日蓮正宗のススメ

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凡夫の浅知恵

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
凡夫の浅知恵

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 皆さんお早うごいます。皆様方もかつて御本尊様をお受けになってその直後、入信間もない頃には、大聖人様の御本尊をお家に御安置申上げて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えて、どうして功徳があるのか、成仏が叶うのか、幸せになるのか、とてもそんなことは信じられない、という風にお考えになった。そういう思いに取付かれたこともあったと思われるのであります。誰しも、自分の目や心や耳で判断を致しますと、この仏法の真実の奥義というのは、なかなか理解することが出来ません。一体、そうした時に、この御本尊様の功徳というものを、どの様に話をしたら世間の人が、あるいは皆様方のお友達が納得してくれるだろうかと、皆様方御自身が色々と工夫をされていることと思うのであります。

 その一つの例と致しまして、どの様に相手に納得をさせたらいいかという方法の一つとして、私はいつも卵の話をするのであります。 たとえば、ここに一個の鶏の卵があったと致します。その卵をお茶碗に割って割箸でかき回してみましても、実際にそこに嘴が見えるわけではありません。目玉や胴体や羽があるわけではありません。しかしその卵が母鳥に温められて、やがて殻を打ち破って雛に孵ったならば、その雛がやがて一匹の鶏に成長するということは私達の認識の上で厳然たる事実でございます。しかしながら、その卵の段階で見ますと嘴や目玉や胴体があるわけではない。従って、一般的な子供の様な認識から言いますと、「お母さん目玉がどこにあるのか、嘴がないじゃないか、羽がないじゃないか、足がないじゃないか、だから鶏の卵が鳥に孵るなんて、そんな馬鹿なことはない、そんな馬鹿なことはない」と言い張るに違いありません。この御本尊の力や功徳ということも、実はそういうことでございまして、仏法の力、法義というものを、ただ自分の浅はかな凡夫の知恵で判断すると、今の卵の話ではありませんけれども、実際、目玉がない、羽がない、胴体がない、それにも拘らず立派な鳥になるということは有り得ないと言い張るのと全く同じでございます。

 しかし、この御本尊様の中には大聖人様の久遠元初の御本仏としての悟りと、そして十界の衆生をことごとく成仏せしめるところの十界互具・一念三千の法門とその

力と功徳と用が、きちっと具わっておる。

 「名・体・宗・用・教の五重玄なり」(全一〇二二)

と大聖人様が『三大秘法抄』に仰せの様に妙名・妙体・妙宗・妙用・妙教と、その五字のはたらきが、きちっと具わっておるということが分れば、成仏することが当り前、十界の地獄界から仏界に至るまで、その衆生がことごとくこの一念三千の原理によって、大聖人様の御本尊様と境智冥合するときに、一人一人の命が六根清浄の命へと改革されていくということは厳然たる事実であり、又そこに法門が、力が、功徳が具わっておるということが判れば、ごく何でもない当り前なことであります。

 しかし、それを知らないで自分の浅はかな凡夫の管見でもって判断をするから、「成仏なんて考えられない、功徳があるなんてとても考えられない、墨に認められた掛軸を御仏壇に安置して、お題目を唱えて、そうして幸せになる、そんな馬鹿なことがあるか」という風に世の中の人は考えるのでございます。しかし皆様方の体験を通して、実際、皆様方が信じ、行じて、そして長年営々として信心を貫かれるときに、必ずその人の命が本当に改革されていく、災いは幸いへと転じていく、煩悩を菩提へと転じていく。この娑婆世界を寂光土へと転じ現していく。この妙法に整足するそうした力は、必ず身の上に、わが家の中に備わってくるということは、そうした体験を通して初めて認識出来る世界なのでございます。

 あるいは又、牧場へ行ってごらんなさい。牛が毎日毎日、草を食べております。しかしながら、その牛が短期間の間に五百キロ、六百キロという大きな牛に成長をして、そして食べた草が全部、牛乳となり肉となって現れてくるわけであります。われわれの凡夫の浅知恵で考えますと、牧草というものはどこまで経ってもこれは植物性の繊維であったのであります。それが牛のお腹に一旦入りますと、その植物性のセルロースが動物性の蛋白へと変わってしまう。つまり牛肉に致しましても牛乳に致しましても、これは動物性の蛋白であります。植物性のものが牛の胃の中に入ってどうして動物性の蛋白に変わるのか。われわれの頭で考えますとそんな馬鹿なことは有り得ません。植物性のものが動物性のものに変わる。天地がひっくり返っても、そんなことは有り得ないという風に考えます。しかし、これは牛の体の中には四つの胃袋があって、その胃袋が全部、消化酵素をともなって、消化工場の働きをしているわけであります。ですから牛の胃袋から十CCと言いますから試験管の底ぐらい、自分の小指の先ほどの牛の消化液を、分析致しますと、その中に十億万匹以上の微生物が棲んでいるわけです。その微生物が胃の中において、牛が食べた咀嚼したところの植物性のセルロースを全部、動物性の蛋白に変えてしまう働きを、胃の中でしているわけであります。そういうことが判れば、何でもない当り前の自然の摂理として、そのことが分かるわけでございます。牛の命に具わった生命の不思議な働きとして、ごく当り前のようにそれを理解することが出来ます。しかし、ただ頭の中で考えますと「植物性のものが動物性の蛋白に変わる。そんな馬鹿なことがあるか、そんな馬鹿なことがあるか」と考えてしまうのであります。そこが凡夫の浅はかなところであります。「自分は見えておる。自分は何でも知っておる。自分は日蓮正宗のことは何でも知っている。創価学会のことは何でも知っているだ」と言っている人も、何でもって知っているかと思えば、週間誌を二・三冊読んだだけの話で、大聖人様の御本尊様を持ったこともなければお題目を唱えたこともない。そして又、皆様方の真実の体験を聞いたこともない。それでいて「何でも知っている、何でも知っている」と言う。そうではない。自分の浅はかな知恵で判断しているだけのことなのであります。そのように世間の人というものは、何でも見えているようだけれども実は見えていない。

 例えば太陽ですが、アメリカで見てもヨーロッパで見ても東南アジアで見ても、必ず東の空から昇って西の彼方へ沈んでいくように見えます。誰が見ても、昔の人もそのように見ました。今の人もやはりそのように見えるのであります。しかし宇宙の実相から言いますと、それは太陽が地球の周りを巡っているのではなくて、逆に太陽の周りを地球が回転、公転、自転しているということの方が宇宙の実相であり真実であります。しかし私達の目で見るとそうではない。どんなに眺めても太陽の方が、われわれの地球の周りを巡っているように見えるのであります。ですから私はこのように見える、このように見たと言いましても絶対に逆であり、真実の姿を見ているのではないのであります。

 御本尊様のことも、仏法のこともこれは仏の教えでありまして、仏の悟りであり、仏法の力は私達の浅はかな単なる思い付きや、知恵や、認識でもって判断すべきことではないのであります。どこまでも仏法のことは仏法の鏡を通して、仏法の教えを通して、大聖人様の教えを通して正しく判断するということが大事なのであります。

 どうか皆様方は、そうしたことを一つ心に置いて、何等かの適切な比喩、譬えというものをお考えになって、そして世間の人の無知迷妄を打破って、正しく大聖人様の仏法のもとに、お互いに教化、折伏して、大聖人様の仏法の功徳を教えてあげて頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変御苦労様でございました。

(昭和六十二年五月三十一日)