日蓮正宗のススメ

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身口意三業具足の信

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
身口意三業具足の信

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 皆さんお早うございます。今朝、参詣ならびに御授戒の方々の過去遠々劫以来、謗法罪障消滅、家内安全、息災延命、信心倍増、現当二世・大願成就、ならびに皆様方の御一家の御健勝と御繁栄の御祈念を懇ろに申し上げました。

 この仏法の上では信心の信という字は、これは仏法の宝物の中にも七宝という七つの宝がございますが、その中でも第一の宝を信という一字が、また、その徳を示しているのであります。その信という一字は、この人偏に言葉の言という字を書きます。この信の一字というのは、信の一字そのものが、仏法でいうところの身口意三業(しん・く・い、さんごう)つまり心と口と体の振舞いというものが合致した姿を示しているのであります。この人偏の人というのは、人間の口と人の身(からだ)、人の身体を表わしておるということと同時に、それは人の心もシンと読みます。そして申(の)べるということも、申しのべるという字もシンという風に音は発音を致します。このように、心・身、心のシンと身(からだ)のシンと、そして口に申(の)べるシンと、この全てが相整う、相重なるという意味を、この信心の信という字の人偏が表わしているのであります。そして言葉の言という字は、昔の古い中国の古典を見ますと、心という字(心臓の象形文字の・、または心と同音の辛という字を借用)を書いて、その下に口という字を書いて、その字(・または・)が、言、コトバという意味を表わしているのであります。つまりそれは、この内なる心を外に向かって表現することが言葉ということでありますから、今はその言という字は、言(ことば)という一字になっていますけれども、昔の古い字を見ると(・のように)上に心と書いて、その下に口という字を書いて、始めて言、コトバという意味を表わしているのであります。

 昔の都々逸(どどいつ)に「わたしゃロウソク、芯から燃える、あなたランプで、口ばかり」というのがございますが、いつの時代でも、やっぱり口先だけというのは、いけないのであります。皆さん方のお友達の中にもやっぱり、口先では立派なことを言うけれども、その心が、その根性が曲がっていたり、あるいはその振舞いが、その実践が伴っていなかったりということは、これは信心に限らず、勉強の上でも、仕事の上でも、あるいはその家庭の生活の上でも、お付き合いの上でも、やっぱり口先ばっかりという人は、一時は、人間関係もうまくいくように見えるけれども、誠意の無い、誠実さの無い、口先だけのこと、一時の繕いというものは、いつかは化けの皮が剥がれてしまうのであります。やっぱり心と、そして言うことと、実践することが相整って、始めて自分の人格も高まり、人の信用もそこに重なっていくのであります。信心も実はそうでありまして、ただ心だけでもいけません。口先だけでもいけません。やはり、そこには実践というものが、きちっと整って、始めて、これは本当の信という字が成り立っておるのであります。

 ですから信心というものは、やはり信の一字が既にそうした仏法でいう身口意三業ということを、きちっと表わしておる。その身口意三業の上に信じられて、信ずることが出来て、始めて本当の信ということが言えるのだということを、一つ心に深く銘記して頂きたいと思うのであります。

 大聖人様は『御講聞書』という、法華経を解釈なさった御書の冒頭に、

 「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あ るべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事 なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち、心に念じ、 口に唱え奉るべき時なり」(全八〇七)

と、やはり身口意三業というものが、きちっと整わなければいけないということを『御講聞書』に教えておられるのであります。

 そうした意味を、また更に、総本山第二十六世の日寛上人という御方は『如説修行抄』の文段(如説修行抄筆記)を著わしておられるのでありますが、その一番最後に、最後の結論として、

 「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば心が 謗法に同ずるなり」(富要四ー四一二)

心に一時でも折伏の心、広宣流布の心を失ったならば、その心が謗法に同ずるなりということを言われております。また、

 「口に折伏を言わずんば口が謗法に同ずるなり」(同  上)

常に自分の言動の中に広宣流布の志、また広布への熱い思い、その実践が自分の口の端(は)に無かったならば、自分の心と同時に、今度は口も謗法に同ずるんだということを言われております。また、

 「手に珠数を持ち本尊に向かわざれば身が謗法に同ずるなり」(同  上)

折角わが家に御本尊様を御安置申し上げても、一日の勤行の実践が伴わなけれりば、手に珠数を持ち、心に御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えて、実践することが伴わなければ、わが身が謗法に同ずるなりということを、日寛上人は教えておられます。

