日蓮正宗のススメ

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1027夜:立正安国論 第3回

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[第三問] 正法を誹謗〔ひぼう〕するの由〔よし〕

【客色を作〔な〕して曰く、】
客は大いに怒り、顔色を変えて言いました。

後漢の明帝〔めいてい〕は金人〔きんじん〕の夢を悟りて】
たとえば中国では、後漢の明帝が金色に輝く尊い人の姿を夢に見て、聖教の渡来を悟って使者を遣わし、

【白馬の教〔きょう〕を得、】
白馬に経典を乗せて中国に向かっていた二人の高僧に出会い、これを迎えて白馬寺を建て中国仏教の拠点としました。

【上宮〔じょうぐう〕太子は守屋〔もりや〕の逆を誅〔ちゅう〕して寺塔の構〔かま〕へを成す。】
日本では、聖徳太子が仏教に反対する物部氏の守屋の反逆を押さえて、その後に法隆寺四天王寺を建て日本仏教興隆の基礎としました。

【爾〔しか〕しより来〔このかた〕、上一人より下万民に至るまで仏像を崇〔あが〕め経巻を専〔もっぱ〕らにす。】
それ以来、上は、天皇から、下は、一般庶民に至〔いた〕るまで、すべての人々が仏像を崇め経巻を尊ぶようになったのです。

【然〔しか〕れば則ち叡山・南都・園城〔おんじょう〕・東寺・四海・一州・五畿・七道〔しちどう〕に、】
それゆえ、比叡山延暦寺、奈良の七大寺、大津の園城寺(三井〔みい〕寺)、京都の東寺(教王護国寺)をはじめ、

【仏経は星のごとく羅〔つら〕なり、堂宇〔どうう〕雲〔くも〕のごとく布〔し〕けり。】
星のように多くの仏像と経巻が集められて、雲が沸き起こるように日本中に寺院が建てられたのです。

【□子〔しゅうし〕の族〔やから〕は則ち鷲頭〔じゅとう〕の月を観じ、】
舎利弗の一門である天台宗は、インドの霊鷲山で説かれた法華経によって観心観法を修し、

【鶴勒〔かくろく〕の流〔たぐい〕は亦鶏足〔けいそく〕の風〔ふう〕を伝ふ。】
付法蔵の鶴勒夜那〔かくろくやな〕の系統である迦葉〔かしょう〕は、インドの鶏足山〔けいそくさん〕で正しく経法を伝えております。

【誰〔たれ〕か一代の教〔きょう〕を褊〔さみ〕し三宝〔さんぼう〕の跡を廃すと謂〔い〕はんや。】
このように現在でも日本の仏教は、興隆しており、いったい誰が釈迦牟尼仏の一代聖教を軽んじ、仏法僧の三宝を絶やしたと言うのでしょうか。

【若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。】
その証拠があるならば、詳しくお聞きしたいものです。

[第三答] 正法を誹謗〔ひぼう〕するの由〔よし〕

【主人喩〔さと〕して曰く、】
その客の強い言葉に主人は、静かに答えました。

【仏閣〔ぶっかく〕甍〔いらか〕を連〔つら〕ね経蔵軒〔のき〕を並べ、僧は竹葦〔ちくい〕の如く侶〔りょ〕は稲麻〔とうま〕に似たり。】
確かにあなたの言われる通りに、寺は、建ち並び、経蔵も立派であり、また僧侶もたくさんいて信者の帰依や寄進も変わらず続いて居ります。

【崇重〔そうじゅう〕年旧〔としふ〕り尊貴〔そんき〕日〔ひ〕に新〔あら〕たなり。】
また、その権威は、年ごとに増し、尊〔とうと〕ばれる事は、日に日に新たになっております。

【但し法師は諂曲〔てんごく〕にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁〔わきま〕ふること無し。】
しかし、実際にその内実はと言うと、僧侶は、驕り高ぶり、邪義で人を惑わし、国王も万民も愚かで、その正邪を見分ける事さえ出来ないのです。

【仁王経に云はく】
仁王経の嘱累品には、次のように説かれています。

【「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て自〔みずか〕ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。】
多くの悪僧達がいて自己の名誉や利益の為に国王や太子や王子などの権力者に近づいて正法を破り国を滅ぼすような間違った教えを説くであろう。

