1054夜:日蓮正宗略解(ダイジェスト)7.本迹二門
本とは久成の本地、迹とは近成(ごんじょう)の垂迹で、実体と影現の関係である。
天台大師は法華経の解釈に当たって、前十四品を迹門とし、のちの十四品を本門として、仏身の「久」と「近」の違いを明かしている。
すなわち、序品第一から安楽行品十四までは伽耶始成(がやしじょう)の仏の説であるから迹門とし、涌出品・寿量品に迹の仏身を発(はら)って久遠の仏を顕し、以下、その仏の説くところであるから、のちの十四品を本門とする。
迹門の詮とするところは、諸法十如実相の開顕である。その実相は、小乗の我空涅槃や大乗の人法二空等の偏真の実相ではない。諸法は、いかに極賤卑小の存在でも広く法界に通じており、縦の時間的な経過次第や、横の空間的な諸々の存在並列にかかわりなく、直に差別そのまま平等、平等そのまま差別である。つまり、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十如は、円融の空・仮・中の理によって十界のすべてに行き渡り、法界の万象に通じている。このように、諸法のそれぞれに具わる妙理を性具(しょぐ)の三千と言う。
仏はこの理を悟り、一切法は皆、仏法といわれるが、迷界の衆生は迷う故にこの実相を見ることができない。しかし、法華経方便品から人記品までの八品に至って、諸法実相を根底とする二乗作仏を顕し、九界即仏界・十界互具の理に帰せしめられた。これが爾前より迹門までの教法の究極である。
本門は久遠実成を詮とする。釈尊は、涌出品第十五の地涌の菩薩の出現を機に久遠の法を開き、寿量品において広く如来の久遠の三身を示された。この本文の開顕によって、迹門の始覚始成の十界互具、すなわち本無今有(こんぬ)、有名無実の百界千如の法は、本門常住の百界千如・一念三千のなかへ摂入され、在世の衆生もこの円融の大生命の本種に還元して仏と成ったのである。
この本迹について、天台は『玄義』に、迹門の十妙と本門の十妙を説いて、本門と迹門の内容を比較広説している。このほかに本迹そのものの意義については、六重本迹も『玄義』に説かれている。
要するに、天台大師は随所に本迹をもって経旨を判ぜられたが、その押さえどころは釈尊一期の化導における判釈にある。つまり、迹身を基本とし、迹身に即する本身を述べるところにその限界がある。初めから迹身を持たぬ久遠の本身、久遠の事の法体について顕すことはその任ではない。
さて、大聖人の本門は、釈尊の如く迹の身に即する本門ではない。その意義を久遠元初にさかのぼって、初めから方便教もなく、開三顕一も四経八経もなく、全く迹教・迹身を持たぬ独一の本門で、ただ仏の身と位について本迹を判ずるのである。故に、天台大師は『玄義』七で、
「本迹は、身に約し位に約す」(法華玄義)
の文の次に、
「権実は、智に約し教に約す」(同頁)
と言われている。
したがって、本門の立場から本迹の捌きは、事が本で理が迹となる。このけじめが、他の門下ではついていない。本門事の一念三千の本仏縁起観も結局、理上の法相で、末法の事行とならない。子細に御書を拝すれば、結要の要法は本地の法であり、本地の法は久遠元初本因妙、凡夫即極の本門の直体であることが明らかである。
この本地の本門から見ると、釈尊の本迹二門は共に迹門に属することが知られる。また、これを種本脱迹と言い、在世と末法の化導の法体を分かつ大事の法門である。
要するに、釈尊の化導における迹を基本とする本迹はすべて迹門で、釈尊・天台弘通の領域に属し、大聖人の唯本無迹の独一本門がそのまま真実の本門なのである。