日蓮正宗のススメ

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1113夜:メールでのお問い合わせに答えて

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議論するつもりなどなく・・・

久々にメールにてお問い合わせをいただきました。
私なりに真摯にお答えを送らせていただきました。
以下のようなやり取りになりました。

ポリ銀さん、初めてメール差し上げます。

私はかつて「正理会(しょうりかい)」という団体に所属しており、現在は「蓮華の小路」というブログを書いています。

正理会は2017年の9月末に破門されました。


先日、ある日蓮正宗の信徒さんから正理会の創立者である中杉弘さんが書いている「中杉弘のブログ」はウソ・デタラメばかりだと聞きました。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55675437.html


中杉弘さんの言う日蓮正宗の「板本尊」の話はデタラメばかりとの事です。

この件についてポリ銀さんの意見を聞かせて貰えたら幸いです。


お忙しいところ、無理を言って申し訳ありません。

どうぞ宜しくお願いします。

以上が最初の問い合わせメール。
それに対し私が送ったのが以下のメール。

ポリ銀です。

メールをくださりありがとうございました。

戒壇の大御本尊様について中杉弘さんが仰っていることを、私は用いることはありません。

私は、日蓮正宗の信徒ですので、戒壇の大御本尊様=日蓮大聖人様の人法体一を信じています。

中杉氏は「日蓮正宗の教義は突き詰めれば、最終的にはそのようになってしまうのです。「日蓮大聖人様が衆生を救うために板本尊になられた」そのようになってしまうのです。」と述べられていますが、成ったというのではなく、御本仏の御悟りを顕されたと理解しております。

日蓮正宗側の詳しい説明は日應上人様「弁惑観心抄」に詳細が載っています。また、日顕猊下の「三大秘法義」にも掲載されていますので、ぜひ、御参照ください。

個人的な考えを述べれば、中杉氏は元々創価学会員であられたようですね。

つまり、日蓮正宗信徒であったことになります。

どのような経緯で、正理会を立ち上げたのかは存じ上げません。

片桐様も会員であったそうですね。

破門になったとか。

宗教の話ですので、科学のように白黒つけられるものではありません。

特に歴史的な一次資料を問題視する場合には、専門的な知識が必要になってきます。

私とて、日蓮大聖人様が日法師に命じて、戒壇の大御本尊様を建立されているところを見たわけでもありません。

最終的には信じるか信じないかの話ですから。

私は日蓮正宗の信仰をしているというだけのことです。

ポリ銀も歳喰ったな。と、お叱りをいただくかもしれません。
自分の信条を語り、参考図書を紹介するにとどめました。
早速返信がありまして、穏やかにクローズ。といったところ。
返信は以下の通り。

丁寧なお返事をありがとうございます。 

中杉弘さんのブログをそのまま鵜呑みにすると「日蓮大聖人様が板本尊に成った」のだとあり得ない話になってしまいますね。 

ポリ銀さんの仰る通り「お悟りを顕された」と解釈すれば納得出来ます。 

ご存知のように私は「蓮華の小路」というブログで大聖人様の仏法を取り上げています。
でもこのブログを知った日蓮正宗の信徒さんから「デタラメばかりなので閉鎖しなさい」と何度も言われています。 

私は日蓮大聖人様の仏法は尊く素晴らしいから他の人にも知って欲しいと願いあのブログをスタートさせました。 

可能な限り継続させたいと思っていますが、もし間違いやおかしな箇所があったら教えてもらえるとありがたいです。 

どうぞ宜しくお願いします。

「蓮華の小路」ですか。
少し覗いて見ましょうか。

vabcde55.hateblo.jp

お、はてなブログだ。
しかも、読者になってた。
相互リンクしたのかも知れない。
忘れてました。
中杉弘さんの正理会に居たのね。
破門ってあるんだね。
何があったのでしょうか?
それはさておき、今日のテーマはなんでしょうか?
それは、私淑と捨象性ということに尽きると思うのです。
私淑ってのは、簡単にいうとファンだね。
俳優・作家・詩人・ミュージシャンなどなど、多くのファンを持つ存在は世の中にゴマンといます。
歴史上の人物や政治家、思想家、哲学者もそうだし。
ファン層だってバラエティーに富んでいて、鉄オタ・アニオタ・アイドルオタなんかもいるよね。
最近では撮り鉄VS自転車マンの対決も話題になりました。


