日蓮正宗のススメ

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1045夜:開目抄 第13回 折伏こそ時に適うを明かす

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引用元:日蓮正宗久道山開信寺

【涅槃経に云はく「譬へば貧女の如し。居家救護〔こけくご〕の者有ること無く、加ふるに復、病苦飢渇〔けかち〕に逼〔せ〕められて】
涅槃経には「一人の貧しい女性がいました。住むべき家もなく、助けてくれる人もなく、その上、病いと飢えに苦しみ、

【遊行乞丐〔ゆぎょうこつがい〕す。他の客舎に止まり一子を寄生す。是の客舎の主、駈逐〔くちく〕して去らしむ。】
乞食をして歩いていました。その時、ある宿に止まり子供を生んだのです。ところがその宿の主人はこの貧しい女性を追い出してしまいました。

【其の産して未だ久しからず、是〔こ〕の児〔こ〕を携抱〔けいほう〕して他国に至らんと欲し、】
未だ産んで日も経たないのに赤ん坊を抱いて他国へ行こうと思いましたが、

【其の中路に於て、悪風雨に遇って寒苦並び至り、多く蚊虻〔もんもう〕・蜂螫〔ほうしゃ〕・毒虫の?〔す〕ひ食らふ所となる。】
その途中で悪風雨に遭い、寒さと苦しみに襲われ、多くの蚊や虻や蜂や毒虫などに襲われる有様だったのです。

【恒河〔ごうが〕に径由〔けいゆ〕し児を抱いて渡る。】
このような苦難の中で大きな河にさしかかり、子供を抱いて渡ろうとしました。

【其の水漂疾〔ひょうしつ〕なれども而も放ち捨てず。】
その川の流れは、非常に激しかったのですが、それでも貧しい女性は、子供を最後まで見捨てる事はありませんでした。

【是に於て母子遂〔つい〕に共倶〔とも〕に没しぬ。是くの如き女人、慈念の功徳、命終〔みゅうじゅう〕の後、梵天に生ず。】
そして、ついに母子ともにその川で溺れ死んだのです。この女性は、子供を愛する功徳によって死んた後は、梵天に生まれたのです。

文殊師利〔もんじゅしり〕、若し善男子有って、正法を護らんと欲せば○彼の貧女の恒河〔ごうが〕に在って、】
文殊師利よ。もし紳士がいて、正法を護ろうとするならば、この貧女が大河の中で、

【子を愛念するが為に、身命を捨つるが如くせよ。善男子、護法の菩薩も亦、応に是くの如くなるべし。】
我が子を愛する為に身命を捨てたように、正法を固く護持して身命を捨てなさい。紳士諸君、護法の菩薩もまたこれと同じなのです。

【寧〔むし〕ろ身命を捨てよ○是くの如きの人、解脱〔げだつ〕を求めずと雖も、解脱自〔おの〕づから至ること、】
正法を護る為には、身命を捨てなさい。そうすれば、解脱を求めなくてもおのずから解脱出来るのです。

【彼の貧女の梵天を求めざれども、梵天自づから至るが如し」等云云。】
それは、この女性が梵天に生まれる事を求めたのではないけれども、我が子を思う一心で梵天に生まれたのと同じなのです。」と説かれています。

【此の経文は、章安大師、三障をもって釈し給へり。それをみるべし。】
この経文を章安大師は、煩悩、業、報の三障をもって解釈しています。それを見るべきです。

【貧人とは法財のなきなり。女人とは一分の慈ある者なり。客舎とは穢土〔えど〕なり。】
この経文にある「貧人」とは、財産のない者の事であり、「女性」とは、慈悲が少しでもある者であり、「客舎」とは、穢土の事です。

【一子とは法華経の信心・了因の子なり。舎主駈逐〔くちく〕とは流罪せらる。】
「一子」とは、法華経の信心であり、仏に成る為の種の事です。「舎主駈逐」とは、住む場所を追われ流罪にされる事です。

