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天台・伝教の唱えた題目と大聖人の唱えられた題目

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『日曜講話』第五号(昭和63年11月1日発行)
天台・伝教の唱えた題目と大聖人の唱えられた題目

 皆様方も何等かの機会に、大聖人様の御一代の御化導の御伝記と申しますか、そういうものをお読みになった機会があると思います。そうした時に、いずれのそうした大聖人様の御伝記におきましても、大聖人様が建長五年四月二十八日に、故郷の房州におきまして、初めて南無妙法蓮華経の、末法の一切の人々を救済する大法を打ち立てられた。「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮経」と遥か太平洋上に向かって、国土世間、また、衆生世間、五陰世間に向かって法界の一切に響けよかしと、お題目を初めてお唱えになったという意味のことが必ず書かれていると思うのであります。

 ところが中には疑問を抱く人がありまして、天台宗でも、「南無妙法蓮華経」と唱えているではないか。つまり、天台大師や伝教大師は、大聖人様よりも歴史的な時代をさかのぼりますと、四百年ないし六百年と遥かにもっともっと古い時代の人がお題目を唱えているではないか。また、大聖人様の『開目抄』という御書によりますと、「南無妙法蓮華経」というのはインドの言葉で「薩達磨分陀利伽蘇多攬(さだるまふんだりきゃそたらん)」(全二〇九)ということが説かれています。つまり、釈尊自身が法華経を説いて「薩達磨分陀利伽蘇多攬」という意味でのお題目を唱えているではないか。天台大師も「一切経の惣要一万反」(修善寺相伝私注、伝全三ー六六七)ということが天台大師の伝記に書かれております。一日一万遍のお題目を唱えたということが言われております。そうした意味からしますと、何も大聖人様が末法において、初めて、南無妙法蓮華経のお題目を唱えられたというのは、少しおかしいのではありませんかということを、時々、質問される場合があるのであります。そこで皆様方によく心にとどめておいていただきたいということは、たしかかに文字で書きますと、天台宗で唱える題目も「南無妙法蓮華経」と活字では表すことができます。また、一応、音で唱える時はそのように聞こえます。ですけれども、その実体、法体そのものが違うということをよくお考えいただきたいと思うのであります。

釈尊や、あるいは天台や伝教の唱えた題目は、それは一念三千に約して、大聖人様御自身が「天台・伝教は理の一念三千、日蓮は事行の一念三千」(全八七七)と仰せになりますように、当然また唱えた題目も、天台・伝教の唱えた題目は、『法華経』の文上の理具の題目です。つまり、『法華経』は、その「序品 第一」から始まって必ず題号の上に、「妙法蓮華経 序品 第一」「妙法蓮華経 方便品 第二」「妙法蓮華経 譬喩品 第三」という風に書かれてありますように『法華経』の題目なのです。即ち釈尊法華経をお説きになって、そして「是くの如く我聞けり」かくのごとく法華経の説法を聞きましたという、羅什三蔵が翻訳をした『妙法蓮華経』という、この一部八巻二十八品の題号のお題目を唱えたのであります。大聖人様のお題目はそうではありません。これはどこまでも、大聖人様が久遠元初の仏様といたしまして、

 「至理は名無し、聖人、理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時不思議の一法之れ有り。之れを名づけて妙法蓮華経と為す」(全五一三)

と大聖人様が倶時相即、つまり直達正観。大聖人様御自身が即座開悟した、その悟られた久遠元初の名字の妙法蓮華経を唱えておるということであります。

大聖人様御自身のお悟りの法体の題目。今の私達に約して言うならば大聖人様が御図顕遊ばされましたその御本尊様の当体の題目。つまり御本尊様の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認め遊ばされておるその御本尊様の題目を唱えているわけであります。従って天台や伝教のように、また、他の宗旨のように、『法華経』の経巻の題目を唱えているのではない。『法華経』の経典、経文の題目を唱えているのではないということをよく心に置いて頂きたいのであります。私達の唱える題目は、三大秘法の整足したお題目。本門の本尊と本門の題目と本門の戒壇という、この三大秘法がきちっと整足したところのお題目を唱えておる。そこが二つめの理由。第一は、大聖人様御自身が悟られた久遠名字の妙法蓮華経の題目を唱えておる。二つめは、大聖人様が建立遊ばされるところの本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇。この三大秘法が、きちっと整足したお題目を私達は唱えておるということ。

 そうして三つめは、これも御本尊に尽きるのでありますけれども、大聖人様の御自身の当体のお題目なのです。大聖人様御自身の南無妙法蓮華経仏としての人の本尊、そして大聖人様の顕されるところの法の本尊。人法一箇の上に顕された大聖人様の当体のお題目を私達は唱えておる。ですから、大聖人様と私達と、その信心を通して、題目の唱題を通して、勤行を通して、折伏を通して、大聖人様とその師弟一如の上におけるところの題目を唱えておるわけでざいます。例えば、他の宗旨の人が南無妙法蓮華経と、お釈迦さんの像に向かって唱えておる。あるいは、弥勒菩薩に向かって南無妙法蓮華経と唱える。文殊菩薩に向かって南無妙法蓮華経と唱える。、あるいは鬼子母神や大黒天に向かって南無妙法蓮華経と唱える等ということは、唱える対象の御本尊と唱える題目というものが一体となっていない。一致していない。つまり、中曽根総理大臣に「宮沢さん、宮沢さん」と唱えているようなもの。それで中曽根さんが言うことを聞いてくれますか?中曽根総理大臣に向かって「安倍さん、安倍さん」と百万遍唱えたって、中曽根さんは言うことを聞いてくれるはずもない。また、そんな失礼なことはない。ですから、法体と唱える題目というものが一致しなければ、信仰も何もあったものではない。御利益も功徳も何のはたらきもない。大聖人様御自身の顕された御本尊、大聖人様の十界、その御内証を顕された当体の御本尊に向かって、「南無妙法蓮華経」と唱えるから、大聖人様は私達の信心を嘉(よみ)せられて、その功徳を与えて下さる。大聖人様との間に、主師親の三徳の関係が生まれてくるわけであります。私達の唱える題目はどこまでも、大聖人様の当体の御本尊様のお題目であるということをよく心に置いていただきたいのであります。

天台や伝教の唱えた題目も、文字に顕した時には南無妙法蓮華経と書いてはおります。音(おん)では、その様に聞こえます。しかし、それは理の題目であって、決して大聖人様御自身が顕された当体の題目ではない。三大秘法の題目ではないということをしっかりと心に置いて、立正佼成会の唱える題目や、日蓮宗の人達が唱える題目と、本宗の私達の唱える題目とは、根本的に違うということをしっかり心に置いて、そうした一時的な思い付きの邪義に紛動されないようにしていただききたい。大聖人様だって、天台大師の、あるいは『法華経』からきた題目を唱えておるのだというようなことを言う人が世間には多い。何の実体も、その内実を知らずして、ただ表だけ、ただ活字に書いたら同じように見えるものですから、ついつい、そういう邪義を振り回す人も多いのであります。従って皆様方はどこまでも、大聖人様の当体、久遠元初の妙法を唱えておるということをしっかり心に置いて、そうした疑念をきちっと払拭していっていただきたいと思う次第であります。今日は、その天台・伝教の唱えた理の題目と大聖人様の事行の法体は違うということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年十一月一日)