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5歳児餓死事件の奥にはあの宗教が:メンター(信者教祖)はなぜ自分の信者に対し残虐になるのか?

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こういう信者教祖いるいる

5歳児餓死事件に創価学会員の噂が。

これほど正面切って世間の話題になるのもめずらしいよね。

メンターって何?

「メンター」とは「助言者・指導者・師」という意味があります。

「メンター」という言葉はギリシャ時代にオデュッセウス王の助言者やその息子であるテレマスコの師を務めた「賢者メントール」の名が語源となっています。
メントールは、オデュッセウス王のかつての僚友であり、テレマスコの教育を託されました。
テレマスコにとってメントールは良き指導者・良き理解者・良き支援者としての役割を果たしました。

元々の意味や語源が転じて、「企業が新人や若手社員につけて仕事の指導や企業と社員の関係調整役に当たらう指導者」という意味になりました。
先輩社員や考課者が当たることが多いです。

それが企業だけではなく、さまざまな分野で「指導者・助言者」として「メンター」という言葉が使われるようになりました。

ちなみに、「メンター」が継続的に支援することを「メンタリング」と呼び、人材育成の手法の一つとされています。
また「メンター」の由来通り、師匠としてその技術を学ぶ存在や、人生におけるお手本として、自分自身に強く影響を与える人を「メンター」と呼ぶこともあります。

この場合は、「メンター」本人は自分が「メンター」であることを必ずしも認識しているわけではありません。

宗教組織に出やすい信者教祖

僕は創価学会顕正会日蓮正宗と、典型的な宗教サーフィンしてきた経歴があるんだけど、どこにでも信者教祖はいたね。

信者教祖ってのは、その宗教組織で他の信者に尊敬されてたり、グループ形成の中核を担っていたりする人間のこと。

本人がメンターである自覚をもって、他の信者に接している場合もあれば、周囲の信者が人神様として崇め奉っている場合もあります。

池田センセーや浅井センセーなんかは代表例だけど、ミニ大作やミニ昭衛なんかが、あちこちに出現することは多いね。

信者教祖は老若男女を問わないよ。

日蓮正宗では、信者教祖が出ないよう細心の注意を払っています。

本山で修行して指導教師になられた方が、宗門で定められた師弟関係の構築に尽力されています。

なぜ信者教祖は残虐なのか

十界論的に言えば修羅界からの畜生界ということでしょうね。

どこの信者教祖も思い上がっています。

創価民でも顕正民でも法華講民でも、周囲の人間よりも信心があるとか、折伏数が多いとか、教学がすごいとか、功徳体験で驚かせているとか。。。

何らかの優越感情を持つような、何かがあるのです。

そして、周囲の信者が個人的に依存し始めると、それはもうお判りでしょうが謗法になります。

仏法以外のものを拝んでるのと同じなのです。

破門前の創価顕正会(妙信講)も仏法の功徳にあふれていました。

しかし、信者教祖(池田や浅井)に入れ込む度合いが強い人には、罰の現証も出ていたことは有名ですね。

特に昭和52年路線以降の日蓮正宗創価学会では、その明暗は顕著でした。教祖に感応道交して、自分たちも修羅になってしまうんです。

私の家は創価でしたが、子供の頃、親からの苛烈な虐待を経験しています。周囲の親戚は、あんなに子供を欲しがっててやっとできたのに、なんでもっと大事にしてやらないんだろう?と心を痛めていたそうです。

なら、救ってよって僕は思うのですが。。

いじめは周囲に救えないことがほとんどです。

それは、修羅界が十四誹謗の原点であり、修羅界が四悪趣の頂点であるからです。

修羅界は容易にそのすぐ下の畜生界を発動させます。

弱いものを夢中になっていじめて、再び高揚感を得て。。。

そのループから今度は餓鬼界が出てきます。

今回の事件もお金を詐取していますね。。

最後は子供を餓死させて逮捕されるという、地獄界で終了。

修羅界が十四誹謗に結びつく道理とは

御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修行に重々のしなあり。其の大概を申せば、記の五に云はく「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ」と。有る人此を分かって云はく「先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。此の十四の誹謗は在家出家に亘るべし。恐るべし恐るべし。過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。何に況んや持てる在家出家の者をや。此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり。或は「若実若不実」とも説かれたり。之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。
  加様に心得て唱ふる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし。釈に云はく「阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云。十四の誹謗の心は文に任せて推量あるべし。加様に法門を御尋ね候事、誠に後世を願はせ給ふ人か。「能く是の法を聴く者は斯の人亦復難し」とて、此の経は正しき仏の御使ひ世に出でずんば仏の御本意の如く説く事難き上、此の経のいはれを問ひ尋ねて不審を明らめ、能く信ずる者難かるべしと見えて候。何に賤しき者なりとも、少し我より勝れて智慧ある人には、此の経のいはれを問ひ尋ね給ふべし。然るに悪世の衆生は、我慢偏執・名聞名利に著して、彼が弟子と成るべきか、彼に物を習はゞ人にや賤しく思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候。法師品には「人有って八十億劫の間、無量の宝を尽くして仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説かん僧を供養して、後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり。無智の者は此の経を説く者に使はれて功徳をうべし。何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば「当起遠迎当如敬仏」の道理なれば仏の如く互ひに敬ふべし。例へば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。
  此の三位房は下劣の者なれども、少分も法華経の法門を申す者なれば、仏の如く敬ひて法門を御尋ねあるべし。(松野殿御返事1047㌻)

引用が長くてすみません。

でも、切り文は駄目なんです。

頑張ってこれくらいの御消息文は読めるようになりましょう。

「御書が読めるようになりますように」と御祈念唱題してください。私は願いが叶って読めるようになりました。

僕が大事かなって思ったところは大文字にしておきました。

一に憍慢から始まって、十四に恨善なりで終わってますが、僕はこれ十如是と同じく本末究竟等すると思っています。

一は、はじめとも読めます。

始まりはいつも修羅の驕りから。

「正しき仏の御使ひ」と言う資格は、 「法華経を説かん僧」です。

その僧が「下劣の者なれども」「供養して」「法門を聴聞する」なら「大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」であります。

日蓮正宗の御僧侶のお話を聴くこと、日蓮正宗の書籍を読むこと、日蓮正宗に少額でもいいので御供養すること(寺院清掃や供物献納でもいい)、それが功徳を積むことの源泉であります。

努々(ゆめゆめ)信者教祖に依存してはなりません。

翔士郎(しょうじろう)ちゃんの御冥福をお祈りいたします。

僕が5歳の頃、ちょうど昭和52年か。

我が家もおかしかったなぁ。生き延びれたことに感謝します。

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母親もこの頃は支配されることに酔いしれてたのかなぁ


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