【其〔ご〕産未久とはいまだ信じてひさしからず。悪風とは流罪の勅宣〔ちょくせん〕なり。】
「其の産して未だ久しからず」とは、未だ信して日が経たない事であり、「悪風」とは、流罪の勅宣の事なのです。

【蚊虻〔もんもう〕等とは有諸無智人・悪口罵詈〔あっくめり〕等なり。】
「蚊虻〔もんもう〕、蜂螫〔ほうしゃ〕、毒虫」とは、多くの無智の人であり、それらの人々が悪口罵詈する事なのです。

【母子〔もし〕共没〔ぐもつ〕とは終〔つい〕に法華経の信心をやぶらずして頭〔こうべ〕を刎〔は〕ねらるゝなり。】
「母子共に没す」とは、ついに法華経の信心を捨てる事なく、首をはねられる事を指しています。

梵天とは仏界に生るゝをいうなり。引業〔いんごう〕と申すは仏界までかわらず。】
梵天に生る」とは、仏界に生まれる事を言うのです。現世に引き継がれる過去の業は、六道であっても仏界にあっても変わる事はないのです。

【日本・漢土の万国の諸人を殺すとも、五逆・謗法なければ無間地獄には堕ちず。】
たとえ日本や中国やその他の国々の人々をすべて殺したとしても、五逆罪と謗法の罪がなければ、無間地獄へ堕ちる事はないのです。

【余の悪道にして多歳をふ〔経〕べし。】
ただ、悪道へ長い間、堕ちるだけなのです。

【色天〔しきてん〕に生まるゝこと、万戒を持てども万善をす〔修〕すれども散善にては生まれず。】
色界へ生れる事は、すべての戒律をたもち、すべての修行をしたとしても、人を救わない自分だけの修行では出来ないのです。

【又梵天王となる事、有漏〔うろ〕の引業〔いんごう〕の上に慈悲を加へて生ずべし。】
また、同じ色界でも梵天へ生れる事は、現世に生まれる引業に慈悲を加えて、始めて出来るのです。

【今此の貧女が子を念〔おも〕ふゆへに梵天に生まる、常の性相には相違せり。】
いま、この貧しい女性は、子を思う慈悲の故に梵天に生れたのであり、仏法の通常の修行とは違うのです。

【章安の二はあれども、詮ずるところは子を念ふ慈念より外の事なし。】
これについて章安大師に二つの解釈書がありますが、結局、子供を思うこの母親の慈悲の心以外の話ではないのです。

【念を一境にする、定〔じょう〕に似たり。専〔もっぱ〕ら子を思ふ、又慈悲にもにたり。かるがゆへに、他事なけれども天に生まるゝか。】
ただ子供を思う一念は、仏教の功徳に似ており、また仏の慈悲にも似ています。それ故に他に仏法の修行をしなくても天界に生れたのでしょう。

【又仏になる道は、華厳の唯心〔ゆいしん〕法界、三論の八不〔はっぷ〕、法相の唯識〔ゆいしき〕、真言の五輪観〔ごりんかん〕等も】
この話を聞いて成仏の原因を考えると、仏になる道は、華厳宗の唯心法界や、三論宗の八不中道観、法相宗唯識真言宗の五輪観などでは、

【実には叶〔かな〕ふべしともみへず。】
とても成仏する事は出来ないでしょう。なぜならば、この物語にある母親の慈悲の心がないからなのです。

【但〔ただ〕、天台の一念三千こそ、仏になるべき道とみゆれ。此の一念三千も我等一分の慧解〔えげ〕もなし。】
ただ天台の一念三千こそ、成仏の唯一の道なのです。しかし、この一念三千についても、私達には、少しも理解する智慧さえないのです。

【而れども一代経々の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり。】
それでも釈迦牟尼仏の一代の経の中では、この法華経しか一念三千の玉を抱いている経がないのです。

