日蓮正宗のススメ

法華講員のブログ

顕正会の「国立戒壇」問題は論点が絶妙にずれていることを話そう。

f:id:ekikyorongo:20181122224134j:plain

顕正会批判のブログは数多く運営されているので、今更、教義面や過去の浅井会長の発言をどうこうする気はない。下記のブログを参照してほしい。

教義面においての精細な分析はトチロ~さんの「顕正会の誤りについて」が筆頭でしょう。僕も勉強させてもらってます。

kenshokai-hashaku.com

そして、過去の浅井会長の言行不一致や、主張の変遷については、セロリさんのブログがナンバー1ですね。

blogs.yahoo.co.jp

さて、ここからが本題。

顕正会員は創価学会のことをよく知らない。

創価学会員は顕正会のことをほとんど知らない。

顕正会員も創価学会員もお互いに謗法だとののしり合い、日蓮正宗を誹謗している。

それにも関わらず、自分たちだけが正統な日蓮正宗系信仰の担い手だと主張している。

創価学会戒壇の大御本尊を受持しないと、執行部の独断で聖域に踏み込みつつあるけれど、結局、会員が拝んでいるのは大石寺の歴代上人が書写した本尊、ないしは自分たちで作成した本尊モドキ。

顕正会はガチガチの戒壇御本尊信奉者だが、会長も会員も御戒壇様を拝することはできない。しかも、巧妙なやりくちで本尊の私製・複製を行っている。

 

国立戒壇撤回の真相とは

まずは、顕正会のHPから彼らの主張を引用してみよう。

顕正会創価学会
富士大石寺には五百余の末寺がある。これを包括する宗教法人の名称を「日蓮正宗」という。顕正会はこの日蓮正宗の信徒団体として、昭和三十二年八月に「妙信講」の名称を以て発足した。

そしてまた、創価学会も同じく日蓮正宗の信徒団体であった。ゆえに創価学会も当然、国立戒壇建立を唯一の目的としていたことはいうまでもない。このことは池田大作第三代会長(当時)の「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華第59号)の言に明白である。

創価学会の御遺命違背
ところが、政治野心を懐いた池田大作は、〝国立戒壇憲法違反と批判されて選挙に不利になる〟として、自ら「国立戒壇」を否定した上に、大石寺境内に俄に建てた「正本堂」を「御遺命の戒壇」と偽った。

このたばかりは、日蓮大聖人の一期の大事たる御遺命を破壊せんとするもので、とうてい許されざる悪行である。

しかるに、この悪行を制止すべき日蓮正宗の高僧らは、学会の金力と権力に諂って、この大悪事に協力したのであった。

これを見て顕正会は御遺命を守らんと、学会・宗門を強く諫め続けた。悪事露顕を恐れた学会は、ついに宗門を動かし、「宗門が禁じた国立戒壇を主張するゆえ」との理由で、顕正会を解散処分に付せしめた。このとき顕正会は会員数一万二千人であった。

この処分がいかに理不尽なものかは、宗門の細井日達管長自身が、管長就任当時には富士大石寺の伝統教義のままに「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華104号)と述べていたことからもわかる。

細井日達管長と次の阿部日顕管長は二代にわたり、学会にへつらい、その傀儡となって、御遺命破壊の悪事に加担したのであった。

赤字の部分、

「政治野心を懐いた池田大作は、〝国立戒壇憲法違反と批判されて選挙に不利になる〟として、自ら「国立戒壇」を否定した上に、大石寺境内に俄に建てた「正本堂」を「御遺命の(三大秘法抄に御教示の広宣流布達成後の)戒壇」と偽った。」

は、概ねそのとおりである。

当時の宗門を知る人もほとんどが高齢化してしまって、当時のことを自らの体験として語り、また聞く機会も減ってきている現在、なかなか確認のしようもないことではあるが、私は当時を知る御僧侶から話を聞いたことがある。

