日蓮正宗のススメ

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創価学会員さんとの対話:創価学会員さんからの質問を分析する 7

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ピノキオの鼻はなんで伸びたのか、御存じですか?

対話の続き。

今日は、⑦「宗門の僧による葬儀を行い、戒名を与えないと故人は地獄に堕ちる」について、日蓮正宗相伝も含めて回答したいと思います。

7項目全質問は以下の通り。

宗門はこのように主張しています。
①「必ず戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を信仰の根本としなければならない」
②「代々の法主を尊信の対象としての(我々が南無し奉る日蓮大聖人・日興上人と同等の)僧宝として定める」
③「弘安2年10月12日の御本尊を日蓮大聖人の出世の本懐・一大秘法と定める」
④「僧と俗の間には本来的な差別が存在する」
⑤「御本尊には法主の許可、開眼が必要、大石寺から下付したものでなければならない」
⑥「大石寺に登山しないと罪障消滅できない、成仏できない」
⑦「宗門の僧による葬儀を行い、戒名を与えないと故人は地獄に堕ちる」
日蓮大聖人はこのようなことをただの一つも仰せになっていません。日蓮大聖人は「謗法とは法に背くという事なり」顕謗法抄455 と仰せです。したがって、上に挙げた宗門の主張はことごとく謗法であると思います。
上に挙げた宗門の主張のどれか一つでも日蓮大聖人の御書のみを用いて正当性を証明できますか。
ご返信をお待ちしております。時間がかかっても構いません。

平成最後の記事になりますね。

創価学会の退転、破門、謗法化。

平成法難とも言えるような、元信徒からの日蓮正宗への様々な嫌がらせ。

国家権力が介入しなければ、信教の自由が憲法で保障されていれば、法難など存在しないのではないか?そんな幻想を打ち砕いた、俗衆増上慢の時代"平成"も終わります。

そして、当ブログ、平成最後の記事が創価による邪難質問の大取をとるのが、「宗門の僧による葬儀を行い、戒名を与えないと故人は地獄に堕ちる」という質問。

どういう因果の巡り合わせなのか分かりませんが、これ以上ない打って付けのお題ですね。

あのう、昨日も同じことを指摘しましたが、通夜や葬儀の場でそう言ってきたのはむしろ創価学会さんなんですけどね。遺族の気持ちも考えず、臨終に悪相を現じてしまった逆縁者に法を下げるような言動を繰り返し、組織的に日蓮正宗に迷惑をかけ続けてきた、黒歴史をお忘れになったのでしょうか?

質問のとおり、「宗門の僧による葬儀を行い、戒名を与えないと故人は地獄に堕ちる」ということを、骨身にしみてわかっているのは、古参会員なんだから地域の古株に聞いてご覧よ。

今から30~40年前、私が子供の頃の創価学会員は、正宗の葬儀のすばらしさを自慢し、吹聴していたんだからね。逆に謗法の通夜・葬儀に出かけて、悪相の御遺体につば吐くような悪態をついて、それで世間から顰蹙買って、忌み嫌われていたのさ。

日蓮正宗の御僧侶は、そんな無慈悲な言葉は遺族に向かって吐きません。

そして、何よりも驚くことは、信心が命に染まらず不本意な死相を現じてしまった、御遺体に対しても丁重に通夜・葬儀を執行してくださいます。私が見た限りでは悪相のまま荼毘に付された方はおいでません。

驚くほどみんな善相です。色も白く、柔和な御顔で旅立っていかれました。

私が見た死相の中で一番悪かった相が、私の父が臨終したときの相でした。

私自身、驚天動地の思いで善相に転じた父の通夜・葬儀の話は以前にしました。

心から日蓮正宗の御僧侶に感謝しております。

創価学会員さんは、謗法の害毒で息を吐くように嘘をつきますね。でも、そんな悪癖も徐々に治ります。日蓮正宗で正しいお題目を唱えましょう。

日蓮正宗 寺院紹介 全国

日蓮正宗の御葬式の意義
2005-11-21 | 手引書⑧
 日蓮正宗の御葬式は、最後臨終を御本尊様に御願いする重要な儀式です。一生成仏が出来るか出来ないか決まるのです。日蓮正宗で御葬式を行えば、確実に一生成仏できますが、しかし、信心していても他宗派で御葬式を行うと、一生成仏できません。それだけ日蓮正宗の信心は難信難解という難しさと厳しさがあります。

 宗祖日蓮大聖人は『上野殿御返事』に、

 「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか(迎)いにまいり候べし」(御書1361)

と仰せであり、日蓮正宗で行う御葬式には日蓮大聖人が迎えにこられ、寂光土へと導いて下さるのであります。この意味は、日蓮正宗の寺院から御葬式用の導師御本尊様をお迎えすることで、日蓮大聖人がお迎えに来られたことになります。そして御住職様から、即身成仏を証明する死後の名前、戒名を頂きます。戒名を頂くことで三途の川を安心して渡れる通行証明がされます。最後臨終の即身成仏を決定する、導師御本尊と戒名を否定される方は、日蓮大聖人が迎えに来られませんし、戒名の無い俗名では、三途の川を渡ることが出来ず無間地獄に堕ちます。

 日蓮正宗の御葬儀に御安置申し上げる導師御本尊について大聖人は『弥源太殿御返事』に、

「南無妙法蓮経は死出の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はヾ御迎へにまいり候事もやあらんずらん。又さきに行かせ給はヾ、日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべく候。此の事少しもそら事あるべからず。」(御書722)

と仰せであり、葬儀の際、祭壇に御安置される導師御本尊に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで死出の険しい山道を越えるための杖や柱を施したことになります。さらに大聖人から死後の道案内を賜り閻魔大王にも成仏するように仰ってくださるという有難い意味があります。祭壇に御安置される導師御本尊には特別に常住御本尊と異なり閻魔法王が認められております。大聖人が閻魔大王に故人が成仏するように仰る重要な意義があるためです。また死後の行方を決定される閻魔大王に対しまして恵まれた環境に生まれますようにお願いするという大事な意味もございます。