【其の王別〔わきま〕へずして此の語〔ことば〕を信聴し、横〔よこしま〕に法制を作りて仏戒に依らず。】
その王達は、正邪を見分ける事が出来ずに、その間違った言葉を信じ、正法を護れという仏の戒めに背いて勝手な法律や制度を作るのです。

【是を破仏・破国の因縁と為す」已上。】
これが、仏法を破り、国を滅ぼす原因となるのです。

【涅槃経に云はく】
涅槃経の高貴徳王品には、次のように説かれています。

【菩薩、悪象等に於ては心に恐怖〔くふ〕すること無かれ。悪知識に於ては怖畏〔ふい〕の心を生ぜよ。】
釈迦牟尼仏は、悪象などを少しも恐れる必要はないと菩薩に言ったが、しかし、悪友は、怖れなければならないと述べた。

【悪象の為に殺されては三趣〔さんしゅ〕に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。】
なぜならば、悪象に踏み殺されても地獄、餓鬼、畜生に堕ちる事はないが、悪友の誘いに乗って死ねば必ず三悪道に落ちるからである。

法華経に云はく】
法華経の勧持品には次のように説かれています。

【「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲〔てんごく〕に、未だ得ざるを為〔こ〕れ得たりと謂〔おも〕ひ、我慢〔がまん〕の心充満せん。】
悪世の僧達は、邪な智恵と、こびへつらいの心をもち、また、未〔いま〕だ覚りを得ていないのに覚ったと思い、高慢な思いに満たされるのです。

【或は阿練若〔あれんにゃ〕に納衣〔のうえ〕にして空閑〔くうげん〕に在り、】
また人里離れた静かな場所で粗末な袈裟を身にまとい、そこに住んで、

【自ら真〔しん〕の道〔どう〕を行〔ぎょう〕ずと謂〔おも〕ひて人間を軽賎〔きょうせん〕する者有らん。】
自分は、正しい道を修行していると思って人びとを見くだすのです。

【利養に貪著〔とんじゃく〕するが故に白衣〔びゃくえ〕の与〔ため〕に法を説いて、】
金の為に在家の人々に法を説いて、

【世に恭敬〔くぎょう〕せらるゝこと六通の羅漢〔らかん〕の如くならん。】
世間から尊敬される為に仏道修行によって不思議な力を得たように振る舞うのです。

【乃至〔ないし〕常に大衆の中に在りて我等を毀〔そし〕らんと欲〔ほっ〕するが故に、国王・大臣・婆羅門〔ばらもん〕・】
これらは、常に大衆の中にあって、正法を弘める者を謗〔そし〕り続け、国王や大臣や外道の者や

【居士〔こじ〕及び余の比丘衆に向かって誹謗〔ひぼう〕して我が悪を説いて、是〔これ〕邪見の人外道の論議を説くと謂〔い〕はん。】
邪宗の信者や僧侶に向かって、正法を弘める者の悪行を言いたて、これらは、邪見の人であり、外道の説を論議する者であると非難するのです。

【濁劫〔じょっこう〕悪世の中には多く諸の恐怖〔くふ〕有らん。悪鬼其〔そ〕の身に入って我を罵詈〔めり〕し毀辱〔きにく〕せん。】
世の中が乱れ濁って来ると、さらに多くの畏怖すべき事が有り、悪魔が彼らの身に入って正法を護持する者を罵倒し辱〔はずか〕しめるであろう。

【濁世〔じょくせ〕の悪比丘は仏の方便随宜〔ずいぎ〕所説の法を知らず、】
濁悪の世界の悪僧達は、仏の方便の教えが相手の能力に応じて説かれた事を知らずに、

【悪口〔あっく〕して顰蹙〔ひんじゅく〕し数々〔しばしば〕擯出〔ひんずい〕せられん」已上。】
これに執着して、真実の教えを弘める者に眉〔まゆ〕をひそめて悪口を言い、しばしば、住んでいる場所を追い出そうとするのです。