選挙に負けるから国立戒壇という言葉を使うのはやめたいと、創価学会から日蓮正宗に願い出て受理されたのだ。

しかし、法華講諸氏のブログにも詳細が書かれている通り、大聖人様の御遺命は守られていたのであった。なぜなら、正本堂においても公開ではなく御開扉が行われていたからである。御開扉を受けたことのない、顕正会諸氏には全くの想像外のことだろうけれど、当時も現在も戒壇の大御本尊様は、鍵のかけられた二重扉の御厨子に御安置されている。しかも、現在の奉安堂はシェルターのような大きな防護壁(これも上下左右の二重壁)で、参詣者席と仕切られており、猊下様が導師席に着座されるまでは開かれることはない。しきみも供えられていない。まさに、強化された御宝蔵の扱いなのだ。

百聞は一見に如かず。不敬の御開扉などではないと体感できるだろう。

次に青地の部分。 

「宗門が禁じた国立戒壇を主張するゆえ」との理由で、顕正会を解散処分に付せしめた。

は嘘である。講中解散処分(顕正会は元妙信講であったため)になったのは、浅井の暴力行為が原因だったからである。

〈解散処分の発端〉
 妙信講は、宗門より解散処分を受けた。その発端の一つに、正本堂の意義について宗門や創価学会と激しく対立したことが挙げられる。
 当時、創価学会会長であった池田大作は、正本堂を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の事の戒壇堂であるとの断定発言を行った。その後ことあるごとに、自分が会長の代に御遺命達成・広布達成を成し遂げたという発言を行った。
 これに対し、妙信講の浅井は「大聖人の御遺命の戒壇は、天皇の勅宣と御教書(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇でなければならない。またその戒壇は天母山に建てるべきである」と主張し、正本堂建立をもって「御遺命達成」とする池田に異議を唱えた。

国立戒壇固執
 この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、これに付随して「国立戒壇」という名称に関しても、社会的に大きな問題となりつつあった(理由は後述)。そこで宗門は、国立戒壇という名称を使うことは布教の妨げになるとの判断から、昭和四五年五月、今後は国立戒壇という名称は使用しないことを宗内外に公表した。
 宗門はこれを機に、妙信講に国立戒壇固執する考え方を改めさせようとした。
 また、池田の「正本堂をもって御遺命達成・広布達成」とする考え方に対しても、それを改めるべく、日達上人は昭和四七年四月に正本堂の意義について『訓諭(くんゆ)』を発表された。その中で、正本堂は現時における事の戒壇とされ、「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊は公開せず、須弥壇(しゅみだん)は蔵の形式をもって壮厳し奉るなり」と述べられ、本門戒壇に関する法義を示されて宗内の和合統一をはかられた。
 しかし妙信講は日達上人の意に背き、宗門や創価学会を非難・攻撃し続け、「流血の惨も辞さず」(昭和四七年六月三〇日付) との脅迫文を送りつけるに至った。そこで日達上人は、自ら妙縁寺に赴かれて浅井父子を説得され、ようやく無事に、同年一〇月の正本堂落慶法要を奉修されたのであった。
 そののち、この問題は一時収まりかけたが、妙信講は執拗に国立戒壇を主張し続け、ついには文書の街頭配布やデモ行進を行うなど、事態はますますエスカレートしていった。

講中解散処分〉
 そこで宗門は妙信講に宛てて、宗門の公式決定違反に対する反省を促し、弁疏(べんそ)の機会を与えて返答を待ったが、妙信講からはその公式決定に従わない旨の返事があった。宗門はこのような経過をふまえてやむを得ず、昭和四九年八月一二日、妙信講を解散処分に付した。しかしこれを不服とする浅井等は、宣伝カーで創価学会本部を襲撃し乱闘事件を起こすなど、過激な行為に至ったため、宗門は同年一一月四日、浅井父子を中心とする信徒三三名を除名処分とした。

問題だったのは、折伏大行進の途絶?いや、大行進そのものかも

顕正会諸君は創価学会折伏大行進を知っているだろうか?