 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、

「しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(御書1483)

と仰せであります。日蓮正宗における正しい御葬式を行うことで、生まれてから今生を全うされるまで、心身に付いた悪業の縁、四苦八苦を全て仏様の種へと変える働きがあります。つまり六根清浄の功徳を得て成仏していくのであります。更に、日蓮正宗の僧侶が御経をあげることで、生まれてから亡くなられるまでに経験した、個人しか知らない人生の辛さや苦悩、心身の病などを綺麗に洗い流すことが出来ます。次の世では生活環境が恵まれ、心身も六根清浄した姿で日蓮正宗の家庭に生を受けるのであります。

 御葬式では、御線香を供え、成仏を願い御焼香をします。故人の生前に心と体に染み付いた悪業の垢を灰と煙にして滅し、一生成仏のお手伝いをさせて頂きます。香を漂わせることで、成仏の悪縁を払拭させ、御焼香の煙は寂光土へと流れ、故人は、この御葬式に参列された皆様の有り難い御焼香の煙と香りをたよりに、中有の旅を歩み成仏の境界へ日蓮大聖人に導かれていきます。

 日蓮正宗では、色花ではなく、常緑樹の「樒」を御供えします。樒を御供えする意味は、邪気を払うことと、来世での長寿を願うものです。色花は枯れやすいですが、「樒」は生命力が強く、その生命力の強さは、正しく大聖人の御精神に通じるものがあります。故人に御樒を施すことで、御本尊様の尊い功徳により故人は来世で長生きします。

 通夜・御葬儀では、僧侶と一緒に御経をあげることが大事です。御本尊様に御経をあげる意味は、亡くなられた方に、御経をあげ御題目の南無妙法蓮華経を唱えなければ私達の気持ちが伝わりません。生きている時は、普通の言葉で分かり合えますが、亡くなられた方には、御経と御題目を唱えて気持ちを念じれば、御本尊様が通訳の役目をして下さり、故人に全てをお伝えしてくれます。

 日蓮正宗の御葬式は確実に故人を成仏させ、日蓮大聖人が直々にお出ましになられる厳粛なる儀式です。引用元:日蓮正宗の御葬式の意義 - 正林寺法華講員手引書

 

葬儀について      

              時局協議会文書作成班1班  

     はじめに  

 最近、創価学会では、各種会合において「冠婚葬祭について」なる文書を配布し、葬儀・法事・結婚式等の法要が、信徒のみで執行できるとして、僧侶不在の葬儀等の執行を、組織的に呼び掛けている。そして、各地において、実際に「学会葬」「同志葬」「友人葬」と称する葬儀等が、公然と執行されているのである。これは、信徒(その“一番の元”は池田氏)自らの勝手な都合によって、本宗伝統の成仏得道の化儀を、故意に改変するものであり、本宗の信徒としての身分を、自ら放棄する大罪行為である。したがって、本稿では、このことが破仏破法の因縁であり、まさに堕地獄の因縁となることを述べるものである。


1.学会の目指すもの

 (平成3年・1991年)4月上旬、池田氏は、
「学会教学部の師範を増やす。圏クラスまで広げる。準師範を新たに作る。師範・準師範が冠婚葬祭をやる。」
という旨の発言をしたといわれている。その後、5月3日に行なわれた「創価学会の日」記念式典で、実際に多数の教学部師範・準師範の認定授与式が行なわれた。これは、先の発言を組織的に具体化したものである。
 現在の池田創価学会には、宗門から離反し、新興宗教としての創価学会教、あるいは池田教として独立したいという願望が、あちらこちらから滲み出ている。しかし、池田創価学会が宗門から離反し、独立するためには、いくつかの必要不可欠な条件がある。
 その根本となる本尊問題は別として、その中には、会員の葬儀や法事・結婚式等の諸法要を、学会独自で執行しなければならないという問題がある。そのためには、在俗の背広を着た法要執行人、すなわち学会僧(仮称)をもたねばならない。池田氏はじめ学会首脳幹部は、この学会僧のポストに、学会教学部の師範・準師範を宛てたのであり、その認定授与式が5月3日だったのである。したがって、この学会僧の認定は、池田教として独立するための、教団の機構整備の一環にほかならない。