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で、もう一つの捨象性。 
「捨象」の意味は「物事を抽象するときに他の要素を捨てること」 「捨象」の意味は、物事の表象から特徴的なことや要素などを取り出して抽象するときに、それ以外の特徴的なことや要素などを切り捨ててしまうことです。 「捨象」は物事を抽象するときには必ず起こります。
「捨象」という言葉をご存知でしょうか。「しゃしょう」と読みます。普段なかなか見かけない言葉ですが、何かを「捨」てていることはおわかりでしょうか?動物の「ぞう」とは何も関係ありません。ここでは「捨象」の意味や使い方についてご紹介します。
「捨象」(しゃしょう)とは、ある事物や表象を抽象(ちゅうしょう)する際に、その対象が持っている何らかの側面・性質・要素を捨て去ることです。
少々専門的な用語ですが、まずは簡単に、捨象は「イメージ(=表象)を捨て去ること」と覚えましょう。そして、なぜ「イメージを捨て去る」のかといえば、それは「抽象」という作用のためです。
「捨象」と「抽象」は密接につながった言葉ですので、まずは「抽象」の意味から確認していきましょう。
「抽象」とは、ごく簡単に言えば、「物事が持つ共通の性質を抽(ぬ)き出すこと」という意味です。
例えば、あなたが「シロ」「クロ」という名の二匹の猫を飼っていたとします。この二匹の猫は、「猫」という共通の性質(種族名)を持っていますね。その二匹を「猫」として捉えているとき、あなたは「シロ」「クロ」を抽象しているといえます。
「猫」はさらに「哺乳類」に、「哺乳類」はさらに「動物」に、「動物」はさらに「生物」に抽象が可能です。共通の性質を持っていると考えられるのであれば、例えば「猫」を「かわいいもの」と抽象することも可能でしょう。
「シロ」「クロ」と名のついた二匹の猫を「猫」と抽象するとき、その二匹の猫からは「猫という種族としての共通の性質」のみが抽き出されているのです。
逆にいえば、「シロ」「クロ」という名前、それぞれの個体の品種、性別、年齢、毛色、性格など「固有の側面・性質・要素」は、抽象の際に自ずと捨て去られることになります。これが「捨象」です。
「抽象」は普遍的な心理的作用のひとつであり、人間は意識せずとも日常的に物事の共通要素を抽出し、それに伴って「個々の性質(=具体性)」を捨象していると考えられています。
「捨象」という言葉が使われるのは、論理学や哲学などの専門学的な領域にほぼ限られています。相手が大学教授でもない限り、日常会話で「〇〇を捨象すると~」と言っても意味が伝わらない可能性が高いでしょう。
「抽象」のほうは「君の話は抽象的すぎる」などのように一般会話にも用いられることがありますが、それに伴って必ず発生する「捨象」は、言葉としての知名度がやや低いようです。
とはいえ、学問を修め、自分の主張を筋道立てて語る立場にある方であれば、思考における重要な作用のひとつとして使い方をしっかり押さえておきたいですね。
「捨象」はその字の通り、「(抽象にあたって)何が捨てられているか」に注目した言葉です。そのため、「物事を抽象化しすぎている」場合や、「抽象化の方向性に疑義がある」場合など、抽象のありかたを論ずる際に用いられることが多くなります。
例えば、病気になった猫を治療する例を考えましょう。この際、種としての生態研究を飛び越して「生き物はいずれ死ぬ」と結論するのは抽象化しすぎであり、「猫はかわいい」という抽象化は、治療にあたってまず役に立ちません。
抽象はとても便利な思考の道具ですが、時に論理の飛躍を招きます。自分あるいは他者の抽象のプロセスが適切であるか裏付けが欲しい際などに、「何を捨象したか」という言葉で確認するのがよいでしょう。

「捨象」の例文

  • 「三大秘法」「戒壇の大御本尊様」「血脈相承」「師弟子の道」「正しい修行方法」などの特徴をすべて捨象して、ただ一言「日蓮大聖人様の仏法は尊く素晴らしい」で済ませてしまうのは何だかもったいない気がする。
  • 君は「日蓮大聖人様の仏法」という抽象的な言葉をよく使うが、どんな宗教にもそれぞれの教義や本尊があるのだから、それを捨象せず、宗教教団ひとつひとつの在り方にもしっかり目を配らなければいけないよ。
  • 法華講員が体験談を通して多くのデータを集めるのは、功徳に共通する性質を見つけ、その他の要素を捨象することで、普遍性のある法則(魔の通力との差異)を発見しようとしているからだ。 

