当体義抄文段を拝読する
当体義抄文段 目次
日寛上人 御書講義
当体義抄 文段
当抄を釈せんとするに、須く三門に約すべし
大 意
釈 名
入文判釈
所証の法を明かす
一、法体に約す
二、信受に約す
法の本尊を証得すれば、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり
三、解釈を引いて本有無作の当体蓮華を明かす
能証の人を明かす
一、如来の自証化他を明かす
迹門には兼帯の濁なく、本門には始成の濁なし。故に「清浄」と云う
二、如来在世の証得の人を明かす
「常住」とは倶時を顕す。故に因果倶時の当体蓮華なり
三、末法今時の証得の人を明かす
当体義抄文段 一
相伝に云く、開目抄と観心本尊抄と当抄とを教・行・証に配するなり
当体義抄文段 日寛之を記す
一 将に当抄を釈せんとするに須く三門に約すべし
所謂大意・釈名・入文判釈なり。
初めに大意、亦二と為す。初めに総じて大意を論じ、次に別して大意を論ず。妙楽の云く「凡そ一義を消するに、皆一代を混じて其の始末を窮めよ」。又云く「文の大意を得る則は元由に矒からず。文に随って解を生ぜば前後雑乱せん」等云云。
総じて大意を論ずとは、相伝に云く、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり。
所謂開目抄には、一代諸経の浅深勝劣を判ずる故なり。此に五段の教相あり。
一には内外相対。謂く、通じて一代諸経を以て外典外道に対して之を論ずるなり。彼の文に云く「されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」云云。
二には権実相対。謂く、八箇年の法華を以て四十余年の権経に対して之を論ずるなり。彼の文に云く「大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒沙の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば」等云云。
三には権迹相対。謂く、迹門の二乗作仏を以て爾前の永不成仏に対して之を論ずるなり。彼の結文に云く「此の法門は迹門と爾前と相対して」等云云。
四には本迹相対。謂く、但本門を以て通じて爾前・迹門に対して之を論ずるなり。彼の文に云く「本門にいたりて(乃至)迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果をとき顕す」等の文是れなり。
五には種脱相対。謂く、寿量品の文上は脱益、文底は下種なり。彼の文に云く「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底に秘し沈め給へり」等云云。
当に知るべし、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘し沈め給へるなり云云。此の一文の中に権実相対・本迹相対・種脱相対は分明なり。「日蓮が法門は第三の法門なり」云云。
諸宗の族は、但内外相対を知って自余の相対を知らず。一致門流の輩は、但権実相対を知って仍未だ本迹相対を知らず。況や種脱相対をや。諸の勝劣の人は、本迹相対を知ると雖も仍種脱相対に闇し。故に蓮祖の法門に達せざるなり。妙楽云く「凡そ諸の法相は所対不同なり」等云云。宗祖云く「所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」等云云。常に之を記憶せよ。
当体義抄文段 二 日蓮大聖人の化導に約せば、末法に行証あり |
次に、観心本尊抄は行の重とは、是れ則ち彼の抄に受持即観心の義を明かす故なり。彼の文に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」云云。「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う乃至五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」等云云。是れ則ち事の一念三千の本尊を受持すれば、則ち事の一念三千の観行を成ずるなり。
三に当抄は証の重とは、下の文に云く「然るに日蓮が一門は(乃至)当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」等云云。
問う、凡そ諸文の意は、行証無きことに約して名づけて末法と為す。如何が是れを会せんや。
答う、諸門流の義の意に云く、権経に付順する故に、又時運に約する故に、末法無証と云うなり。若し今経の意に依れば、経力に約するが故に而も行証あり。普賢及び秀句等の如し云云。是れ仍未だ淵底を尽さず。
今謂く、諸文の中に末法無証と云うは、是れ熟脱の釈尊の化儀に約するが故に、末法無証と云うなり。若し本因妙の教主釈尊の化導に約せば、今は末法に非ず、還って是れ過去なり。過去とは久遠元初なり。故に行証有り。是れ当流の秘事なり。口外するべからず。当に知るべし、本因妙の教主釈尊とは、即ち是れ末法下種の主師親、蓮祖大聖人の御事なり。