2.学会の葬儀等に対する意識

 学会の葬儀等に対する意識には、概ね二通りがある。一つは、中野毅氏や小島信泰氏などが主張するもので、葬儀等は江戸時代の檀家制度によって一般社会に定着したとし、本来、大聖人の仏法とは何ら関係ないとする葬儀不要論である。これは、既に時局協議会文書作成班3班によって破折されているので、追ってみるべきである。
 もう一つは、
「大聖人の時代、信徒の葬儀は必ず僧侶が執行したのでしょうか。私どもの知る限りそのような例はありませんが、この点、ご教示を宜しくお願い致します。」
という質問書(東京第一・第二教区に対して、学会青年部から出された「謝罪要求書」の撤回を求めた理不尽なもの)などにみられるもので、葬儀はする(多くの会員の意識の上からせざるをえない)が僧侶は不要、すなわち学会員のみで執行するというものである。
 これは、おそらく海外や離島等において、僧侶不在の葬儀が行なわれてきたという事実を根拠とし、信徒のみで葬儀を執行しても成仏できると主張したいのであろう。このことの是非は後に述べることとして、彼らの本音が、池田創価学会の宗門からの独立願望にあることは、この質問の文面からみて、決して否定できないであろう。現在の池田創価学会の首脳幹部の葬儀等に対する意識は、この点から出ているといっても、過言ではない。
 さて、学会が独自に葬儀等を執行することについては、池田氏の謗法体質が、宗内一般に露呈した昨年末(平成2年・1990年)において、既に「今後の対応についての『Q&A』」という問答形式の文書を配布し、一般会員に指導を行なっている。すなわち、
 「Q.お葬式は、どうしたらよいでしょうか。
A.私たちは信徒であり、私たちがつくったお寺なのです
  し、それがお寺の仕事なのですから遠慮しないでどん
  どん依頼すればよいと思います。
   仮に、イヤだとか、お葬式はやってあげないとか言
  われれば、その時考えればよいのではないでしょうか。
  皆で清々しく題目をあげて、送ってあげてもよいと思
  います。
  ※35日忌、49日忌法要、結婚式等も、同様でよい
   と思います。」
 学会では、この頃(平成2年暮・1990年)、“突然の総講頭解任”“宗門の理不尽な措置”などと、あたかも被害者であるかのように、大声で宗門を非難しておきながら、葬儀や法事等について、この時点で、既にこのような指導をしていたのである。それまでの宗門に対する数々の挑発的な発言や態度と、このような対応の早さとを合わせてみるとき、実際のところ、創価学会では、このような状況を予め想定し、万端の準備をしていたのではないか、と思われてならないのである。
 換言すれば、学会員の葬儀等の法要化儀は、今まで、全て各寺院に願い出ていた。この伝統的事実に対しては、池田氏といえども、うかつに手を出すことはできない。そのために、予め書面を準備し、昨年末の学会問題表面化以来、それらを小出しにしながら、数箇月の期間をかけて、うまく根回しをしてきたのである。
 因みに、上記引用の内容からみて、この時点では、葬儀等の法要儀式は、一応、各寺院に願い出るが、寺院側より拒否されるようなことがあれば、その場合に限り、必要に迫られて、信徒間で葬儀等を執行するのもやむをえないという体制であったことが判る。
 しかし、現在(平成3年・1991年)、いわゆる学会葬を実際に執行する場合も、上記の条件を満足してはいない。例えば池田教への盲信から寺院に願い出ないケースもあるにはあるだろうが、中には、“寺院に葬儀を依頼すると、20万円ないし100万円の御供養を要求される”と、今までありもしなかったことを幹部から聞かされて寺院に願い出ないケースがあったり、幹部が恐いので、はじめから寺院に願い出ないケース、あるいは願い出ても幹部の脅迫まがいの説得に屈してか、喪主自らが辞退するケースもあるやに聞いている。これらは、確認こそしていないが、学会の異常な体質を知る者ならば、少なからず首肯できる情報であるといえよう。
 いわゆる学会葬を執行する人たちは、その原因はともかくとして、このようにして寺院に願い出ることもなく、悩乱した学会員らの手によって、本宗の化儀を勝手に改変し、葬儀等を執行するのである(このようなことを、平気で行なうことができること自体が、悩乱の現証であるから、“悩乱した学会員”というのである)。
 ともかく、現在の池田創価学会における葬儀等の諸法要に対する意識は、どのように与えてみても、本宗本来の化儀にのっとった純粋なものであるとはいえない。彼らは、本宗の化儀など、どうでもよいのである。要は、総本山や末寺、宗門・僧侶から、一般会員を離反させればよいのである。つまり、池田教独立のためには、その手段として、いかようにでも化儀を改変していくことができる体質なのである。したがって、この葬儀等の問題も、いわば池田創価学会の無信心体質の一分を露呈したにすぎないものといえる。
 所詮、1億7千万円入り金庫遺棄事件やルノワール絵画疑惑などをみても判るように、池田創価学会には、信仰を求める姿はなく、財源の確保に努めることに、その基本体質がある。このような団体は、到底、本宗の信徒団体とはいえまい。
 その証拠に、“正しい信仰を守るため”“宗門の権威的体質を改める”などと心にもないことを述べ、『聖教新聞』で虚偽・捏造で固めた悪辣・破廉恥極まりない記事を掲載して、宗門攻撃のキャンペーンを張ってきたものの、多くの会員等がみるに耐えず、発行部数が激減するや、たちまち『聖教新聞』における宗門攻撃キャンペーンを取りやめてしまったではないか。そして、5月3日には、池田氏自ら、
「『聖教新聞』を、最近若干減ってるらしいからねぇ、青木社長がねぇ、心配してるから、今日はあのぅ、約70万人の人が聞いてるわけだから、70万人の人、これから11月18日まで1部ずつ応援してください。いいね!(拍手)みんなも、みんな読むんだよ。」
と、会員に対して、さらに1部余分に『聖教新聞』を取るよう、強要している始末である。
 さらに、6月に入って、「『悦びの財務』を推進」などという活動方針を打ち出したのである。そして、「創立70周年の開幕を飾る財務」「広布万代の基礎をつくる財務」「自己の境涯革命に挑戦する財務」などというモットーを掲げて、特別財務が、あたかも本宗の基本的な信仰活動であるかのように宣伝し、一般の純粋な会員から、莫大な金銭をかき集めようとしているのである。このような池田創価学会に対して、本宗の純粋な信仰を求めるのは、もはや無理というものかも知れない。