【余経の理は玉ににたる黄石〔こうせき〕なり。沙〔いさご〕をしぼるに油なし、石女〔うまずめ〕に子のなきがごとし。】
このように他の経の理論は、玉に似た石であり、いくら砂をしぼっても油は出ず、たとえ女であっても男なしに子供は出来ない事と同じなのです。

【諸経は智者猶〔なお〕仏にならず。此の経は愚人も仏因を種〔う〕うべし。】
諸経では、たとえ智者であっても成仏する事が出来ないのですが、この法華経では、たとえ愚人であっても仏になる原因を作る事が出来るのです。

【「不求解脱〔ふぐげだつ〕・解脱自至〔じし〕」等と云云。】
「解脱を求めなくとも、解脱に自ら至る。」とは、この意味なのです。

【我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然〔じねん〕に仏界にいたるべし。】
このように、日蓮日蓮の弟子は、いかなる大難があろうとも、疑う心が生じなければ自然に仏界に至るのです。

【天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。】
諸天善神の加護がないからと言って法華経大利益を疑ってはならないのです。現世が安穏ではないからと言って嘆いてはなりません。

【我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。】
しかし、このように弟子に朝晩のように、この事を教えて来たのに疑いを起こして、みんな退転してしまったのです。

【つたな〔拙〕き者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。】
不甲斐ない者の習いとして、何もない時に約束した事を何か事が有れば忘れてしまうのです。

【妻子を不便〔ふびん〕とをもうゆへ、現身にわかれん事をなげくらん。】
妻子を可哀そうだと思って、現実に死んで妻子と別れなければならないと言う大難に遭うと、ただ歎いてしまうのでしょう。

【多生曠劫〔こうごう〕にしたしみし妻子には、心とはな〔離〕れしか、仏道のためにはなれしか、】
しかし、生まれて来る度に愛する妻子と心が離れてしまっているのでしょうか。それとも仏道修行の為に心が離れているのでしょうか。

【いつも同じわかれなるべし。】
どちらにしても、いつも死んで別れなければならないのです。

【我法華経の信心をやぶらずして、霊山〔りょうぜん〕にまいりて返ってみちびけかし。】
まず自分自身が法華経の信心を捨てずに即身成仏し、霊山浄土に行ってから、妻子を導き、助ける事が共に成仏する唯一の道ではないでしょうか。

【疑って云はく、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍〔あらそ〕ふ心あり。修羅道〔しゅらどう〕にや堕つべかるらむ。】
それでは尋ねますが、念仏者や禅宗などを無間地獄だと決めつけるのは、争う心からであり、それこそ修羅道へ堕ちる行為ではないでしょうか。

【又、法華経の安楽行品に云はく「楽〔ねが〕って人及び経典の過〔とが〕を説かざれ。亦、諸余の法師を軽慢〔きょうまん〕せざれ」等云云。】
また法華経の安楽行品には「他人や他の経典の過失を説いてはならない。また他の僧侶を軽蔑してはならない。」と説かれています。

【汝、此の経文に相違するゆへに、天にすてられたるか。】
あなたは、この経文に相違して他宗を攻撃するから、安楽行品に説かれている諸天善神の加護を受けられないのではないのですか。

【答て云はく、止観に云はく「夫〔それ〕仏に両説あり。一には摂〔しょう〕、二には折〔しゃく〕。】
それに答えると、摩訶止観には「仏は、法を弘める方法について摂受と折伏の二つを説かれています。

【安楽行に長短を称せずといふが如きは是〔これ〕摂の義なり、大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れといふは、是折の義なり。】
安楽行品の他宗の長所短所をあげつらうなとは、摂受の事であり、大涅槃経の刀を携帯して謗法の者の首を斬れと言うのは折伏の事なのです。

