日蓮正宗のススメ

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1114夜:アフガニスタンのタリバン問題について

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美人の言いなりになる日本とは違うようです

僕らが心配すべきは、アメリカ軍が日本から撤退した時のこと。
中国一国支配の統治下に併合されるのか、周辺国家に分け取りされるのか。
タリバンの蛮行は、イスラム法に根源があるのだけど、突き詰めていけば人間の心にある、応報と復讐の感情だ。
人間の残酷さや冷酷さについて、エセー 6冊セット (岩波文庫)道徳感情論 (講談社学術文庫)は詳細に描写・分析を行っている。
自らの身を正義に置く者の残酷と無慈悲。
この矛盾は永らく人類の課題である。
克服方法は未だ見出されていない。
進化の過程で心の中にそのようなモジュールが生み出された可能性は、進化心理学で唱えられているが、何のためにそのような心の機能を獲得する必要があったのか?
目的論的な説明は不可能だ。
猫や犬が小動物を弄びながら、活き活きとした表情で虐め殺してから食べるのを見たことがある。
きっと、進化の古層に根差しているのだろう。


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シャチもアザラシを楽しみながら食ったね。
お~こわ。

  • 或時は畜生残害の苦しみをうけて、小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。是を残害の苦と云ふ。『聖愚問答抄㊤』
  • 次に畜生道と申すは其の住所に二あり、根本は大海に住す、枝末は人天に雑はれり。短かき物は長き物にのまれ、小さき物は大なる物に食はれ、互ひに相食んでしばらくもやすむ事なし。或は鳥獣と生まれ、或は牛馬と成りて重き物をおほせられ、西へ行かんと思へば東へやられ、東へ行かんとすれば西へやらる。山野に多くある水と草をのみ思ひて、余は知るところなし。『主師親御書』
  • 畜生は残害とて互ひに殺しあふ。『 新池御書』

残酷さは畜生界のサガ。
進化のプロセスの残留物というのもあながち見当外れではないようです。
やってるほうは、恍惚として夢中になりますから。
いじめっ子はニヤニヤしながらいじめますしね。
楽しいんですね。
中国人は相当日本人を恨んでます。
朝鮮人もね。
あと何年先になるかは分かりませんが、いつかその日が来るのでしょうか?

プラトンは、或る子供がくるみ遊びをしているのを見てこれを叱った。子供は、「小さなことをやかましく言わないでよ」と口答えした。プラトンは押し返して、「習慣は決して小さなことではないぞ」と言った。
 わたしは、我々の最も大きな不徳は我々の最も幼い時代からの癖にほかならず、我々の主要な教育は乳母の手の中にあると思う。子供がひよこの首をひねったり犬や猫を傷つけて面白がったりするのを見ることは、母親のなぐさみになっているし、或る父などは、愚かな話だが、息子が無抵抗な百姓や下僕をしいたげるのを見るとそれを雄々しい心の前兆だと考え、意地悪いはかりごとを構えてその友達をだますのを見ては、こいつなかなか利口だわいなどと考えている。とんでもないこと、それこそ残酷・暴虐・裏切りの種子であり根なのである。それらはそこから芽を出し、やがて勢いよく伸びてゆく。そして習慣の手の中でますますその勢いを張る。いや、これらの忌わしい傾向を年がゆかないから・ささいなことだから・といって大目にみるのこそ、はなはだ危険な教育なのである。第一に、それは自然の言葉である。その声は細ければ細いだけ、それだけ純で強いのである。第二に、ごまかしの醜さはお金とピンとによって少しもちがわないのである。それはごまかしの本質による。わたしはこう結論する方がずっと正しいと思う。「彼はピンをごまかすのだ。どうしてお金をごまかさないであろうか」と。しかるに人々はこう結論する。「それはピンだからだ。よもやお金をごまかすことはあるまい」と。子供たちには、不徳はそれが不徳であるから憎むのだと、ねんごろに教えこまなければならない。何よりもその本来の醜さを思い知らせなければならない。そうすれば、我々は不徳を、たんに行いにおいて避けるのみならず、特に心において嫌うようになる。それがどんな仮面をかぶっていようとも、それを心に思うことがすでに彼らにとって忌わしいことでなければならない。実際、わたしは子供の頃からいつも明るい表街道を通るように教えられたので、従って子供同士の遊戯の中でさえこすいことずるいことをやるのが嫌いだったので、――まったく子供の遊戯は遊戯ではないと知らなければならない。それらは彼らにとって最も真剣な行為であるとして判断しなければならない。――今もって、わたしはどんなささいな遊戯に関してでも、心の底から、自然に、特に努めないでも、ごまかすということに対して、極度の反撥を感じないではいられないのである。わたしは二銭銅貨を賭ける時も二百円金貨を賭ける時も、また、妻や娘を相手の、勝っても負けてもどうでもよい場合も、本気の勝負をする場合も、同じようにカルタをめくり、同じように勘定をする。いつどんな場合でも、わたし自らの眼がちゃんとわたしを監視している。これほどきびしくわたしを監視する眼もなければ、これほどわたしが畏れる眼もないのである

* 後出第三巻第二章「後悔について」の章の中では、こう言っている。「わたしは自己を裁判するために、自分の法律と自分の法廷をもっている。そして、よそに訴えるよりもまずそこに訴える……」。
「エセー」第一巻より

子供の教育に反日教育を施している国々に占領されることの怖さ。
アメリカの属国であった戦後のようにはいかないでしょうね。

 


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