3.学会の「冠婚葬祭について」の内容

 いわゆる学会葬は、本年2月、奄美大島で執行されたものが、その最初として報告されている。無論、地域差もあろうし、また葬儀の導師をする者もされる者も、それが本意であるかどうかは別として、現在では、かなりの地域で行なわれていることは事実である。
 池田氏は、4月11日の第40回本部幹部会において、「これから葬儀はどうしたらいいかな?心配しなくてもいいから。いくらでも会館があるから。OK?(はい)心配ない、そんなものは。(一部拍手)みんな、お経読めるから(笑い)。知んない人が拝めるんだから。ぜんぜん、心配ない。」
と発言し、また4月26日の第39回本部全体会議において、
「昨日、兵庫である人が亡くなった。家が狭いのでといって会館で葬式をやり、幹部が中心で勤行をやり、そして最後は『母の歌』で送った。」
旨の発言をしているが、これらの発言によって、大きく影響されていることも間違いない。同時に、この池田氏の化儀改変の指導を具体化すべき「冠婚葬祭について」なる文書が、B長クラスまでに配布された。これは、いわば学会僧のための、冠婚葬祭用マニュアルテキストといえるものである。
 少々長い引用となるが、現況を把握するため、全文を挙げておくこととする。
 「(1)通夜について
『題目三唱』引き続き『方便品』『寿量品』『自我偈』
『自我偈』『自我偈』『唱題』『題目三唱』で終わり。
(2)葬式について
故人もしくは遺族の要望で決定してください、組織で強制
しないこと。
学会組織で行う場合は『司会』をたてて、故人もしくは遺
族の御意向で『同志葬』または『友人葬』で行う旨紹介を
してください。
その場合は『戒名』はありません、本名で行います。『故
○○○○○殿』(大聖人の時代のままです、大聖人の時代
は戒名はありません、戒名がありますから俗名があります、
戒名がありませんから本名で行います)
『位牌』が必要な方は本名を書きます、その場合は『妙法
蓮華経』の文字は入れません(位牌は葬儀社が持ってきま
す)
葬儀の仕方について
『題目三唱』引き続き『方便品』『寿量品』長行が始まっ
たら『導師』『遺族』『親族』『参列者』の順で焼香を始
める、長行の『而説偈言』でお経をやめて、導師はそのま
まの姿勢で御書を拝読する、(参考)弥源太殿御返事(1
227頁)
『南無妙法蓮華経死出の山にては・つえはしらとなり給
へ、釈迦仏・多宝仏上行等の四菩薩は手を取り給うべし日
蓮さきに立ち候はば御迎にまいり候事もやあらんずらん、
又さきに行かせ給はば日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべ
く候、此の事少しもそら事あるべからず、日蓮法華経
文の如くならば通塞の案内者なり、只一心に信心おはして
霊山を期し給へ、ぜにと云うものは用に・したがつて変ず
るなり、法華経も亦復是くの如し、やみには灯となり・渡
りには舟となり・或は水ともなり或は火ともなり給うなり、
若し然らば法華経は現世安穏・後生善処の御経なり。』
拝読が終ったら、司会より『弔辞』『弔電』の案内紹介を
する。終了したら『導師』は『自我偈』『唱題』『題目三
唱』で終了する。
(3)『過去帳』について
自分で本名を記入するか、もしくは字のきれいな方に書い
ていただく。
(4)『法事』について
導師(家族とか)を立てて勤行をされたら結構だと思いま
す、朝晩の五座、三座で常時供養を行っております。
(5)『結婚式』について
挙式だけは***会館で執り行うことができます。
申込みの方法・・・式の1ヶ月前までに***会館に申込
をして下さい、但し予定日に衛星中継とか会合が開催され
る場合は事前に変更がありますので了承していただきます。
式の内容・・・原則として媒酌人が導師をして勤行を行い
三三九度の盃を交わし終ります。司会と三三九度の役目の
方が必要になります、なお盃のセットは会館で用意をして
あります。
色々と判らないことがありましたら遠慮せずに***会館
等でお聞き下さい。」
 以上が「冠婚葬祭について」の全文である。
 この文書をみると、葬儀に関して、この文書がどこに出されてもいいように、「故人もしくは遺族の要望で決定してください、組織で強制しないこと」と規定している。しかし、4月25日、県長会の後で行なわれた全国事務局長会議では、「葬儀について具体化するように」との指示がなされたという。そこでは、「学会本部の指示ではないこと」と前置きした上で、
  会員の葬儀は会館で行なう。
  あくまで末端会員が学会葬を強く希望する声があった
  ということにする。後は、地元の自主性に任せる。
と、いわゆる学会葬についての極秘指令が出されたのである。すなわち、「冠婚葬祭について」でいう「故人もしくは遺族の要望で決定してください、組織で強制しないこと」という規定は、いわばダミーだったのであり、実際の状況は前述したとおりである。
 なお、このように学会組織の手で葬儀等の法要儀式を行なうことの根底は、いわゆる52年路線において、盛んにいわれた「会館は現代の寺院」の思想であり、何が何でも会館を中心としなければならないという、誤った思想によるものである。つまり、個々の化儀の改変は別として、全体を通して明らかなことは、やはり宗門離れ、否、宗門からの独立を目論んでいることにほかならないのである。
 昭和54年、池田氏はじめ当時の首脳幹部は、52年路線に対して、表面上、反省の素振りをみせた。しかし、近来の実際の行業が、52年路線と何ら変わっていないことは、このことからも充分に判る。日蓮正宗の一切の僧俗は、この学会の無反省の虚偽的体質を、もっともっと追及し、池田創価学会の首脳幹部に対して、徹底的な反省懴悔をするよう求めていかなければならない。なぜなら、もしそれができなければ、学会は、もはや日蓮正宗の信徒としての資格を、永久的に失うことが目に見えているからである。