【与奪〔よだつ〕、途〔みち〕を殊〔こと〕にすと雖も倶(とも〕に利益せしむ」等云云。】
摂受は、相手に立場を与え、折伏は、立場を奪って弘法するのですが、その方法は違っていても共に相手に利益するのです。」と説かれています。

【弘決に云はく「夫仏に両説あり等とは、大経に刀杖を執持すとは、】
弘決には「仏に両説ありとは、摂受と折伏の事で大涅槃経に刀や杖を携帯するとは、

【第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修せず。】
この経の第三巻に正法を護る者は、不殺生戒などの五つの戒律を持たずに礼儀を正さなくても良い。

【乃至下の文、仙予〔せんよ〕国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。】
その事によって仙予国王が正法誹謗の者を殺し、正しい医者が麻薬を禁じて、それを持ちいる者がいれば即座に首を斬ると言ったのです。

【是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり。】
この文章は、仏法を破壊する人を必ず折伏せよという意味なのです。

【一切の経論此の二を出でず」等云云。】
すべての経論は、この摂受と折伏を出る事はないのです。」と説かれているのです。

【文句に云はく「問ふ、大経には国王に親付〔しんぷ〕し、弓を持ち箭〔や〕を帯〔たい〕し、悪人を摧伏〔ざいふく〕せよと明かす。】
法華文句には「質問しますが、大涅槃経には、国王に仏法を教えて、弓矢を以って悪人を退治して正法を護持せよと明かしており、

【此の経は豪勢〔ごうせい〕を遠離〔おんり〕し、謙下〔けんげ〕慈善せよと】
この法華経、安楽行品には、国王、大臣などの権力から遠く離れて、衆生と共にあって慈善の心を持つべきですと

【剛柔〔ごうにゅう〕碩〔おお〕いに乖〔そむ〕けり。云何〔いかん〕ぞ異ならざらん。】
このように涅槃経の剛と安楽行品の柔とは、まったく相反しています。どうして、この二つが異ならないと言えるでしょうか。

【答ふ、大経には偏〔ひとえ〕に折伏を論ずれども、一子地〔いっしじ〕に住す。何ぞ曾〔かつ〕て摂受〔しょうじゅ〕無からん。】
それは、大涅槃経では、折伏を論じているのであって、仏は平等に衆生を救う親と同じなので、どうして摂受がないわけがあるでしょうか。

【此の経は偏に摂受を明せども、頭破七分といふ。】
この法華経には、安楽行品などに摂受を明かしていますが、陀羅尼品では、法華経の行者を悩ます者に対して頭破七分を誓っているように、

折伏無きに非ず。各一端を挙げて時に適〔かな〕ふのみ」等云云。】
折伏がないわけではありません。それぞれ時に依るのです。」と説かれています。

【涅槃経の疏に云はく「出家・在家、法を護らんには、其の元心の所為を取り、】
章安大師の涅槃経の疏には「出家も在家も法を護るには、その根本となる心が大事であり、

【事を棄〔す〕て理を存して、匡〔まさ〕しく大経を弘む、】
形式的なやり方を捨てて、その内容である論理を大事にして法華経を弘めるのです。

【故に護持正法と言ふ。小節に拘〔かかわ〕らず、故に不修威儀と言ふなり○】
それ故に護持正法と言うのは、些細な事にこだわらないから礼儀を正さなくても良いと言っているのです。

【昔の時は平らかにして法弘まる。応に戒を持つべし、杖を持つこと勿〔なか〕れ。】
昔、正しい法が弘まった平穏な時代では、戒律を持たなくてはならないし、刀や杖を持って法を弘めてはいけないのです。

【今の時は嶮〔けん〕にして法翳〔かく〕る。応に杖を持つべし、戒を持つこと勿れ。】
しかし、現在は、濁悪の世で正法が隠没しているから、杖を持って強く正法を弘め、戒律を持つべきではないのです。