【涅槃経に云はく】
涅槃経の如来性品にも末世の悪僧について次のように説かれています。

【「我涅槃の後〔のち〕無量百歳に四道の聖人悉く復〔また〕涅槃せん。】
仏が入滅し、その後、長大な時間を経て、仏、菩薩、二乗の四聖の聖者も、すべていなくなり、

【正法〔しょうぼう〕滅して後〔のち〕像法の中に於て当に比丘有るべし。】
正法の時代が過ぎ去り、形ばかりの仏法が残る像法の時代にも、僧と称する者がいるであろう。

【持律に似像〔じぞう〕して少〔すこ〕しく経を読誦〔どくじゅ〕し、飲食〔おんじき〕を貪嗜〔とんし〕して其の身を長養〔ちょうよう〕し、】
彼らは、形だけ戒律を守っているように見せてはいるものの、わずかばかり経を読み、ただ飲み食いに執着し、

【袈裟〔けさ〕を著すと雖も、猶〔なお〕猟師の細視除行するが如く猫の鼠を伺〔うかが〕ふが如し。】
袈裟はつけているけれども、猟師が細目でそっと獲物に近づくように、また猫が鼠をうかがうように人々の財産を狙っているのです。

【常に是の言〔ことば〕を唱へん、我〔われ〕羅漢〔らかん〕を得たりと。】
そして、いつも、未だ仏法の悟りを得ていないにも関わらず、悟りを得たと人々に言いふらすのです。

【外には賢善〔けんぜん〕を現じ内には貪嫉〔とんしつ〕を懐〔いだ〕く。】
外見は、聖者のように装〔よそお〕っているけれども、その内面は欲望と嫉妬と慢心で満たされているのです。

【唖法〔あほう〕を受けたる婆羅門〔ばらもん〕等の如し。】
正法によって、その事を問いただしても、それを無視する姿は、まるで無言の行をして悟りを得たと、うそぶいている外道のような姿なのです。

【実には沙門〔しゃもん〕に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛〔しじょう〕にして正法を誹謗せん」已上。】
ほんとうは、出家してもいないのに、出家したような姿をして、仏教を外道の邪見でとらえて正法を誹謗するのです。

【文に就〔つ〕いて世を見るに誠に以て然〔しか〕なり。】
これらの経文から、現在の世の中を見てみると、まさに今の仏教界そのものなのです。

【悪侶を誡〔いまし〕めずんば豈〔あに〕善事を成さんや。】
このような謗法の僧侶の姿を誡〔いまし〕め、問いたださずに、どうして正しい事が出来るでしょうか。

[第四問] 正しく一凶の所帰〔しょき〕を明かす

【客猶〔なお〕憤〔いきどお〕りて曰く、】
客は、それでも、まだ憤慨して次のように反論しました。

明王〔めいおう〕は天地に因〔よ〕って化を成し、聖人は理非を察〔つまび〕らかにして世を治む。】
現在も賢明な王は、天地を貫く道理に従って世を治め、聖人は、正しい事と間違っている事の道理をわきまえて人々を導いています。

【世上の僧侶は天下の帰する所なり。】
現在の僧侶も国中の人々が深く帰依するところではないですか。

【悪侶に於ては明王信ずべからず、】
もし、あなたが言われているように、法を破り国を破る僧侶であれば、賢明なる王が信じるはずがありません。

【聖人に非〔あら〕ずんば賢哲〔けんてつ〕仰ぐべからず。】
また、聖人でなければ、世の学者や知識人に認められるはずもありません。

【今賢聖〔けんせい〕の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざることを知んぬ。】
そのように賢明な世の指導者達が尊敬し、重んじている事からみても、今の高僧達が立派な僧侶である事を知る事が出来ます。

【何ぞ妄言〔もうげん〕を吐〔は〕きて強〔あなが〕ちに誹謗を成し、誰人〔たれびと〕を以て悪比丘〔びく〕と謂〔い〕ふや、】
それなのに、なぜ、みだりに人を迷わす言葉を吐いて、そのように高僧達を謗〔そし〕り、いったい誰を指して悪僧だと言われるのでしょうか。