4.臨終の正念と葬儀

 同志葬、あるいは友人葬ともいわれているが、その学会葬の誤りを指摘する前に、本宗の葬儀の在り方の基本を、まず述べておく必要がある。
 葬儀は、もともと臨終における厳粛な即身成仏の儀式であり、法事とともに、故人に対する追善成仏にその基本がある。大聖人は、『兄弟抄』に、
「仏になる道には・あらねども・はぢを・をもへば命をしまぬ習いなり、なにとなくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」
と仰せのように、死は人生の一大事である。『大智度論』に、
「臨終の一念は百年の行力に勝れたり」
と説かれているとおり、臨終の一念は、その人の人生における一大事である。しかし、この臨終の一念が正念となるためには、常日頃からの、たゆまぬ信行をもたなければならない。このことは、日寛上人の『臨終用心抄』に、
「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也」
「先づ平生に心に懸け造次顛沛(ぞうじてんぱい)にも最も唱題すべし。亦三宝に祈ること肝要也」
等と御指南されていることからも深く拝される。
 したがって、臨終の正念を遂げるためには、僧俗各自が、日頃から、正しい三宝への信仰を正しく拝し、正しく行じていくことが大切である。もし、現在の池田氏はじめ学会首脳幹部のように、下種三宝の御意に背き、身勝手な信仰をしていたならば、絶対に臨終の正念など遂げられようはずはない。否、必ず三宝誹謗の罪によって、地獄に堕するであろう。よくよく心得なければならない。
 この臨終の正念の有無は、個々それぞれの信心の厚薄による。それに対して、葬儀とは、故人の信心の厚薄にかかわらず、遺族縁者の信仰心や報恩の意志によって、追善成仏のために執行するのである。この観点からすれば、故人の信心の厚薄と葬儀の営みとは、その主体性の上から区別されよう。そのために、また故人が信心堅固にして、臨終に正念を持ちえたならば、葬儀は不要であるとの論議も出てこよう。
 しかし、我々凡夫には、故人の生涯にわたる信心の厚薄など、到底、判断することができない。したがって、故人の信心の厚薄にかかわらず、追福作善をもって臨終の一念を助けて成仏得道せしめ、真の霊山浄土へと導くことが大切なのである。それが葬儀のもつ厳粛な意義である。
 このように、葬儀とは、まさしく人生における一大事の儀式である。したがって、この葬儀を軽んじたり、その化儀を改変したりすることは、三世を説くところの仏教を信仰する者としての資格が全くない。


5.仏教における葬儀の事実

 中野毅氏や小島信泰氏にいわせると、本来、葬儀は仏教の中に説かれていないようであるが、葬儀が釈尊の在世より行なわれていたことは、『仏説浄飯王般涅槃経』に説かれる浄飯王の葬儀や、『大般涅槃経後分』に説かれる釈尊の葬儀等によって、広く一般に知られている。あるいは、また阿難が釈尊に対して、滅後における葬儀の儀礼の在り方を問訊した『長阿含遊行経』も、また有名である。
 因みに、『仏説浄飯王般涅槃経』には、浄飯王を火葬した後、収骨して金函に盛り、塔を起てて供養したことが説かれている。このことは、釈尊の時代において、既に墓や塔婆につながる起塔供養が行なわれていたことを意味する。
 さて、周知のとおり、日蓮大聖人は弘安5年10月13日、武州池上の宗仲の館で、不滅の滅の妙相をお示しになられた。翌14日、本弟子6人が中心となって、戌の刻に入棺され、子の刻に葬送・火葬申し上げた。その時の役割次第等を、第2祖日興上人が『宗祖御遷化記録』に、克明にお書きになっている。
 また、日興上人は、正慶2年(元弘3年)2月7日、御遷化遊ばされた。その葬送の模様については、保田日郷が、『日興上人御遷化記録』に記している。それをみても、第3祖日目上人以下、僧侶が中心となって執行せられたことが、明白に判る。
 また、日有上人の『化儀抄』には、
「親類縁者一向に一人も無き他宗門の僧俗近所に於いて自然と死去の事有らば念比に訪ふべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり」
と、たとえそれが他宗門の僧俗であっても、その人に縁故者がいない場合には、ねんごろに葬儀を執行し、引導をわたすべきことを記されているのである。
 仏教儀礼の中に、葬儀が説かれているかどうか、これらの事跡をみれば、おのずと明らかであろう。下衆の勘繰りはすべきでない。