【今昔倶に嶮ならば応に倶に杖を持つべし。今昔倶に平らかなれば応に倶に戒を持つべし。】
今も昔も、ともに時代が濁悪であるならば、ともに杖を持つべきなのです。今も昔も、ともに時代が平穏であるならば、戒律を持つべきなのです。

【取捨宜しきを得て一向にすべからず」等云云。】
ですから、摂受と折伏は、時代に依るべきで、最初から、どちらかに決めるべきではない。」と説いているのです。

【汝が不審をば、世間の学者、多分道理とをもう。】
あなたの御不審を思えば、たしかに世間の学者の方に道理があるのかも知れません。

【いかに諌暁〔かんぎょう〕すれども、日蓮が弟子等も此のをもひすてず。】
どんなに諌めたとしても、日蓮が弟子達でさえ、この思いを捨てないでいるからです。

【一闡提〔いっせんだい〕人のごとくなるゆへに、先づ天台・妙楽等の釈をいだして、かれが邪難をふせぐ。】
これらの者が一闡提のような状態である故に、まず天台や妙楽などの解釈を取り出して、これらの邪難を防ごうと思います。

【夫、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。】
この摂受と折伏の二つの法門は、まさに水と火のような関係なのです。火は水を嫌がり、水は火を憎んで、たがいに相容れないのです。

【摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。】
摂受の者は、折伏する者を冷笑し、折伏の者は、摂受の手ぬるさを見て悲しく思うのです。

【無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前〔さき〕とす、安楽行品のごとし。】
無智、悪人が国土に充満する時は、摂受を第一に立てて法を弘むべきです。これが安楽行品の意義なのです。

【邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。】
邪智、謗法の者が多い時は、折伏を第一として、常不軽品のように弘法すべきなのです。

【譬へば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし。】
たとえば、熱い時に冷たい水を用い、寒い時に火が必要であるようなものなのです。

【草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失ふ。】
草木には、太陽が必要であり、寒い夜は、萎れてしまいます。水は、月より出ているので、熱湯になると物を冷やす用をなさないのです。

末法に摂受・折伏あるべし。所謂〔いわゆる〕、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。】
末法でも摂受と折伏の二門があるのですが、無智悪人の悪国と邪智謗法の破法の国で別れるのです。

【日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし。】
であるならば、日本の現在は、悪国か破法の国かを考えれば、邪智謗法の国であることは、間違いないので折伏でなければならないのです。

【問うて云はく、摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると、利益あるべしや。】
それでは、質問しますが、摂受でなければならない時に折伏を行じ、折伏でなければならない時に摂受を行じた時は、利益があるでしょうか。

【答へて云はく、涅槃経に云はく「迦葉〔かしょう〕菩薩、仏に白〔もう〕して言〔もう)さく○如来法身は金剛不壊〔ふえ〕なり。】
それに答えるとすると、利益は、ありません。涅槃経には、「迦葉菩薩が仏に質問して言うには如来法身は、金剛であり不壊であります。

【而るに未だ所因を知ること能〔あた〕はず、云何〔いかん〕。】
どうしてそのような法身を成就する事が出来たかを未だに知る事が出来ません。何がその原因なのでしょうか。

【仏の言〔もう〕さく、迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。】
それに仏は、このように答えられました。迦葉よ、よく正法を護持する因縁によって、

【迦葉、我、護持正法の因縁にて、今、是の金剛身、常住不壊を成就することを得たり。】
このように常住である壊れる事のない金剛身を成就する事が出来たのです。

【善男子、正法を護持する者は、五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣、弓箭〔きゅうせん〕を持つべし。】
紳士諸君、正法を護持する者は、五つの戒律を受けず、礼儀を正す事なく、刀や剣や弓や矢で正法を守るべきなのです。

【是くの如く種々に法を説くも、然も故〔なお〕、師子吼〔ししく〕を作すこと能〔あた〕はず○】
濁悪の世に僧侶が摂受を行じて法を説いても、みんなが感動するような話をする事は出来ないのです。