【委細に聞かんと欲す。】
くわしく聞かせてもらいたいものです。

[第四答] 正しく一凶の所帰〔しょき〕を明かす

【主人の曰く、】
その疑問に主人は、率直に答えました。

【御鳥羽院の御宇〔ぎょう〕に法然〔ほうねん〕といふもの有り、】
後鳥羽上皇の時代に法然源空という人がおりました。

【選択集〔せんちゃくしゅう〕を作る。】
そして公家の九条兼実〔かねざね〕の依頼によって選択〔せんちゃく〕本願念仏集という書物を著〔あら〕わしました。

【則ち一代の聖教〔しょうぎょう〕を破し遍〔あまね〕く十方の衆生を迷はす。】
この選択集によって釈尊一代の尊い教えを破壊して多くの人々を迷わせてしまったのです。

【其の選択に云はく】
その選択集には、次のように書かれております。

【「道綽禅師〔どうしゃくぜんじ〕聖道〔しょうどう〕・浄土の二門を立て、聖道を捨てゝ正〔まさ〕しく浄土に帰するの文、】
道綽禅師の安楽集には、仏教を聖道門と浄土門の二門に分けて、聖道門を捨てて浄土門に入るべきであると説かれている。

【初めに聖道門とは之に就いて二有〔にあ〕り、】
その聖道門には、大乗教と小乗教の二つがあり、

【乃至之〔これ〕に準じて之を思ふに、応〔まさ〕に密大及以〔および〕実大を存〔そん〕すべし。】
この文から推測すれば、当然、密教も実大乗教も聖道門の中に含まれるべきなのである。

【然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論〔じろん〕・摂論〔しょうろん〕、此等の八家〔はっけ〕の意】
そう考えれば、今の世に信仰されている真言宗禅宗天台宗華厳宗三論宗法相宗、地論、摂論の八宗は、

【正〔まさ〕しく此〔ここ〕に在るなり。】
すべて聖道門の中に入り、捨てられるべきなのです。

曇鸞法師〔どんらんほっし〕の往生論〔おうじょうろん〕の註〔ちゅう〕に云はく、】
さらに中国念仏宗の開祖の曇鸞法師の往生論の注釈には、

【謹んで竜樹菩薩〔りゅうじゅぼさつ〕の十住毘婆沙〔じゅうじゅうびばしゃ〕を案ずるに云はく、】
謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論の第五巻の易行品を読むと、

【菩薩阿毘跋致〔あびばっち〕を求むるに二種の道〔みち〕有り、】
菩薩が覚りを求めるのに二種類の道がある。

【一には難行道〔なんぎょうどう〕、二には易行道〔いぎょうどう〕なりと、】
一つは難行道、もう一つは易行道である。

【此の中の難行道とは即ち是〔これ〕聖道門〔しょうどうもん〕なり。易行道とは即ち是〔これ〕浄土門なり。】
この難行道とは、聖道門の事であり、易行道とは、浄土門の事である。

【浄土宗の学者先づ須〔すべから〕く此の旨を知るべし。】
浄土宗を学ぶ者は、何よりも先に聖道門と浄土門、難行と易行の区別を知らなければならない。

【設〔たと〕ひ先〔さき〕より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若〔も〕し浄土門に於て其の志〔こころざし〕有らん者は】
たとえ以前から聖道門を学んでいる者でも、もし浄土往生を志すならば、

【須〔すべから〕く聖道を棄てゝ浄土に帰すべし」と。】
きっぱりと聖道門を捨てて浄土門へ入らねばならない。

【亦云はく】
また選択集の第二章には次のように書いてあります。

【善導〔ぜんどう〕和尚は、】
中国唐代の浄土宗の僧、善導和尚は、観無量寿経疏に、

【正〔しょう〕・雑〔ぞう〕の二行を立て、雑行〔ぞうぎょう〕を捨てて正行〔しょうぎょう〕に帰するの文。】
正行、雑行の二種類の修行法を立てて、雑行を捨てて正行に入らねばならない。

【第一に読誦〔どくじゅ〕雑行とは、上〔かみ〕の観経等の往生浄土の経を除いて已外〔いげ〕、】
第一の読誦雑行とは、往生浄土を説いた観無量寿経、大無量寿経阿弥陀経の三部経以外の