6.信徒の葬儀を僧侶が執り行う理由

 大聖人御在世中の信徒の葬儀についてみた場合、御書中には、故人への追善回向に関することは多く説かれているが、葬儀に関する御指南は、特別に見当たらない。しかし、それに近いものは説かれている。
 例えば、『忘持経事』によれば、富木常忍氏は、母の没後、間もなくその遺骨を抱いて、下総の地よりはるばる身延へと参詣し、大聖人にその追善を願い出ていることが判る。また、南条兵衛七郎氏の死去の報を聞かれた大聖人は、わざわざ上野の地へと赴いて墓参をされ、後年には代参として、日興上人を上野に遣わされてもいる。さらに、六郎入道の死去の折には、大進阿闍梨を代参として遣わされているのである。
 なお、日興上人の『曾根殿御返事』には、
「故尼御前二七日の御ために米二升・ゆふかほ三・はしかみ・牛房一束給い了ぬ、聖人の御見参に入まいらせて候」
と、曾根氏の尼御前の二七日忌の法事を行なったことが記されている。二七日忌の法事を行なっているにもかかわらず、2週間以前の葬儀を行なわなかった、などという本末転倒のことは、常識的に考えてありえない。
 これらの事跡をみるに、当時の葬儀の形態作法はいかようにもあれ、信徒の葬儀が執行されていたことは確かである。同時に、死後間もない法事ですら、大聖人や日興上人に願い出ているのであるから、葬儀においても、当然、大聖人や日興上人等の直弟子ないし各地域にいる門下の僧侶に願ったであろう。
 このように、法華経を持つ僧侶に、その追善を願い出たことは、誰人も否定できないことである。それを、日蓮大聖人の時代、信徒の葬儀を僧侶がしたか、しないかなどと、低劣愚昧な質問を弄するとは、それ自体が偏頗な邪見であり、愚の骨頂である。日蓮正宗の信徒であるならば、日蓮大聖人の御金言を根本として、御歴代上人の化儀に関する御指南を、忠実に守っていくのが、成仏のための在るべき姿である。
 これを本義からいえば、日有上人は、
「親の為には僧を供養すべし、其故は仏事とは無縁の慈悲に住する所なり、無縁の本体が出家なり、されば仏事には僧を供養するなり」
と、葬儀・法事等には、必ず僧に願い出て、僧を供養すべきであると仰せである。また、日因上人は、これを敷衍して、
「無縁慈悲の本体の出家と云うは、当宗出家の当体即仏法僧三宝なるが故、又本理を以て法と為し、智慧を以て仏と為し、慈悲を以て僧と為る故に、僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし」
と、三宝一体の上から僧宝供養の意義を仰せである。
 もともと、仏法においては、何事をなすにも三宝の加護を願い、三宝への報恩供養をすることが、その基本である。この基本を心得れば、このような問題は、おのずから氷解するであろう。
 ところが、池田創価学会では、この三宝、特に僧宝をわきまえず、あるいは僧宝は日興上人御一人のみ、あるいは総別の二義を愍じて、信徒も直ちに僧宝である等と、両極端の僧宝論を立てているのである。これは、三宝破壊の大罪であり、僧俗師弟の筋目を失う大謗法である。
 日興上人が僧宝にましますことは、当然である。しかし、僧宝が、日興上人御一人のみとすることは、唯授一人の血脈家である本宗からみれば、大きな落ち度があるといわなければならない。日寛上人の『当流行事抄』や『当家三衣抄』を拝すれば判ることだが、また、『三宝抄』では、
「吾日興上人嫡々瀉瓶の御弟子なること分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是僧宝也、及び門流の大衆亦爾也」
と、明解にお示しである。すなわち、本宗の僧宝は、日興上人をその随一として、御歴代上人の全てを含むのである。また、総じていえば、門流の大衆、すなわち一般僧侶も、全て僧宝に含まれるのである。つまり、僧侶は師匠、信徒は弟子なのである。このことは、末寺の住職を僧宝と立てる住持三宝の在り方からみても、容易に首肯されるところであろう。
 故に、日有上人は、
「私の檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云ふ義は有るべからざるなり、其小筋を直すべし、血脈違は大不信謗法也、堕地獄なり」
と、師檀の筋目を糾すべきことを仰せられ、日因上人も、
「私の檀那の筋目之を糺すべき事、此は師檀の因縁を示す檀那は是俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非ず、況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり乖背は即不信謗法の故なり」
と、末寺住職と信徒との関係を、師弟子の筋目において示し、僧俗の関係を乱す信徒は、即身成仏はおろか、必ず謗法堕地獄であると決判されているのである。
 また、池田氏が、「宗門の御先師」と讃歎する日淳上人も、
講中制度に就いて』の中で、
「講頭並に講中の役員は決して教師の意味を含むではいない筈であります。(中略)もとより布教等の場合には一分教師の役目を為すも差し支えないが、若し講員に対して純然たる教師のことを為すならば、あまり分をしらないことと考へます。」
と、僧俗の筋目・信徒間における筋目を御指南されている。論ずるまでもないが、創価学会の首脳幹部はもとより、たとえ池田氏といえども、日蓮正宗の教師僧侶の資格はない。にもかかわらず、教師僧侶のマネをするならば、あまりに自らの分を知らない、大増上慢といわざるをえない。
 現在、多くの日蓮正宗の信徒を撹乱し、この僧俗の筋目を乱して、破和合僧の大逆罪を犯しているのは誰か。まさに池田大作氏その人である。このような体質であっては、願業の成就など、到底、ありえようはずがない。同時に、このような学会の体制に従って葬儀を執行したならば、必ず地獄へ堕ちるのである。
 さらにいえば、大聖人の御在世であれば、大聖人に対する渇仰恋慕の思いから、葬儀に限らず、全ての祈念等を、大聖人ないし大聖人の直弟子等に願い出たであろう。それが、信仰というものである。法事もしかり、安産祈念もしかり、厄払い祈念もしかり、棟札もしかり、みな御書中にあるではないか。信徒は、皆、僧侶を師匠とし、僧侶に諸事を願い、僧俗和合して、その願業を成就したのである。それが、大聖人の仏法における規範である。このことは、『新田殿御書』の、
「経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり、行者は法華経の行者に相似たり、三事既に相応せり檀那の一願必ず成就せんか」
との文によっても明らかであろう。


