日蓮正宗のススメ

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主師親の三徳兼備の仏

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
主師親の三徳兼備の仏

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 先日の日曜日には、日蓮正宗の正しさという意味におきまして、御本尊の正しさ、そして一念三千・十界互具の、皆様方一人一人を即身成仏の境界へと導く原理として、法門の正しさ、そして又、即身成仏への道理の正しさ、又、大聖人、日興上人、日目上人と当代の第六十七世日顕上人に至るまでの血脈の相伝の正しさ、そして又、御本尊に整足する、その輪円具足の法門と言いましょうか、功徳と言いましょうか、そうした用(はたらき)の上から日蓮正宗の正しさということが世界に誇る信心の上の現実であるということをお話申上げました。

 本日はやはり、日蓮正宗における御本尊の正しさ、大聖人様の末法の御本仏としての御境涯を拝する上において、大切な物差しとして、主師親の三徳の原理が、大聖人様と私達の間に備わっておるということ、すなわち私達が大聖人様を正しい末法の御本仏として拝察をし、大御本尊様と私達の間に、主師親の三徳の関係が成立っていることが大切なのだということをお話申上げたいと思うのであります。

 それは皆様方も御承知のように、大聖人様が、『開目抄』におきまして、その冒頭に一切衆生の信心の面から最も尊敬すべきものとして、主師親の三徳ということを仰せになります。又『開目抄』の一番最後の結論として

日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり」(全二三七 )

ということを仰せになっていらっしゃるのであります。

 私達と大聖人様との間には、御本尊様を顕わされる大聖人様、そして御法門を立てる大聖人様。そして私達がその大聖人様から正しい相伝に基ずいて、御本尊様を一人一人がお受けする。御本尊様を通して、私達と大聖人様との間には、師匠と弟子の関係がきちっと成立っているのであります。そして又、救済という一切の御化導の上から、教え導くという上において、そこに又、師弟の関係が成立っているのであります。

 更に功徳の上から、功徳を授ける大聖人様と、功徳を受ける、頂く私達の間には、その慈悲の上から、親子の関係が成立っているわけであります。

 そして又、仏として化導される大聖人様と、そして私達が折伏を受け、教え導かれる一切衆生との上において、その主徳の関係がある。仏と衆生との関係がきちっと相成立つということが大切なのであります。

 実際に皆様方が諸宗で見られるように、真言宗では大日如来を立てます。あるいは浄土真宗では阿弥陀如来を本尊として立てます。それぞれの宗教が、それが日本の宗教であれ、外国の宗教であれ、いずこの国の宗教におきましても、必ず信仰の対象としての仏と神、そして又、それを信ずる人々というものがあります。しかし、そうした主師親という一つの尺度をもって考察いたしますと、どの宗教の本尊にもそうした具体的な事実の上における主師親の三徳の関係の成立つ宗旨は、この日蓮正宗の大聖人様の教え以外に絶対にない。例えば、どんなに不動明王が本尊で有難いと言いましても、この世の中に不動明王が実際に出現して、御本尊を顕して、一人一人の弟子や御信徒を教化・育成して、そして病の時にはこうやって病を乗越え、諸難の時にはこうやって諸難を乗越えるのだと、一人一人を具体的に教導し、導いたという事実は、これは絶対にあり得ないのであります。浄土宗や浄土真宗に於ける阿弥陀如来にしても、真言の立てるところの大日如来に致しましても、この国土世間に、実際にどこかの国にお出ましになって、何等かの形の御本尊様をお顕しになって、そして具体的に一人一人にその御本尊様を授けて、そして教え導いた、折伏・教化育成したという事実はどこにもありません。全部これは架空の仏でありまして、それは釈尊が説いたお経の中に登場する仏の名前や菩薩の名前や、そういう、言うなれば小説のヒロインのようなものでございまして、いくら石に刻み、青銅で作り、あるいは真鍮で作り、あるいは木像で彫り、どんなに崇めてみても、功徳となることはないのであります。架空の仏をどんなに拝んでも、決して功徳はもらえるはずもありません。

 そこに大聖人様が主師親の三徳の関係というものが、いかに大切であるかということを、命がけで『開目抄』にお示しになっていらっしゃる、という意味をよく皆様方は心に置いて、これから実際に折伏される時に、諸宗の人がいかにいい加減なものを本尊とし、いかにいい加減な宗教をモット−としているかということを、そうした具体的な物差しを通して、よく教えてあげて頂きたいと思うのであります。

 釈尊なぜ又、御経の中に沢山のそうした仏菩薩を登場させたかと申しますと、それは仏の持っておる命の働き、又、一切の十界の衆生が持っているところの生命の働きというものを象徴するものとして、そういう仏や菩薩を経典の中に、実は登場させたのであります。仏の持っている、慈悲の働きというものを、弥勒菩薩なら弥勒菩薩という名前を通して、そういう登場人物を通して、それを表現していくというわけであります。あるいは人間の持っておるところの、頭の働き、知能の働き、知恵の働きというものを普賢・文殊という方を登場させて、そういう普賢・文殊を通して、一人一人の人間の持っているところの知恵の働きというものを、表現したのであります。ですからそれは、あくまでも釈尊が、われわれ一人一人に法門を展開して、法門を教えていく一つの化導の手段として、そういう仏の名前や、あるいは沢山の菩薩達を登場させて、実は法門を展開しているのであります。

 従って、そんな仏や菩薩が実際に、この世の中に存在するのではないのであります。それは仏の命の中に、皆様方のお一人お一人の、みんなの生命の中に備わった、その命の働きの一部分を、そういう名称をもって表現したに過ぎないのだということを心に置いて、どうか諸宗の人達の信心は、そうした実際の主師親の御化導の上から、師匠弟子の関係、父母・子供の関係、そして又、仏と衆生との関係、その教えに行きつく手段として、御本尊様を授け、法門を説き、そして御本尊様を受け、いろんな教えや功徳を頂く、実際の働きが成立つかどうか、という尺度をもって世界の宗教をきちっと見定める。正しい正邪というものを、そうした尺度をもって理解しなければいけないということを、皆様一人一人が、しっかりと心に止めて、又、大勢の人々を教化していって頂きたいと思う次第であります。今日は主師親の意義というものを申上げまして、日曜日の法話に代えさせて頂く次第でございます。雨の中を大勢の皆様が御参詣下さいまして誠に有難く存ずる次第であります。御苦労様でございました。

(昭和六十二年五月十七日)