日蓮正宗のススメ

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仏法僧の三宝に帰依し、御供養することでしか功徳は積めないという話

一切衆生に仏法僧の三宝を明かして六巻抄を結す 【当家三衣抄】十七

問う、数珠の由来如何いかん

答う、れ数珠とは此れすなわち下根を引接いんせつし修業を牽課けんかするの具なり、木槵子もくげんじきょうに云わく「昔国王有り、波流はると名づく、仏にもうしてもうさく、我が国辺小にしてひんねん寇疫こうやくこくたかく民くるしむ、我常に安んぜず、法蔵はじんこうなり、あまねく行ずることを得ず、唯願わくば法要を垂示したまえ、仏のたまわく、大王若し煩悩を滅せんと欲せば当に木槵子もくげんじ一百八箇を貫き、常に自ら身に随え、しんに南無仏・南無法・南無僧と称え、すなわち一子を過ごすべし」云云。
 応に知るべし、木槵子の円形は是れ法性の妙理を表すなり。玄文第一に云わく「理は
へんえんを絶すれどもえんじゅに寄せて理を談ず」云云。弘五上に云わく「理体欠くること無し、之にたとうるに珠を以てす」云云。土宗どしゅうひらがた大いに所表にたがうなり、一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり、数珠は須臾しゅゆも身を離る可からず、故に「じょう随身ずいしんと云うなり。

無仏・南無法・南無僧とはけだし当流のこころは、

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思なんし境智冥合みょうごう久遠くおん元初がんじょ自受用じじゅゆうほうしん無作むさ三身本因ほんにんみょうの教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、の一念三千、無作本有ほんぬ、南無本門戒壇の大本尊。

南無本門弘通ぐつうの大導師、末法万年の貫首そうかんず、開山付法南無日興上人師、南無一閻いちえん浮提ぶだい座主ざす、伝法日目にちもく上人師、嫡々ちゃくちゃく付法歴代の諸師。

此くの如き三宝を一心に之を念じて唯まさに南無妙法蓮華経となえ、すなわち一子を過ごすべし云云。

行者つつしんで次第を超越するなかれ、勢至経の如くんば「妄語の罪にってまさに地獄につべし」、亦復母珠もじゅを超ゆること勿れ、数珠経の如き「とが諸罪に越ゆ、数珠は仏の如くせよ」云云。

 母珠を超ゆるの罪何ぞ諸罪に越ゆるや、今謂わく、けだし是れ名をむか。孔子勝母しょうぼに至り暮れる、而も宿やどらずして過ぐ。さとを勝母と名のれば曾子そうこ入らず等云云、外典しかり、況や仏氏をや。


                        当家三衣抄 畢んぬ


享保第十乙巳年六月中旬大坊に於て之を書す。

             六十一歳

                日寛   在判

勤行要典の二座・三座の御観念文の由来がここにあったんですね。

 

無仏・南無法・南無僧とは若(けだ)し当流の意(こころ)は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思(なんし)境智冥合(みょうごう)、久遠(くおん)元初(がんじょ)、自受用(じじゅゆう)報(ほう)身(しん)、無作(むさ)三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有(ほんぬ)、南無本門戒壇の大本尊。

南無本門弘通(ぐつう)の大導師、末法万年の総貫首(そうかんず)、開山付法南無日興上人師、南無一閻(いちえん)浮提(ぶだい)の座主(ざす)、伝法日目(にちもく)上人師、嫡々(ちゃくちゃく)付法歴代の諸師。

私たちは掌に数珠をかけて、胸の前で合掌礼拝しておりますが、108個の数珠玉を仏法僧を念じながら数えていくのが古代の行だったようです。 

大王若し煩悩を滅せんと欲せば当に木槵子(もくげんじ)一百八箇を貫き、常に自ら身に随え、志心に南無仏・南無法・南無僧と称え、乃(すなわ)ち一子を過ごすべし」云云。

一子とは数珠玉のことです。

日蓮正宗は「直達正観」(じきたつしょうかん)といって、大聖人様の御内証(御悟り)を目にすることができますので、御本尊様が三宝一体の御尊体(法体)であることを信じて、勤行・唱題することで無量の功徳を積むことができます。

しかし、三宝を受持できない創価学会顕正会では、例え御歴代の猊下様が書写された御本尊様の御前であっても、功徳の源泉が存在しませんから何の功徳も積むことができないのです。

このことを「血脈が通ってない」という言葉で破折しているのです。

当家三衣抄は袈裟衣と数珠の功徳について日寛上人様が説かれているのですが、なぜ六巻抄の結論が、ここに置かれているのかをよくよくかみしめなければいけません。

爾前権教はもちろんのこと、他門日蓮宗を破折しつくした六巻抄は、日蓮正宗三宝を敬うことが末法の修行であると教えているのです。

三宝の中の僧宝に反逆することは、どのような屁理屈を並べようとも、法体たる戒壇の大御本尊様を受持していないことになるのです。

創価・顕正の諸君は一日も早く、戒壇の大御本尊様の御許へ還り給え。

そして功徳が仏界が胸中に湧現する感応を体感したまえ。

その時、初めて偽物の宗教的感応との違いが実感できるであろう。

 

平成新編日蓮大聖人御書

平成新編日蓮大聖人御書

 

  

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

  

六巻抄

六巻抄

 

 

三大秘法義

三大秘法義