7.信徒が葬儀等の導師を務めることの誤り

 前述したとおり、学会では、既にいわゆる学会葬を執行している。葬儀を執行するためには、必ず故人を引導する導師がいなければならない。池田氏は、その導師に学会教学部の師範・準師範を宛てたのである。
 現当二世にわたる人間の尊い生命の葬送を、浅はかな人間の凡智で安直に考えること自体が、増上慢の証拠である。まして、無理やりそれに従わせようとする学会首脳幹部の暴挙は、第一に大聖人以来の日蓮正宗の法灯を受け継がれた御歴代上人の遺訓を冒涜するものであり、第二に親や兄弟を成仏の道から引きずり降ろすものである。
 かかる己義を、平気で人に勧めていく罪障の深さたるや、到底、量り知れるものではない。学会首脳幹部、あるいは師範・準師範等の学会僧、さらにはこのような学会の葬儀観に迎合する学会員は、親や先祖はもとより、子孫末代をも、永久に地獄の淵に沈めることになる。その罪の深さを、まことにもって恐れなければならない。
 日蓮正宗の僧侶は、皆、必ず唯授一人血脈付法の御法主上人のもとで修行し、免許を蒙って法衣(素絹・袈裟)を着するのである。『出家功徳御書』や『当家三衣抄』を拝してみれば判るであろうが、本宗の法衣には甚深のいわれがあり、その功徳力は莫大である。僧侶は、その法衣を着するがゆえに、大聖人の代理、血脈付法の御法主上人の代理として、葬儀等の諸法要を営むのである。
 僧侶の資格もないのに、その資格があるかのように振る舞い、葬儀の導師を務め、引導をわたす学会僧は、まさに悪鬼入其身の私度僧というべきである。三宝を失い、師範・準師範という私度僧を立てて葬儀を執行しようとも、そこに即身成仏の功徳など、全くあろうはずがない。かえって、故人も導師も、もろともに悪業の因縁を増し、無間の業火に苦しみあえぐだけである。
 保田妙本寺の日継師の著『当家引導雑雑記』に、
「仰に云く不知案内にして亡霊の引導は悪道に堕すべし、是は法然弘法に超え過ぎたる罪障なり、彼れは謗法の衆生を悪道に引く、是れは持経者として其の霊を悪道に引き入れん事浅間敷き事なれば、我が檀那なりとも智者を頼み引導さすべきなり」
とある。たとえ妙法を受持している信徒であろうとも、その資格にない者が、自身の不徳を顧みずに葬儀の導師を努め、引導をわたしたならば、その罪障は、法然や弘法にも過ぎるというのである。まさに無間の業因にほかならない。ゆえに、いかに高位の信徒であれ、必ず血脈正系の出家僧に、引導を願わなければならないことは、理の当然であろう。
 富士の傍系たる保田郷門ですら、このように心得ているのである。いわんや富士の正系においてをやである。それを、自らの都合で、富士の傍系であるから当たらずという者がいれば、それは愚直というものである。そういう者は、天台大師の、
「明者は其理を貴び、暗者は其文を守る」
との言をよく思うべきである。
 また、即席の学会僧には知る由もないであろうが、葬儀において導師を務め、引導をわたすことは、大変な心構えが必要なのである。その心得について、『化儀抄』には、
「仏事追善の引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず、経を読んで此の経の功用に依つて当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし、乃至法界平等利益」
とあり、また『当家引導雑雑記』には、
「引導師は智者に非らずんば叶ふべからず、其の故は死人は無心にして草木の如し、而も無心の者に心を入るゝ事は且らく導師の心地に有るべきなり、色々の心持ち相伝之れ有りと雖も初心の行者にては無二の道心に住して余念を絶し三世の諸仏御影嚮と祈念し、大聖人の御引導にて先師の取次ぎをし其の間の使と心得べきなり、其の時以信得入非己智分の文肝要なり」
とある。すなわち、僧侶は法衣を着し、私心なく導師を務めるゆえに、大聖人の代理として、故人に引導をわたすことができるのである。
 なお、離島や海外において、実際に僧侶不在の葬儀が執行されていることについて、その是非を、ここで若干述べておきたい。なぜならば、池田創価学会における、僧侶不在の葬儀を執行する最大の根拠が、この点に存するからである。
 現在、僧侶が導師となっての葬儀が執行不可能な場合、学会幹部が導師を代行している。その是非をいえば、是である。それは、僧侶が導師を務める葬儀が正式な化儀作法であるのに対し、僧侶の代理として学会幹部が執行する葬儀は略式の化儀作法に当たるからである。このとき、僧侶がその権能を学会幹部に依託するから、血脈の筋目の正しきによって、成仏が許されるのである。
 時局協議会で作成した『外護について』の中で、この「略」について述べているので、ここで引用しておく。
「略には、化儀は略式でも、意義は欠けることなく存する『存略』と、意義において欠けるところのある『闕略』がある(闕とはケツと読み、欠けること)。
 当家の方便・寿量の二品読誦などは存略であり、法華経一部二十八品を読む意義を存する。このことは、日寛上人の『題目抄文段』に、
 『“略”は闕略にあらず即ちこれ存略なり。故に大覚抄に云く“余の二十六品は身に影の随い玉に財の備はるが如し、方便品と寿量品とを読み候えば自然に余の品は読み候はねども備はり候なり”」
と御指南されている。
 このように、正しい筋道と信心の上から、略式の化儀が行なわれることを、『存略』というのである。」
 すなわち、上記のように、離島や海外の場合で、僧侶の導師による執行が不可能な場合には、略式とはいえども、そこには一体三宝の意義が存するのである。これに対し、現在の池田創価学会のように、我見で僧侶不要とするならば、それは『闕略』であり、僧宝の徳を欠くのである。このことは、前述したとおりであり、三宝一体の道理からみて、仏宝・法宝をも滅するのであるから、まさに三宝破壊という大謗法と断ぜられるのである。
 辻副会長をはじめ、現在までに葬儀の導師を務めた学会僧の面々は、以上のことをよく思慮して、2度とこのような大謗法を犯すことのないよう、自らの犯した大謗法を深く反省・懴悔し、速やかに本宗本来の正信へと立ち戻るべきである。