折伏大行進
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動
折伏大行進(しゃくぶく だいこうしん)は、当時日蓮正宗の信徒団体であった「創価学会」が当時第2代会長であった戸田城聖の下で1951年(昭和26年)から推進した大規模な勧誘運動。


目次
1 歴史
2 影響
3 関連項目
4 脚注
歴史
1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖創価学会第2代会長に就任した。戸田は就任挨拶の中で、自分の存命中に75万世帯を学会に入信させるとの拡大目標を打ち出した。当時の創価学会はまだ会員数3,000世帯程度の日蓮正宗内でも小さな講中で、挨拶を聞いた当時の学会幹部は「75万世帯などとは途方もない数字だ」と述べるなど、達成できるとは到底信じられなかったという。

詳細は「戸田城聖#創価学会会長として」を参照
折伏は1950年(昭和25年)発行の『折伏教典』を主な教材とし、既にあった月刊理論誌『大白蓮華』や、就任直前の4月20日に創刊されたばかりの機関紙『聖教新聞』がそれを補強した。当時の折伏の対象、また入会者は、貧しい人や病人、都会に出てきたばかりの若者が多かったという[1]。

創価学会#1950年代(草創期)」も参照
折伏大行進の過程では、学会に入会しようとした家庭に他宗派の仏壇や神棚が置かれていると、それを焼却(謗法払い)[1]するといった行為が、創価学会以外からは奇異に写り、時として大人数で対象者を取り囲むと言った強引さを伴った[2]。長崎県では入信を強要された19歳の少年が飛び込み自殺をするなどし[3]、学会は一般社会の強い反発を招いた。

1957年(昭和32年)12月の本部幹部会で、戸田は自ら掲げた75万世帯の目標が達成されたと発表した。

しかし、それから間もなくして戸田が死去。後を継いだ池田はさらに学会勢力の拡大を進めていった。池田は戸田の七回忌となる1964年(昭和39年)までに300万世帯という目標を掲げ[4]、1961年(昭和36年)には200万世帯を達成[5]。1964年の公明党結党直前の時点では500万世帯と拡大を続けた。

創価学会#1960年代」も参照
1970年(昭和45年)、会員世帯数は750万に達した[6]。

影響
折伏大行進によって、沢山の人が創価学会に入会その組織力に魅力を感じた地方・国会議員の後援会や国労、夕張・三池炭労や、教職員組合に代表される組合などから創価学会選挙協力を依頼されるようになる[7][8]。そのため全国の学会員の意見を集約させた団体の設立が必要と考えた戸田は1954年、後の公明党の礎となる創価学会に文化部を設置、文化部員に数名を任命。来る選挙に備えることになる[9]。

詳細は「公明党#略史」を参照
関連項目
公明党
創価学会#他の宗教や組織との関係
脚注
^ a b 朝日新聞アエラ編集部 『創価学会解剖』 朝日新聞社、1996年10月、p.112, 233
^ 朝日ニュース全国版No.622創価学会 日本映画新社
^ 『中国新聞』1959年6月17日付
^ 大白蓮華2010年4月号P32「会長就任50周年記念企画 永遠に師と勝利を共に」
^ 大白蓮華2008年10月号「師弟に生き抜け!立正安国論第二室戸台風
^ 略年表 - 創価学会ホームページ
^ 朝日新聞AERA編集部『創価学会解剖』(朝日新聞社
^ 大白蓮華1953年9月号「特集 学会と選挙のあり方について考える」
^ 朝日新聞AERA編集部『創価学会解剖』(朝日新聞社

Wikipediaの記事も1970年(昭和45年)で終わっていることに気づかれただろうか?そう、国立戒壇放棄は折伏推進の放棄だったのだ。

池田個人の破廉恥な行い、言論弾圧、当時の左翼学生顔負けの吊るし上げ折伏顕正会は今も)、それら負の行いの積み重ねがいよいよ世間の怒りをまともに浴びそうになって、三国志よろしく権謀で会員を煙に巻いたのだ。