【非法の悪人を降伏〔ごうぶく〕すること能はず。是くの如き比丘〔びく〕、自利し及び衆生を利すること能はず。】
邪宗邪義を信じている悪人を改心させる事は出来ないのです。このような僧侶は、衆生にとって何の利益ももたらす事は出来ないのです。

【当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰〔けだいらんだ〕なり。】
まさに、このような輩は、学ぶ事をしない愚かな怠け者であるのです。

【能く戒を持ち浄行を守護すと雖も、当に知るべし是の人は能く為す所無からん。】
よく戒律をたもち修行を行っていると言っても、この人は、世の為、人の為には、何の役にもたたないし、仏法を守護する事さえしないのです。

【乃至、時に破戒の者有って是の語を聞き已〔お〕はって、咸〔みな〕共に瞋恚〔しんに〕して是の法師を害せん。】
ある時に破戒の僧侶がいて折伏していると、それを聞いた聴衆が怒って、その僧侶を殺害してしまったのです。

【是の説法の者、設〔たと〕ひ復命終すとも、故〔なお〕持戒、自利利他と名づく」等云云。】
この説法者は、たとえ殺されてしまっても、なお持戒の者であり、自らもまた他人をも利益を与える者と言うべきである。」と説かれています。

【章安の云はく「取捨得宜〔ぎ〕不可一向」等。】
章安は「摂受と折伏とは、取捨よろしきを得て、一向にすべきではない。」と言われています。

【天台云はく「適時而已〔ちゃくじにい〕」等云云。】
天台大師は、「摂受か折伏かは、時に依るべきである。」と言われています。

【譬へば、秋の終はりに種子〔たね〕を下し、田畠をかえ〔耕〕さんに稲米をうることかたし。】
たとえば、秋の終わりに種子を蒔いて田畠を耕しても、稲や米を得る事が出来ないのと同じなのです。

建仁年中に、法然・大日の二人出来して、念仏宗禅宗を興行す。】
日本では、建仁年中に法然が念仏を弘め、大日と言う者が禅宗を弘めました。

法然云はく「法華経末法に入っては、未有一人得者・千中無一」等云云。】
法然が言うには「法華経を修行しても、末法では未だ一人も得道した者はおらず、千人の中に一人も得道する者はいない。」と言いました。

【大日云はく「教外別伝〔きょうげべつでん〕」等云云。】
大日が言うには「教文は月をさす指であり、釈迦の悟りは、月そのものであって、教の外に別伝されたのが禅宗である。」と言ったのです。

【此の両義、国土に充満せり。】
それより以来、この二つが国中にひろまり、日本国中の者が禅宗念仏宗に帰依してしまいました。

【天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらいをそるゝ事、犬の主にを〔尾〕をふり、ねづみの猫ををそるゝがごとし。】
天台、真言の学者などが新興宗教たる念仏や禅の信者に、へつらい、怖れる様子は、まさに犬が尾をふり、鼠が猫を怖れる姿そのものなのです。

【国王、将軍にみやつかひ、破仏法の因縁、破国の因縁を能く説き能くかたるなり。】
これらの者は、国王や将軍に仕えては、仏法を誤る原因や国家を壊す原因を作っているのです。

【天台・真言の学者等、今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻〔あび〕を招くべし。】
仏法を弘め、国を救うべき天台や真言の学者が、このようであっては、今生では餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻地獄へ堕ちる事でしょう。

【設ひ山林にまじわって、一念三千の観をこらすとも、空閑〔くうげん〕にして三密の油をこぼさずとも、】
たとえ山林の奥深くに座って一念三千の観念観法をこらしても、静かな場所で真言の三密を完璧に修行したとしても、

【時機をしらず、摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき。】
現在がいかなる時代か、どのような機根の衆生かを知らず、摂受と折伏の立て分ける事が出来なければ、どうして生死を離れられるでしょうか。