【大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく。】
大乗、小乗、顕教密教の諸経を信じたり読んだりすることである。

【第三に礼拝〔らいはい〕雑行とは、上の弥陀〔みだ〕を礼拝するを除いて已外〔いげ〕、】
第三の礼拝雑行とは、阿弥陀如来以外の

【一切の諸仏菩薩等及び諸の世天〔せてん〕等に於て礼拝し恭敬〔くぎょう〕するを悉く礼拝雑行と名づく、】
諸仏、菩薩、諸天などを拝んだり敬ったりすることである。

【私に云はく、】
これらの事によって法然は、このように考えたのです。

【此の文を見るに須〔すべから〕く雑を捨てゝ専を修すべし。】
善導和尚が言った事は、すべての雑行を捨てて専ら念仏の正行を修行すべきであると勧められたものだ。

【豈〔あに〕百即百生の専修〔せんしゅ〕正行を捨てゝ、堅〔かた〕く千中無一の雑修〔ぞうしゅう〕雑行〔ぞうぎょう〕を執〔しゅう〕せんや。】
百人が百人ともに往生できるという専修念仏の正行を捨てて、千人に一人も成仏できないという雑行にどうして執着する必要があるだろうか。

【行者能〔よ〕く之を思量〔しりょう〕せよ」と。】
仏法を修行しようとする者は、よくこの事を考えるべきである。

【又云はく】
また選択集の第十二章には次のように記されています。

【「貞元入蔵録〔じょうげんにゅうぞうろく〕の中に、始め大般若経〔だいはんにゃきょう〕六百巻より】
中国の僧、円照が唐の時代に勅命で選んだ経巻の目録の中に、最初は、大般若経六百巻より、

【法常住経〔ほうじょうじゅうきょう〕に終はるまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり、】
最後の法常住経に至るまで、顕密の大乗経は総じて六百三十七部二千八百八十三巻あるが、

【皆須〔すべから〕く読誦大乗の一句に摂〔しょう〕すべし」】
しかし、浄土三部経のひとつ観無量寿経には、これらは、すべて念仏を唱えよとの意味で、釈迦牟尼仏の本意は念仏であると説かれており、

【「当に知るべし、随他〔ずいた〕の前には暫く定散〔じょうさん〕の門を開くと雖も】
したがって、仏が随他意として、やむをえず当分の間は、定善や散善の二善のさまざまな修行の門が開かれているが、

【随自〔ずいじ〕の後には還〔かえ〕って定散の門を閉〔と〕づ。】
仏が随自意の真実を述べられる場合には、定散の二門は閉じられ廃止されてしまうのである。

【一たび開いて以後永〔なが〕く閉ぢざるは唯是〔これ〕念仏の一門なり」と。】
末法衆生には、一度開いて永久に閉じられる事がない念仏の一門しかないのである。

【又云はく】
また選択集の第八章には、次のように記されています。

【「念仏の行者必ず三心〔さんじん〕を具足〔ぐそく〕すべきの文、】
観無量寿経には、念仏の行者は、必ず至誠心、深心、回向発願心の三種類の心を具えなければならないと説かれている。

観無量寿経に云はく、同経の疏〔しょ〕に云はく、】
この経を善導が注釈した書物の中に、このようにあります。

【問うて曰く、若し解行〔げぎょう〕の不同邪雑〔じゃぞう〕の人等有〔あ〕りて外邪異見〔げじゃいけん〕の難を防〔ふせ〕がん。】
仏法への理解が無ければ修行は無意味であると主張し、念仏によっては、往生出来ないという邪見雑行の者がいて念仏の修行を妨げるのである。

【或は行くこと一分二分にして群賊〔ぐんぞく〕等喚〔よ〕び廻〔かえ〕すとは、】
西方浄土への正しい道を進んでいる良民を、魔民の群が危険だから引き返せと叫んでいるという物語の中のこの魔民の群が呼び返すという譬えは、

【即ち別解〔べつげ〕・別行〔べつぎょう〕・悪見〔あっけん〕の人等に喩〔たと〕ふ。】
念仏によって往生できないという邪見雑行の者が念仏の行者を妨げる事を譬えたものである。