 こうした御指南を通して、私達は信という、たった一字の中に、そうした身口意三業ということが深く秘められているんだということを、一つお互いに心して、これからの信心の糧としていって頂きたいと思うのであります。

 そしてまた本日、御授戒を受けて、この御本尊様を受持された方々は、一つ今日から、大聖人様の、この一閻浮提第一の御本尊を持ったわけであります。一閻浮提第一の宝物を頂いたのであります。しっかりと、大聖人様の弟子としての信心を全う致されまして、これからの人生における一切の悩みや苦しみに打ち勝って、その妙法の功徳を、わが身の上にしっかりと積んで、そうして、これから揺るぎ無い幸せな境涯を、一歩一歩、開拓して行って頂きたいと思うのであります。

 信心は、ただ今も申し上げましたように、自分の思い付きで、自分の気に入った時だけ、自分の気に入ったようにすることが、そうした我が侭な信心では、いつまで経っても功徳を頂戴することは出来ません。やはり、大聖人様の弟子として、大聖人様の教えの通り、大聖人様の心にかなう信心をした時に、始めて大聖人様から御本尊に整足する広大な、その功徳を、わが身の上に頂くことが出来るのであります。

 そしてまた皆様方が御本尊をお受けになって、そして信心をされたというと、ついお友達や、あるいは世間の人や、御親戚の方々が、まあ何だかんだと言いましてね、中傷・批判し、そして皆様方に信心をさせまい、させまい、させまいと、そういう魔の働きをする人が、必ず皆様方の身の周りに現れて来るのであります。その時に、やはり、いつかも申し上げましたように、人の言葉に従うんじゃなくて、自分のまたその脆弱な心や、自分の怠惰な心に従うのではなくて、大聖人様の教えに従って行くことが本当の信心なんだということを、やはりまた心に置いて頂きたいと思うのであります。

 前にも私申し上げたかも分かりませんけれど、この人の噂や人の口の端というものは常にそれは思い付きでございまして、こういう譬えがあります。昔、ある男の子とお父さんが、一匹の小さなロバを市場に売りに出そうと思って、市場に連れて行こうとしていたのであります。その時に、お父さんは、その男の子、わが子をロバの背中に乗せて、そしてお父さんがこのロバの首を引っ張っていたのであります。そうしますと、向こうから一人の男の人がやって参りまして、男の子というのはこれは元気な者である。子供はまた親に孝行しなければいけない者である。ですから自分が乗って親に引っ張らしているというのは良くない。お父さんを乗せて子供が引っ張るというのが当然だと、こういう風に言うのであります。そう言われてみると、なるほどまあそうかな、そういうものかなと、今度はお父さんが乗って、子供がこのロバの口先に紐を引っ張っていた。そうすると、また次の人がやって参りまして、一人が乗って一人が引っ張るなんてことをするよりも、二人が一緒に乗った方が楽じゃないかと、こう言った。そう言われて見りゃそれもそうだと思って、今度は親子がロバの上に乗って、ロバの背中に跨ってトボトボと歩いて行った。そうするとまた次の人がやって参りまして、その小さなロバに親子が二人も乗って、もうロバがハァハァ喘いでいるじゃないか。あなた方は何というかわいそうなことをするのかと、こう言われた。一人が、男の子が乗っても言われる。お父さんが乗っても言われる。二人が乗っても言われる。親子は、もうどうしていいのか分からない。とうとう親子が、そのロバを担いで行ったという話がある。それほど世の中の人というのは、みんな思い付き、もうみんな自分の浅はかな思い付きで物を言うのであります。これは一一そんなことにとらわれて、皆さん方が、自分が、ああでもない、こうでもないと言って、思い悩むことの愚かさを教えているのであります。

 自分は、大聖人様の弟子として、もう一閻浮提第一の正法を持つたのだ。大聖人様の弟子なんだ。三世を了達した、久遠元初以来、末法万年の尽未来際を、その一切の人々を救済される大聖人様の弟子として、一閻浮提第一の智者の御指南に私は従っておるんだ。そうした確信があれば、たとえ友達が何と言おうとも、世の中の人が何と言おうとも、心無い人が何と言おうとも、そういうものに紛動されない、強い確信の持ち主となって、この信心の大道を、立派に生きて行って頂きたいと思うのであります。どうか、そういう心無い世間の中傷・批判に負けない、そういう人に成って頂きたい、ということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、有難うございました。失礼致しました。

(昭和六十二年七月五日)