【問うて云はく、念仏者・禅宗等を責めて、彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。】
質問しますが、念仏や禅宗邪宗邪宗だと責め立てて、そのうえ、彼らから仇まれる事にいったいどんな利益があると言うのでしょうか。

【答へて云はく、涅槃経に云はく「若し善比丘、法を壊〔やぶ〕る者を見て、】
それでは、答えますが、謗法を破折する事を次のように涅槃経に説かれているのです。「もし僧侶が法を破る者を見て、

【置いて、呵責〔かしゃく〕し、駈遣〔くけん〕し、挙処〔こしょ〕せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨〔あだ〕なり。】
そのままにして置いて、呵責し、駆逐し、処罰なければ、この人は仏法の中の仇であるのです。

【若し能〔よ〕く駈遣し、呵責し、挙処せば、是〔これ〕我が弟子、真の声聞なり」等云云。】
もし、よく駆逐し呵責して処罰するならば、これこそ仏の弟子であり、真実の声聞なのである。」と説かれているのです。

【涅槃の疏に云はく「仏法を壊〔え〕乱するは、仏法の中の怨なり。】
また章安は、涅槃経の疏に「仏法を破壊し乱す者は、仏法中の仇ある。

【慈〔じ〕無くして詐〔いつわ〕り親しむは、是れ彼が怨なり。】
謗法を知りながら、それを諌める慈悲もなく、偽り親しむ事は、相手にとって仇となる行為なのです。

【能く糾治〔きゅうじ〕せん者は、是護法の声聞、真の我が弟子なり。】
相手の誤りを教えてやるのが真実の仏法守護の声聞であり、真実の仏の弟子なのです。

【彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり。】
その人の為に悪い考えを除き、改めさせる事が、その人にとって親と同じ行為となるのです。

【能く呵責する者は、是れ我が弟子。駈遣せざらん者は、仏法中の怨なり」等云云。】
よく相手の悪を呵責する者が真実の仏の弟子であり、駆逐せず、そのまま放って置く者は、まさに仏法の中の仇である。」と諌めれているのです。

【夫〔それ〕法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ】
法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦、多宝、十方分身の諸仏が集まって来たのは何の為だっだのかと言うと、

【「令法久住、故来至此」等云云。】
それは「法をして久しく住しめんが為に来集した。」とはっきりと説かれているのです。

【三仏の未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに、】
このように、釈迦、多宝、分身の三仏が、法華経を弘め、すべての衆生に大きな利益を与えようとした心中を推しはかると、

【父母の一子の大苦に値〔あ〕ふを見るよりも、強盛にこそみへたるを、】
大きな苦しみに悩んでいる子供を見ている父母よりも、もっと強く未来の衆生の事を心配されているのです。

法然いたわしともおもはで、末法には法華経の門を堅く閉ぢて、人を入れじとせき、】
しかし、法然は、このような仏の心をなんとも思わず、仏意に反して法華経の門を堅く閉じて人々をその法門に入れないようにしてしまった。

【狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに、法華経を抛〔なげす〕てさせける心こそ無慚〔むざん〕に見へ候へ。】
このように何も知らない子供を騙して宝を捨てさせるように、法華経を投げ捨てさせてしまうその心こそ無慚であると思うのです。

【我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。】
自分の父母を、人が殺そうとしているのを知って、父母に教えないでいられましょうか。