【私〔わたくし〕に云はく、又此の中に一切の別解・別行・異学〔いがく〕・異見等と言ふは是〔これ〕聖道門を指すなり」已上。】
この注釈の中で念仏の行者と見解が分かれ、別の修行をなし、法門を異にする者というのは、聖道門を指すのであると法然が言っているのです。

【又最後結句〔けっく〕の文に云はく】
また、この選択集の最後の結びの文には次のように記されています。

【「夫速〔それすみ〕やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且〔しばら〕く聖道門を閣〔さしお〕きて選〔えら〕んで浄土門に入れ。】
はやく生死の苦しみから離れようと思うならば、聖道と浄土の二門うち、難しい聖道門は、しばらくこれをさしおいて浄土門を選ぶべきである。

浄土門に入らんと欲せば、正・雑二行の中に且く諸の雑行を抛〔なげう〕ちて選んで応〔まさ〕に正行に帰すべし」已上。】
浄土門に入ろうと思うならば、正行、雑行の二種の修行法のうち、すべての雑行をなげうって念仏の正行に帰依するべきである。

【之に就〔つ〕いて之を見るに、】
以上のように法然が引用した選択集の文を見ると、

曇鸞〔どんらん〕・道綽〔どうしゃく〕・善導〔ぜんどう〕の謬釈〔みょうしゃく〕を引いて聖道浄土〔しょうどうじょうど〕】
念仏の祖である中国の曇鸞道綽、善導の間違った解釈を用いて聖道と浄土、

【難行易行の旨を建て、法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、】
難行と易行の修行をたてて、法華、真言をはじめ釈迦牟尼仏一代の大乗経、六百三十七部、二千八百八十三巻のすべて、

【一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以〔もっ〕て、皆〔みな〕聖道・難行・雑行等に摂して、】
諸仏や菩薩、諸天善神をすべて聖道門、難行、雑行に入れてしまって、

【或は捨て、或は閉じ、或は閣〔さいお〕き、或は抛〔なげう〕つ。】
あるいは捨てよ、あるいは閉じよ、あるいはさしおけ、あるいはなげうてと教えて、

【此の四字を以て多く一切を迷はし、剰〔あまつさ〕へ三国の聖僧・十方の仏弟〔ぶってい〕を以て】
この四字のみを人々に教えて、多くの人びとを迷わしているのです。また、そればかりではなく、インド、中国、日本の聖僧や仏弟子を、

【皆群賊と号〔ごう〕し、併〔あわ〕せて罵詈〔めり〕せしむ。】
すべて魔民の群衆だと教えて、罵〔ののし〕っているのです。

【近くは所依〔しょえ〕の浄土の三部経の「唯〔ただ〕五逆と誹謗正法〔しょうぼう〕を除く」の誓文〔せいもん〕に背き、】
このような言葉は、近くは法然が依りどころとした浄土三部経の「五逆罪と正法誹謗の者は往生できない」という阿弥陀如来誓願の文に背き、

【遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の】
また遠くは、釈迦牟尼仏の一代の華厳、阿含、方等、般若、法華の五つの時代の肝心である法華経第二巻の譬喩品第三に説かれている、

【「若し人信ぜずして此の経を毀謗〔きぼう〕せば、乃至〔ないし〕其の人命終〔みょうじゅう〕して阿鼻獄に入らん」】
もし、この経を信ぜずに謗〔そし〕る者は、臨終に際して無間地獄に入る。

【の誡文〔かいもん〕に迷ふ者なり。】
という釈迦牟尼仏の誡〔いまし〕めの文に背くものであります。

【是〔ここ〕に代末代〔よまつだい〕に及び、人〔ひと〕聖人〔しょうにん〕に非ず。】
さて、今の世は末法の世であり、人々も愚かであり聖人ではありませんから、

【各〔おのおの〕冥衢〔みょうく〕に容〔い〕りて並びに直道〔じきどう〕を忘る。】
みんな暗い道に迷い込んで覚りへの道を忘れてしまっております。

【悲しいかな瞳矇〔どうもう〕を□〔う〕たず。痛〔いた〕ましいかな徒〔いたずら〕に邪信を催〔もよお〕す。】
悲しい事に誰もその曇った目を醒〔さ〕まそうとはせずに、痛ましい事にいたずらに邪教を信じ続けているのです。