8.戒名・塔婆について

 葬儀に関連する中に、戒名・塔婆等がある。学会では、これらについても種々疑難し、大聖人の時代には、これらの習慣がなかったなどと、盛んに触れ回っているのである。
 まず、戒名についていえば、大聖人の御在世から存するのに決まっているではないか。大聖人の御父が妙日、御母が妙蓮、南条時光殿が大行、曽谷教信殿が法蓮である。そのほか御書を拝せば、いたるところにみられることである。
 池田氏のスピーチばかりを学習して、御書を拝さないから、このような愚直なことをいうようになるのである。真に日蓮正宗の信仰をしたいのならば、『新池御書』に、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」
とあるように、現在の学会組織の体制に背いてでも、自らの所属寺院へと足を運び、僧侶から大聖人の仏法の正しい法理を学ぶべきである。それが本当の求道であり、池田氏や学会組織に対する本当の報恩というものである。
 さて、先にも引用したが、『化儀抄』の第6条に、
「仏事追善引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず、経を読んで此の経の功用に依つて当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし、乃至法界平等利益」
とあるように、故人の無始の罪障が、戒名をもって消滅される意義が存するのである。故に、日亨上人も、
「亡霊への廻向には・其導師たるもの少しも私の意志を挟むべからず、御経の功用に任すべし、此時は蓋し、戒名に意義ありと意得べしとなり」
と仰せられ、日達上人も、
「追福作善の法事、あるいは葬式の引導の回向には、導師をなす人は、虚心坦懐いささかも私心を持ってはいけません。ただ読経唱題して、『妙法経力即身成仏』の功用にまかせる時、その亡者を戒名によせて、その亡者の無始いらいの謗法罪障を消滅し即身成仏は疑いないのであります。」
と仰せられているのである。このように、故人の無始以来の罪障を消滅させ、即身成仏へと導くことに、戒名の大事な意義が存するのである。
 したがって、「戒名はいらない」などと、自らの都合や我見をもって、一般会員に吹聴することは、それ自体、本宗の戒名の深義を冒涜する大罪なのである。
 次に、塔婆についていえば、池田創価学会は、「回向に塔婆を要しない」などという己義を掲げて、最高の孝養である精霊回向の道を閉ざし、宗門伝統の法義を失墜せんとしているのである。
 大聖人は、『中興入道消息』に、
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ・東風きたれば西山の鳥鹿・其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん」
と、塔婆に認められたお題目の功徳により、九界即仏界、仏界即九界の、当位即妙の成仏がかなうと仰せである。
 また、最蓮房に与えられた『草木成仏口決』にも、
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」
と、塔婆供養が、まさに死の成仏であると仰せである。
 学会青年部の中枢の面々が、これほどまでに御書から離れていたとは、呆れて開いた口が塞がらない。と同時に、今後、このような者たちが、創価学会を背負っていくことを考えると、本当に身の毛のよだつ思いがする。
 彼らは、自らの人生の師匠と仰ぐ池田氏が、サンパウロ一乗寺において、
「塔婆供養の意義について述べておきたい(中略)塔婆供養による唱題の回向によって諸精霊に追善がなされ、生命の我を悪夢から善夢へと転換していけるのである。」
と述べたことを知らないのであろうか。また、辻副会長も、
「父親が邪宗教をやった方であれば、ねんごろに塔婆供養をして回向することが最大の親孝行になるのです。」
と、述べているのである。
 本来、このような一切衆生の成仏、不成仏を決定づける法義は、どこまでも普遍的なものでなければならない。普遍であるがゆえに、信仰も成り立つのである。ところが、学会で説く教義は、目まぐるしく変わっているのが実状である。こうしたことを、学会員は、何も不思議に思わないのであろうか。はなはだ不思議でならない。
 このように、指導内容が極端に変わる根源は何かといえば、それは、池田創価学会の、日蓮正宗の信仰自体に対する、捉え方の変遷にある。すなわち、池田氏の名誉欲・権力欲・金銭欲等を満たすことが一切の中心となって、信仰と組織との比重が逆転し、仏祖三宝尊を根本とすべき信心が欠如してしまったのである。
 池田創価学会における本宗の信仰は、もはや池田氏の願望を満たすための手段でしかない。このような体質の学会組織では、いくら指導を受けようとも、御本尊の本当の功徳を得られようはずがないのである。創価学会の一般会員は、ここのところをよくみて、冷静に判断しなくてはならない。


   むすびに  

 以上、葬儀を中心として、池田創価学会の化儀改変の大謗法を破折してきた。
 結論的にいえば、池田創価学会の迷妄は、ひとえに池田氏一人の慢心にある。この慢心が原因となって、悪しき僧俗平等論を唱え、本宗本来の三宝を破壊して、多くの純粋な本宗信徒を悪道へと導き入れようとしているのである。換言すれば、三宝に対する池田氏の信心が欠如しているからこそ、慢心・欲心が燃え上がって僧俗平等を掲げ、かえって僧宝の捉え方を改変して、血脈付法の御法主上人までをも蔑如し、本宗の三宝を破壊するに至ったのである。
 かかる体質だからこそ、僧侶不在・三宝不具足の誤った葬儀を執行することができるのである。しかし、そのような葬儀を行なえば、そのまま導師も故人も、もろともに阿鼻大坑へと堕するであろう。同様に、三宝が整っていなければ、結婚式や盂蘭盆会・彼岸会をはじめ、いかなる冠婚葬祭を執行しても、そのよってきたる悪業報は同じく阿鼻大坑である。
 このような池田創価学会の似非信仰の体質では、到底、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布は、達成できない。否、たとえ池田創価学会による広宣流布があったとしても、それは、決して大聖人の仏法の広宣流布とはいわないのである。
 ともかく、創価学会員といえども、学会員である前に、日蓮正宗の信徒(※但し、平成9年11月30日以後は自動的に檀信徒の資格を失うことになりました)なのである。日蓮正宗の信徒である以上、正しい日蓮正宗の信仰の在り方を正しく心得て、正しく貫いていかなければ、本当の即身成仏の大仏果は得られない。今後は、謗法堕地獄の学会葬を執行しようなどと思うことなく、大聖人、日興上人以来の血脈付法の御法主上人のもと、日蓮正宗伝統の化儀化法に基づいた、立派な葬儀を執行していただきたい。
 日寛上人の『臨終用心抄』に、
「先づ平生に心に懸け造次顛沛にも最も唱題すべし。亦三宝に祈ること肝要也。又善知識の教を得て兼て死期を知り臨終正念証大菩提と祈るべき也。多年の行功に依り三宝の加護により必ず臨終正念する也。臨終正念にして妙法を口唱すれば決定無有疑也」
と仰せである。こうした正しい三宝への信とたゆまぬ行の在り方をしっかり心に留められ、未来永劫の成仏のために、正しい信心を貫かれることを切望するものである。

    以  上

引用元:葬儀について - 日蓮正宗 正林寺 掲示板