【悪子の酔狂〔すいきょう〕して父母を殺すをせい〔制〕せざるべしや。】
子供が酔って狂ったようになって父母を殺そうとするのを見て、とめないでいられましょうか。

【悪人、寺塔に火を放たんに、せい〔制〕せざるべしや。】
悪人が寺や塔に火を放って焼いてしまおうとするのを、止めないで放っておかれましょうか。

【一子の重病を炙〔やいと〕せざるべしや。】
子供が重病の時に嫌がると言って必要な手術をしないでおかれましょうか。

【日本の禅と念仏者とを見て、せい〔制〕せざる者はかくのごとし。】
日本の禅や念仏を見て破折しない者は、このような者なのです。

【「慈無くして詐り親しむは、即ち是れ彼が怨なり」等云云。】
「慈悲の心がなく偽り親しむとは、すなわち、その人の仇である。」との仏の言葉をよくよく考えるべきです。

日蓮は日本国の諸人に主師父母なり。】
日蓮は、日本国の人々にとっては、主であり、師であり、親であるのです。

【一切天台宗の人は、彼等が大怨敵なり。】
たとえ法華経を読んでいても、偽り親しむ天台宗の者は、すべて一切衆生の大怨敵であるのです。

【「彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親」等云云。】
「相手の為に悪を除く者は、相手にとって親と同じである。」との経文に照らすとき、誰が日本国の現在の親として振る舞っているのでしょうか。

【無道心の者、生死をはなるゝ事はなきなり。】
求道心の無い者は、生死を離れて仏になる事が出来ないのです。

【教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈〔めり〕せられさせ給ひ、】
教主釈尊は、すべての外道に大悪人と罵〔ののし〕られたのです。

【天台大師の南北並びに得一に「三寸の舌もて五尺の身をたつ」と、】
天台大師も南三北七の十派から罵られ、得一からも「三寸に足らない舌で、五尺の仏身を断つ。」と言われ、

伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といわれさせ給ひし、皆法華経のゆへなればはぢならず。】
伝教大師は、奈良六宗の者に「最澄は、未だ唐の都を見ていない。」と悪口を言われましたが、これらはすべて法華経の為であり、恥とはならず、

【愚人にほめられたるは第一のはぢなり。】
そのような愚人に褒められる事こそ第一の恥となるのです。

日蓮が御勘気をかほれば、天台・真言の法師等悦ばしくやをもうらん。】
日蓮が幕府によって流罪されれば、天台、真言の僧侶などは、さぞかし悦んでいる事でしょう。

【かつはむざんなり。かつはきくわい〔奇怪〕なり。】
しかし、仏の心を知らない彼らの心こそ、仏法者として実に無慚〔むざん)であり、奇怪であるのです。

【夫れ釈尊は娑婆〔しゃば〕に入り、羅什〔らじゅう〕は秦〔しん〕に入り、伝教は尸那〔しな〕に入り、】
釈尊は、娑婆世界に生まれて法華経を説き、羅什三蔵は、秦に渡来し、伝教は、中国へ留学し、

【提婆〔だいば〕・師子〔しし〕は身をすつ。薬王は臂〔ひじ〕をやく。】
提婆菩薩や師子尊者は、仏法の為に身を捨て、薬王菩薩は臂を焼いて供養したのです。すべて仏法の為なのです。

【上宮〔じょうぐう〕は手の皮をはぐ。釈迦菩薩は肉をうる。楽法〔ぎょうぼう〕は骨を筆とす。】
日本の聖徳太子は、手の皮をはいで経を写し、釈迦菩薩は肉を売って仏に供養し、楽法は骨を筆として仏法を書き留めたのです。

【天台の云はく「適時而已〔ちゃくじにい〕」等云云。仏法は時によるべし。】
これらの事を天台は「時に適〔かな)わなければならない。」と言っていますが、仏法は、まさに時に依るべきなのです。

日蓮流罪〔るざい〕は今生の小苦なれば、なげかしからず。】
日蓮は、時に適って折伏を行じ、流罪されている事は、現世の小さな苦しみであるから、まったく嘆く事などないのです。

【後生には大楽をうくべければ、大いに悦ばし。】
後生には、大きな安楽を受けるのですから、大いに悦ばしい事なのです。

 

日蓮正宗聖典

日蓮正宗聖典

  • 作者:堀米日淳
  • 発売日: 2021/02/16
  • メディア: 新書