日蓮正宗のススメ

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人生最大の善事を好き嫌いで判断するな

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
人生最大の善事を好き嫌いで判断するな

 皆さん、お早うございます。皆様方のご周囲の方の中にも、少し信仰の話しをいたしますと、途端に顔色を変えて、拒絶反応をし、聞く耳を持たないという人が非常に多いと思うのであります。例えば、たまたま奥さんがある人から教化を受け、折伏を受けて入信をなさる。そうしますと今度はご主人が「全く信心は嫌いだ」と言って、「俺を取るか信心を取るかどちらだ」というようなことをおっしゃったり、色々なケースがあると思います。私達が生きていく上におきまして、あるいは人生において、そういう物事を好きか嫌いかという感情でもって判断していいものと、あるいは又、ひとつの理性と申しますか、道理を根本にした深い洞察と、そして又、色々な状況のもとに、色々なことを学び、その知識の上から正しく判断をすべきものと、やはり物事には色々あるということを根本的に知らなければいけないと思うのであります。

 特にそのことが善いことなのか、悪いことなのか、正邪の判断をしなければならないという場合がありましょうし、それが果たして必要なものかどうか、又、価値があるものかどうか、損か得かというような問題もあるでしょうし、重要であるか、そうでないかというような判断を迫られる場合もあるでしょう。物事というものは色々なものがあるわけであります。そういう時に、いちいち、それを全部ただ感情で、好きか嫌いかということだけで判断をしますと、人生にとって大変な損失となり、又まともな人生を歩めないという結果に陥ってしまうと思うのであります。行動を起こすべきか、あるいは自重すべきか、為になるものか、むしろ害になるものか、正しいものか間違ったものか、道理に適ったものかどうか、あるいは意義があるかどうか、重要であるのかそうでないのか、というような判断は正しい冷静な心でもって、又あらゆる知識を駆使して、そして正しく判断していかなければならない問題だと思うのであります。従って小説を選んだり、あるいは洋服のネクタイの柄を選んだり、あるいは音楽だとか、絵画だとか、書画骨董だとかというものだったら、自分の好きなものを選び、好きなものを読み、好きな音楽を聞き、好きなものをお食べになったらよろしいと思います。しかし人生において最も大事な問題を、ただ好きか嫌いかというようなことのみでの判断は絶対にしてはならないということを、世の中の人々に教えていかなければいけないと思うのであります。

 特に例えば学校の先生とか教師の善し悪しというものを判断するときに、幼い幼稚園の子供ならまだしも、まともな大人が、ただ好きか嫌いかというだけで、その先生の善し悪しを判断するとしますと、それは全く愚かなことでございます。あるいは又、病気になった時に、その医療が果たして正しいものなのかどうなのか、そのお薬を飲むべきものなのかそうでないのか、あるいは正しい医療というものを受ける時に、ただ俺は医者が嫌いだ、薬は苦いからいやだということだけで、その医療の問題や薬の問題を考えて判断してしまったり、自分の我がままな心で決めてしまってはやはりいけないわけです。どんなにお医者さんが嫌いな人でも、病院が嫌いな人でも、いざとなった時には、やはり医療にその必要性を求めなければならないことは事実でございます。どんなに苦い薬であったとしても、やはりその処方箋に則(のっと)って正しく服用しなければならない時は服用することが必要なのであります。あるいは又、お金というものも偽金(にせがね)と本当に通用する、その真贋(しんがん)を判断する時に、ただ絵柄が良いか悪いかとか、こっちが気にいったとか気にいらないとかいうことで、お金の真贋を判断することは出来ません。あるいは宝石なら宝石というものを、その真贋を判断する時に、やはり正しい観察というものが必要であります。ただこっちが良いの、こっちが悪いというような自分の感性の問題ではないわけであります。

 信心ということも実はそういうことでありまして、ただ好きか嫌いかでもって判断すべきものではありません。正しい信心につくということは、人生における最大の最高の師匠について、そして、その信心を土壌にして、本当に正しい正師の教導のもとに、自らの勉学といわず、あるいは家庭の建設といわず、又、仕事の取り組み方といわず、人生のあらゆる悩みや苦しみに打ち勝っていく。その堂々とした、たくましい生き方というものを、生涯を通して自分がその力を得ていく。悠然と乗り切っていける。そういう自分の境涯というものを開拓していくために、やはり正しい師匠につき、正しい法をその基(もとい)として、それを根本として、一切のものに打ち勝っていくというところに、正しい信心を持つ意義があるわけであります。

 又、一人ひとりの人間が持って生まれたその罪障を、ことごとく消滅していく。あるいは真実の報恩ということはどういうことなのか、本当の幸せということはどういうことなのか、本当に世界中の人々と連帯をして、そしてこの世の中に真実の寂光土を開拓していく道が果たしてあるのかどうか、どうすればいいのか、人生最大の問題を命の底から解決するところに、正しい信仰の意味があるわけであります。その一番大事なこと、この世の中で一番正しい善行が信心を持つということであります。一番正しい事柄、最大の善事が正しい信心を持つということなのであります。そのことを知らないで、ただ自分の軽々な判断で、好きか嫌いかという、その基準で判断するとするならば、それは本当に愚かな情けない、もう本当に物事の判断がつかない幼稚園の子供と同じ程度の人間だということを、自らさらけだしているのと同じことなのでございます。いやしくも賢明なる男の、賢明なる大人のとるべき道ではないということを私は申し上げたいのであります。従ってこの信心の問題、正しい信仰の問題をただ好きか嫌いかということだけで判断する人々に対して、ひとつそういう面でよく冷静に判断をしなさいということを教えてあげていただきたいと思うのであります。

 大聖人は『守護国家論』という御書の中に、「請い願わくば道俗法の邪正を分別して、その後、正法について後生を願へ。今度、人身を失い、つまり感情のままに愚かな身勝手な判断をして、道を誤って、三悪道に堕して後に後悔すとも何ぞ及ばん」(全三六取意)

ということをおっしゃっておられます。地獄、餓鬼、畜生に堕ちて、そして、その臨終の夕べになって、もう嘆いても、わめいても、のろっても、これはもう、もはや遅いのだということを、大聖人は教えておられるのでございます。人生におけるこの最大の師を知らず、人生における最大のこの善事を、そうした感情のままに判断をして、道を誤ってしまう世の中の人々に対して、私どもは今こそ正しく教導していかなければいけないと思います。以上をもって、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十三年五月一日)