日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

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発心は感謝の心から生じるのだと思うのです。

私は感謝の心が生じたときに、同時に強い信心が湧いてきます。

祈りは、苦しさから逃れたいときや、願いを叶えてほしい時にも、すがるような思いから信心が湧いてくると思います。

どちらがいいとか悪いとかではありません。

ただ、感謝の気持ちを仏様に対して御題目を通じて、お伝えすることができるというのがうれしいのです。

去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事1396㌻)

戒壇の大御本尊様を大聖人様が顕され、究竟の御本尊様と定められた文証です。

多くの御題目を唱える宗派・団体は、それぞれが色んな解釈をしています。

日蓮正宗だけが、戒壇の御本尊様を護持してくださり、後世にお伝えくださったのです。

そして、

第廿五 建立御本尊等の事
  御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(就註法華経口伝1773㌻)

との仰せを信受いたしております。

つまり人法一箇、戒壇の御本尊様即日蓮大聖人様と拝しているのです。

大聖人様に感謝の御題目を唱えるとき、様々なことがあった過去の人生も全て、今この時の感謝の気持ちに集約されるような感動を覚えます。

ありがたい人生であったと。

来世も信心させていただきたいと。

哲学者のニーチェは「ツァラトゥストラかく語りき」で、運命愛を唱えましたが発狂してしまいました。

それは、彼が大御本尊様を受持しなかったからです。大御本尊様を受持しないまま、無理やりに自己肯定をしようとして、自己が分裂したものと思っています。

感動する一瞬があるから、この時があるから人生を肯定する。。。彼の考えは理屈では他の思想家を超える非凡な哲学ですが、凡夫には自力で実践できない思想だったのです。

至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。
(当体義抄695㌻)

因果倶時・不思議の一法」、妙とは蘇生の義と言われる所以でしょう。

私は後悔や恥の多い人生を歩んできました。

しかし、日蓮正宗で御本仏様に勤行唱題し、日々の生活の中でも心で御題目を唱え、自分の人生を後悔しなくなりました。

創価学会顕正会で悲惨な目に遭ったと嘆き、愚痴を言うのを止めて蘇生の御題目を日蓮正宗で唱えてみてほしいものです。

多くの人が、「ああ、やっぱり本物は違う」と感じています。

私もそうです。

心が変わるのです。

自分の心は自分で自由に操れません。

仏様と境智冥合を繰り返しながら、磨いていくよりほかに方法はないのです。

大白法・平成8年8月16日刊(第461号より転載)教学用語解説(19)


きょうみょうごう

 境智冥合とは、境と智が融合した一体の境界をいいます。境とは所観の対象であり、主観に対する客観世界をいい、智とは境を観察する能観の智慧、すなわち認識する心の作用としての主観的世界をいいます。
 『法華経』の『方便品』に、
 「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞、ひゃくぶつの知ることあたわざる所なり」(開結 153頁)
とあるように、仏の智慧は宇宙法界の一切の事物現象の真理(境)を照らし、一切に通達しているゆえに甚深無量であり、その教えは難解難入です。
 その仏の深い境智を天台大師は、『法華ほっけ文句もんぐ』に、
 「境と智と和合すれば、すなわち因果有り、境を照らして未だきわまらざるを因と名く、源を尽くすを果と為す」
とあるように、境智冥合とは仏の境智の因果であり、この刹那せつなの因果に九界即仏界・即身成仏の境界があることを説きました。
 末法御出現の日蓮大聖人は『曾谷殿御返事』に、
 「法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如いちにょなる間、かい示悟じごにゅう仏知ぶっちけんをさとりて成仏するなり」(御書 1038頁)
と仰せのように、爾前諸経は能観の智である三観が円満に説かれず、また所観の境である三諦も融合していないために境智は各別であり、しかも仏の権智をもって説かれた方便の教えのゆえに成仏の教法とはなりません。これに対して『法華経』は三観三諦の境智がそれぞれ融合しているので境智一如であり、仏の真実の智慧をもって説かれた完全なる教えのゆえに成仏の教法となる、と御指南されています。
 このように、大聖人は『法華経』こそ十界互具・境智冥合の教法であることを説かれましたが、それは未だ天台与同の義であり、下種即身成仏の本義を顕わされてはいないのです。また先の天台の釈文も、境智和合の相を説いてはいますが、本門本地の実体を説き尽くしてはいないのです。
 『総勘文抄』に、
 「釈迦如来五百塵点劫じんでんごう当初そのかみ、凡夫にて御坐おわせし時、我が身は地水火風空なりとしろしめして即座にさとりを開きたまひき」(御書 1419頁)
とあり、それを日寛上人が『観心本尊抄文段』に、我が身地水火風空は境であり、知ろしめされた凡夫即極の本仏の悟りを智と御指南されているように、大聖人の寿量文底下種仏法において解明された本地難思境智冥合の刹那始終の一念には、仏法の本源の当体・凡夫即極即身成仏の功徳が存するのです。その本地難思境智冥合の当体とは、末法御出現の久遠元初の下種の御本仏日蓮大聖人に他なりません。
 大聖人は末法の一切衆生救済のために、己心にそなえられた文底下種、事の一念三千を本門戒壇の大御本尊と御図顕されました。
 ゆえに私たちは、大御本尊を唯一絶対の正境と確信して至信ししんに唱題にはげむとき、大御本尊の境と自身の信ずる一念が智となって境智冥合し、そこに初めて即身成仏の大利益を得ることができるのです。