別して大意を論ぜば、当抄は是れ証の重に当たるなり。是の故に当抄の始終、大いに分かつに二段なり。
初めに所証の法を明かし、次に能証の人を明かす。
初めの所証の法を明かすに亦三段有り。初めに法体に約し、次に信受に約し、三に解釈を引いて本有無作の当体蓮華を明かすなり。
次の能証の人を明かすに、亦三段有り。初めに如来の自証化他を明かし、次に如来在世の証得を明かし、三に末法の衆生の証得を明かすなり云云。
当体義抄文段 三 妙経読誦の功用に由り、胸間の白蓮の顕現するなり。今唱題を励まば、豈顕現せざらんや。 |
一 釈名の下。
当体蓮華に即ち二義あり。
一には、十界三千の妙法の当体を直ちに蓮華と名づく、故に当体蓮華と云うなり。此の義は入文の相に分明なり。
二には、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名づけ、是れを当体蓮華と云う。故に伝教大師の牛頭決七十二に云く「当体蓮華とは、一切衆生の胸の間に八葉の蓮華あり。之を名づけて当体蓮華と為す」等云云。
然るに此の胸の間の八葉の蓮華は、男子は仰ぐなり、女人は伏するなり。然るに女人有って、此の妙法を信受すれば、彼の胸間の八葉は即ち仰ぎ、全く男子に同じきなり。故に当流の女人は、外面は是れ女人なりと雖も、内心は即ち是れ男子なり。涅槃経の第九巻四十に「仏性を見る者は是れ女人なりと雖も、亦男子と名づく」と説きたもうは是れなり。若し権経権門の女人は、是れ女人なりと雖も、亦是れ夜叉なり。故に華厳経に云く「外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」等云云。
問う、胸間の蓮華、其の色は如何。
答う、是れ白蓮華なり。大日経第一・十九に、胸間の蓮華を説く文に云く「内心をば妙白蓮にし、八葉正しく円満にし」等云云。録外二十三・三に云く「当体蓮華とは、一切衆生の胸の内に八分の肉団あり。白くして清し。凡そ生を受けたる者は皆悉く此の八葉の蓮華、胸の内に収まれり」(新定二一三四)等云云。
又法華伝第六・十三に云く「比丘尼妙法、俗姓は李氏。年漸く長大にして、情に出家を欣ぶ。年十二の時、其の姉、法華経を教ゆ。日に八紙を誦し、月余にして一部を誦し訖る。人、其の徳を美して、名づけて妙法と曰う。願を立てて諷誦すること八千返、臨終の時、座に三茎の白蓮を生ず。池に生ずる時の如く、七日にして萎落せず」等云云。
又釈書十一・十五に云く「釈氏蓮長、天性精勤にして妙経を持し、唇舌迅疾なり。一月に千部を終ゆ。臨終の時、手に不時の蓮華一茎を把る。鮮白薫烈なり。傍人、問うて云く『此の華、何より得たるや』と。答う『是れ則ち妙法蓮華なり』と。言い已って寂す。手中の蓮華、忽然として見えず」等云云。
並びに妙経読誦の功用に由り、胸間の白蓮の顕現するなり。像法既に爾なり。今唱題を励まば、豈顕現せざらんや。故に知んぬ、胸間の蓮華は正に是れ白蓮なり。況や復末法下種の三宝は、是の胸間の白蓮華の顕現し給えるなり。
当体義抄文段 四 当に知るべし、蓮祖は是れ本果妙の仏界なり。興師は是れ本因妙の九界なり。富士山は即ち是れ本国土妙なり。 |
凡そ中央の本尊は白蓮華とは、十如是抄に云く「妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば」等云云。
蓮祖、白蓮華とは、籤の七・五十四に云く「有る人云く、白蓮は日に随って開き回り青蓮は月に随って開き回る。故に諸天の中に花の開合を用て昼夜を表するなり」等云云。凡そ「日蓮」の二字、豈日に随って開き回る蓮華に非ずや。若し爾れば白蓮なること、之を疑うべからず。況や蓮祖の当体、全く是れ中央の本尊即ち是れ白蓮華なり云云。
興師は、白蓮華とは、興師既に白蓮阿闍梨と名づく。名詮自性の故に、名は必ず体を顕すの徳あり。故に白蓮阿闍梨の御名は、正に是れ興師の白蓮なるが故なり。故に知んぬ、末法下種の三宝は、即ち是れ我等衆生の胸間の八葉の白蓮華なり。
亦復大師の王舎城観に准ずるに、今此の末法下種の三宝の住処たる富士山は、亦是れ我等衆生の胸間の八葉の白蓮華なり。故に大日蓮華山と名づくるなり。此の名は神道深秘二十六に出ず。神社考四・二十に、富山の縁起を引いて云く「孝安天皇の九十二年六月、富士山涌出す。郡名を取って富士山と云う。形蓮華に似て絶頂に八葉あり」云云。古徳の富山の詩に云く「根は三州に跨りて烟樹老い、嶺は八葉に分れて雪花重なる」云云。雪花は豈白色に非ずや。故に知んぬ、大日蓮華山とは即ち是れ八葉の白蓮華なり。
当に知るべし、蓮祖は是れ本果妙の仏界なり。興師は是れ本因妙の九界なり。富士山は即ち是れ本国土妙なり。若し爾らば、種家の本因・本果・本国土、三妙合論の事の一念三千にして、即ち是れ中央の本門の本尊なり。然れば則ち依正因果悉く是れ我等衆生の心性の八葉の白蓮華、本門の本尊なり。故に此の本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人は即ち是れ本門寿量の当体の蓮華仏なり。外の二十・三十四、日女御前御返事に云く「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」南無妙法蓮華経等云云。