私が幼いころ、自宅を訪れた地区の幹部は、これからは折伏の時代ではないと公言していた。選挙が現代の折伏だとも。折伏でうっぷん晴らしをするのが何よりの楽しみだった父は、「折伏をしてはいけないってどういうことだ?」「なんで国立戒壇をやめたんだろう」と、ずっと家での晩酌の時に漏らしていた。選挙のお願い活動は耐えられなかったんだろうな。

「1970年(昭和45年)、会員世帯数は750万に達した[6]。」も、父のような教学の勉強もしないで、オラオラ系の恫喝折伏で無理やり入信させたり、貧民に生活保護公団住宅の世話をして恩着せ勧誘した結果だとしたら、現在の創価学会員のお粗末な信仰観や政治観も納得できる。750万世帯も大盛りの見せかけの数字だ。

国立戒壇」運動そのものが美化された妄想

顕正会諸君!

国立戒壇を掲げた折伏大行進は本当に御遺命の戦いだったのだろうか?

否!断じて否なのである。

顕正会諸君は全くの妄想に扇動され、せっかくの大御本尊への忠誠心を浅井一族に収奪されているだけなのだ。

学会の発展を傍で見ていた浅井青年は、池田大作を妬んでいただけなのだよ。

破門前の創価学会員の中には、日蓮正宗の僧侶に親近し、教導を受け真剣に信行を全うした会員も大勢いたことは否定できない。

大きな功徳を頂戴したことも本当だ。

だけど、それは創価が推進した国立戒壇運動の結果ではないのだよ。

無理やり信仰させられて退転した奴らも大勢いるし、当たり障りないようにやり過ごしてきたのも大勢いるんだ。いや、むしろ大半なんだよそういうのが。顕正会がまんま昔のミニ創価じゃないか。

1951年~1970年の世相を浅井さん流に分析してご覧。

創価折伏モドキが進展して、日本の国に平和が訪れつつあったかい?

国立戒壇問題がやり玉に挙げられたのも、当時は左翼系が圧倒的な勢力だったからじゃないのかい?左翼思想ってのは、基本的に自界叛逆思想だよ。安保闘争や左翼ゲリラの事件を調べてみなよ。殺伐とした時代っだったんだぜ。高度成長時代が到来したのは、本当に妙法の恩恵が衆生に回向された結果だったと思えるのかい?

その延長線上にいて今の君はどう思う?

「仏法やうやく顚倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり(諸経と法華経と難易の事)」

浅井センセーの好きな御書だけどさ、当時の世相は内心で反逆している創価が、似非仏法で勧誘し獅子身中の虫が大きな顔していたのとそっくりじゃないかい?

善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。(開目抄下)

顕正会諸君は君らの心中では、「善に付け」だろうけれども、「法華経戒壇の大御本尊)」を捨てているんだよ。それは「地獄の業なるべし」と大聖人様は仰せだ。

そのことを多くの元顕正会員で法華講に入った人々が実感している。

そして、また、大聖人様の「我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」の御金言が護られていることを実感している。

御本仏の御遺命が破られたなんて軽々しく口にするもんじゃない。

そして今も日蓮大聖人様は、富士大石寺に厳然と戒壇の大御本尊様として命を留められているんだ。これこそが御遺命だろう。

一日も早く国立戒壇の幻想を捨てさり、日蓮正宗に帰依されることを願っている。

 

小説 顕正会の研究 (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社)

小説 顕正会の研究 (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社)

 
小説 顕正会の研究 第二部

小説 顕正会の研究 第二部

 
迷走する顕正会を斬る―浅井昭衛会長の足跡と変節

迷走する顕正会を斬る―浅井昭衛会長の足跡と変節