終わりに一言。
現在のアサイー教団や創価ガッカリ教と同様、お手軽似非教学に毒されている様に思うのです。
大聖人様の仏法をベースにしたベース教団は、成長の家や幸福の科学のように、御本仏の御悟りをいいとこ取りして、あたかも自分たちが功徳の源泉であるかのように、日蓮正宗の正統的な地位を侵害しているのです。
メール主さんが大聖人様に私淑するのは否定しません。
数多くの私淑者は著名人にもおられるようです。
しかし、大聖人様の仏法の本筋からは大きく外れているとしか、言いようがないのです。
すでに、日蓮正宗の信徒さんが諫められているようですから、僕からはこれ以上深入りすることはありません。

日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。(諌暁八幡抄1539㌻)

ベース教団は仏力を知りません。仏の慈悲がなければ法力は有名無実です。さらに、信力・行力は何を本尊と信じ、どのような作法を行じるかにかかってきます。

今の自界叛逆・西海浸逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず。(観心本尊抄661㌻) 

 「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」が戒壇の大御本尊様です。
「受持即受戒」「持経の処即戒壇なり」「持戒清潔にして作法受得の義なり」(上行所伝三大秘法口決1704㌻)ですので、戒壇の大御本尊様を受持(信じ・御授戒をいただく)し、正しい勤行・唱題をする以外に、成仏得道はありえないのです。

かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし。(種種御振舞御書1066㌻)

ですので、私淑して自己流で崇拝するのは非常にまずいかと。。
お気をつけあそばせ。
モンテーニュ伯の箴言に耳を傾けて見られよ。

誰でもいうではないか。註釈は疑いと無知とを増加すると。まったく、人間のものであろうと神のものであろうと、人々が熱中する書物で、解釈のためにその難解が取除かれたものは、ただの一冊もないのである。百人目の註解者がその次の人に渡したその原典を見たまえ。それは最初の註解者の見たものよりもずっと取っつきにくく困難なものになっている。いったいいつになったら我々は一致するのであろうか。「この本の解義はもうこれでよい。もう一言もつけ加えるものはない」と。このことは訴訟について見ると一層よくわかる。人は数限りない博士、数限りない判決、そして同様にたくさんの註釈に、法令のような権威を与える。だが、それで少しは我々の解釈癖がおさまったか。そこに平静に向う多少の進歩前進が見られるか。この一群の法令がなおきわめて幼稚であったときより、果して今は代言人や裁判官がすくなくてすむようになったか。いやあべこべに、我々はますます理解をあいまいに・わかりにくく・している。理解はますますたくさんの垣や柵に十重二十重とえはたえと囲まれて眼に見えなくなっている。人々は自分たちの精神の生れつきの病気に気がつかないでいるが、精神は始終ただきょろきょろと捜し歩いてばかりいる。そして絶えずくるくる回ったり、築きあげたりしながらまるで蚕のように、自分の造り上げたものの中にまきこまれて、しまいにはそこで窒息してしまう。※(始め二重山括弧、1-1-52)松脂まつやにの中のはつか鼠※(終わり二重山括弧、1-1-53)エラスムス)。精神は遠くの方に何かしらぼんやりした光・真理の姿・みたいなものを認めるように思うが、そこへ駈けつけるまでの間にはたくさんの困難が道をふさぎ・たくさんの障害や新たな詮索などが邪魔をする・ので、けっきょく何が何やらわからなくなってしまう。それはあのアイソポスの物語にある犬どもの場合と、あまりちがわない。彼らは海の中に何やら死体のようなものがただよっているのを見たが、なかなかそれに近づけないので、その水を吸って通り路を乾かそうと企て、とうとう息がつまって死んでしまった。(c)クラテスがヘラクレイトスの書物について、「この本の読者はよほど泳ぎが上手でなければならない。でないと著者の学問の深さと重さとのために溺れて死んでしまう」といったのは、ここにそっくりあてはまる。

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