈念を懇ろに申上げました。又、ただ今、御授戒をお受けになり御本尊様を授与された方々は、これから日蓮正宗の信徒としてその信心を全う致されまして、これからの人生における一切の悩みや苦しみに打勝つと共に、この妙法の功徳をしっかりと我が身に受けて、これからの揺るぎない人生を、一歩一歩、開拓していって、悔いのないこの世の命を全うしていって頂きたいと念願する次第でございます。

 大聖人様のこの信心は、そうした現実の自分の一日一日と戦いながら、過去世、現在世、未来世と三世にわたっての、我が身の、我が命の改革を果たしていくというところに尽きると思うのであります。

 どんな人でも何年か、あるいは何百年か、何世代かの過去世というものがございます。そして現在の自分というものがあります。又、自分にも家族にも未来というものがあります。その過去、現在、未来と三世の中で何時が一番大切かということを考えてみますと、やはりそれは、今日という、あるいは今というこの現実というものが人間にとって一番大切なのでございます。昨日までの自分というものは、もはや、これはどうすることも出来ません。取返しがつきません。しかしながら、今日から明日に向かっての未来というものは、自分の心掛け次第で、自分の一念心次第で、どうにでもこれから改革していく、そして発展させていく余地というものがあるはずでございます。従って人間は、やはり今というものが一番大切なのだ、今日という日が一番大切なのだという思いで、余り十年、二十年先のことを考えるのではなくて、今日を基盤にしてまた明日、又来年という風に手近な未来と、手近な現当二世ということをお考えになって、そして今日の一日、今日の一日を悔いのない一日にしていく。自分なりに納得できる有意義な、今日は良い一日だったと、夕べに床につく時につくづくと、そのように自分が自分を評価できる、そういう一日にしていって頂きたいと思うのであります。ともしますと世の中の人達は、今日さえ楽しければ良い、今さえ楽しければ良いという風に考え、そうした享楽的な考え方が命を支配している人が多いのであります。

 これは、一つの数字のトリックでありますけれども、仮に人生を百年という風に規定致しますと、人間は良く考えてみると二十四時間のうち半分近くは寝ているとか、食事をしているか、あるいは何かをしておりまして、自分の手の届かないところで過ごしているわけであります。ですから人生百年と言うけれども、その半分ですから実際は五十年しかないということになってしまいます。ところが、どんな人も大体、十五才位までの間は親の下に、親の庇護の下にあって、幼い一日を生きてきているわけでありますから、約十五年という間は本当の自分ではない。まだまだ一人前の自分ではないということになってしまいます。ですから十五年を引いてしまいますと、あと残るのは三十五年しかない。又、今の皆様方は非常に御壮健でおられますけれども、やはり大体八十才を過ぎますとそんなに活躍は出来ません。頭も体も心もみんな老化してしまいます。そこで又、二十年を引いてしまいますと、結局、十五年しか残らないということになるのであります。ですから本当に真っ当な大人として、自分の人生に、仕事の上でも、あらゆる面でも、自分なりに活動が出来るというのは、実際はこの十五年位しかない。十五年というと、日にちに直しますと大体五千四百日、時間に直しますと十三万何千時間しかないのであります。そう考えますと今日という一日が如何に大事な一日であるかということが、つくづくお分りになって頂けると思うのでございます。

 ですから皆様方も、せっかくこの信心をなさったわけでありますから、信心を根本にして今日よりの一日一日というものを大事に生きていく、そうした考え方、習慣というものを、しっかりと今のうちに自分の生活の中に植えつけていって頂きたいと思うのであります。

 又、人の中には信心して五年なり、あるいは十年、十五年となるけれども、なかなか自分として功徳が頂けない。信心の歓びが歓喜が湧いてこない、そうした実証や体験がなかなかつかめない。功徳があるのかないのかさっぱり判らないと嘆く人がございます。

 しかし昨日のような雨の日でも、また今日のような晴間でも、実は太陽というものは常に燦々と注いでいる。雲の遥か上には、この太陽の光が充満しているということも厳然たる事実でございまして、雨の日には太陽がどこかに隠れたと、その光を止どめたということでは決してないのであります。

 この仏法の慈悲も、仏のこの妙法のはたらき、あるいはその功徳というものも万人の上に同じように平等に燦々と注がれているのであります。その功徳を受けられるか受けられないかということは、結局、仏法のせいではなくて、実は自分の信心の厚薄によるのだということを良く考えて頂きたいと思うのであります。

 学校の先生が四十人なら四十人の生徒に授業をされる。その先生は一人一人の生徒に差別をして授業をしているのでは決してありません。四十人なら四十人の生徒に同じように、同じ時間に同じことを教えているわけであります。それでもやはり、子供の受けとり方、勉強に対する取組み方、そうした自分の、生徒側の感覚によって出来る生徒もあれば、いい加減な生徒もあれば、中位の生徒もある。そこに、ばらつきが出来るのは先生が差別するからではない、むしろ子供の方に、子供の勉強の志の上にそれだけの違いというものが出て来るわけであります。

 信心もそうでありまして、大聖人様のこの仏法のはたらきと功徳とその慈悲というものは、総て平等に注がれているわけであります。それが自分の持って生れた境涯の違いや宿業の違いや、又、今の信心の決意、自分の発心の違いによって、あるいは下種したこの妙法の種を発芽させて、如何に育てていくか、そして又、如何に成長して花を咲せこの大きな実りを獲得していくかと、そうした自分の側にあるのだということを良く考えて頂きたいと思うのであります。

 又、天台大師は『摩訶止観』というお書き物の中に、信心の功徳は、ただ「遠近遅速」ということがあるだけだということを言っております。遠近とは遠い近いということであります。遅速とは遅い速いということであります。ですから功徳の現れ方の上において、その人その人、自分の一念心の違い、自分の発心の違いによって遅い速い、あるいは遠い近いということの差があるにしか過ぎない。功徳が妙法の光が燦々と皆様方の身の上に、皆様方の家庭の上に注がれているということは厳然たる事実だということを、一つ深く心に置いてあとは自分がそれを、どう発芽させて、どう発展させていくか各々の信心の厚薄によるということを心に置いて、今日から又、新しい出発を重ねていって頂きたいということを申上げまして本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございます。

(昭和六十二年六月二十一日)