法華経27
夫法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住、故来至此」等云云。三仏の未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに、父母の一子の大苦に値ふを見るよりも、強盛にこそみへたるを、法然いたわしともおもはで、末法には法華経の門を堅く閉じて、人を入れじとせき、狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに、法華経を抛てさせける心こそ無慚に見へ候へ。(開目抄577㌻)
無慚(むざん)(梵: āhrīkya、アーフリーキヤ)は仏教が教える煩悩のひとつ。 はじらいのないこと。 なお、 慚とは、法灯明として自分の出世間たる仏の教えに照らして恥じる心のこと。