【故に上〔かみ〕国王より下〔しも〕土民に至るまで、皆〔みな〕経は浄土三部の外〔ほか〕に経無く、】
それ故に、上は、国王から、下は、一般庶民に至〔いた〕るまで、みんな経は、浄土三部経以外にはなく、

【仏は弥陀三尊〔さんぞん〕の外に仏無しと謂〔おも〕へり。】
仏は、阿弥陀三尊である阿弥陀仏とその脇士の観世音菩薩と勢至〔せいし〕菩薩しかいないと思っています。

【仍〔よ〕って伝教・義真〔ぎしん〕・慈覚〔じかく〕・智証〔ちしょう〕等、】
その昔、伝教大師比叡山第二代座主、義真や、比叡山第三代座主、慈覚、比叡山第四代座主、智証などの先師は、

【或は万里の波濤〔はとう〕を渉〔わた〕りて渡せし所の聖教〔しょうぎょう〕、】
万里の海を渡って唐に入って仏教を日本に伝え、

【或は一朝の山川〔さんせん〕を廻〔めぐ〕りて崇〔あが〕むる所の仏像、】
日本の各地の山川を巡りまわって本尊とする仏像を作り、

【若しくは高山の巓〔いただき〕に華界〔けかい〕を建てゝ以て安置し、】
比叡山の頂に堂宇〔どうう〕を建てて、その本尊を安置し、

【若しくは深谷の底に蓮宮〔れんぐう〕を起〔た〕てゝ以て崇重す。】
あるいは深い谷に寺塔〔じとう〕を建ててその仏像を崇めました。

【釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施〔ほどこ〕し、】
また比叡山の東塔には、寿量品の良医である薬師如来を、西塔には、伝教大師御作の釈迦像を安置して、現在だけでなく未来までも威光を及ぼし、

【虚空・地蔵〔じぞう〕の化を成すや、】
横川〔よかわ〕般若〔はんにゃ〕谷には、虚空蔵菩薩を、また横川〔よかわ〕戒心谷には、地蔵菩薩を祀〔まつ〕って、

【益〔やく〕を生後〔しょうご〕に被〔こうむ〕らしむ。】
いよいよ利益を今生と後生にまで民衆に施されたのです。

【故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭〔とうしょく〕を明らかにし、地頭は田園を充〔あ〕てゝ以て供養に備〔そな〕ふ。】
だからこそ比叡山に、国主は、土地を寄進して燈明料とし、地頭は、田畑を寄進して供養としたのです。

【而〔しか〕るを法然の選択〔せんちゃく〕に依って、則ち教主を忘れて西土〔さいど〕の仏駄〔ぶっだ〕を貴〔たっと〕び、】
ところが法然の選択集が世に出てからは、人々は、この娑婆世界の教主釈尊を忘れ、西方極楽世界の阿弥陀如来を貴び、

【付嘱を抛〔なげう〕ちて東方の如来を閣〔さしお〕き、】
伝教大師から続いて来た薬師如来は捨てられ、

【唯〔ただ〕四巻三部の経典を専〔もっぱ〕らにして空〔むな〕しく一代五時の妙典を抛〔なげう〕つ。】
ただ四巻三部だけの浄土三部経を依りどころとして、釈尊一代の経典はすべて捨て去られてしまったのです。

【是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏〔くぶつ〕の志を止〔とど〕め、念仏の者に非ざれば早く施僧〔せそう〕の懐〔おも〕ひを忘る。】
そして阿弥陀堂でなければ供養もせず、念仏僧でなければ布施もしないようになってしまったのです。

【故に仏堂は零落〔れいらく〕して瓦松〔がしょう〕の煙老〔お〕い、僧房は荒廃〔こうはい〕して庭草〔ていそう〕の露深し。】
この為に堂宇は、苔が生えて落ちぶれ、僧坊も荒廃して雑草ばかりとなってしまいました。

【然りと雖も各護惜〔ごしゃく〕の心を捨てゝ、並びに建立〔こんりゅう〕の思〔おも〕ひを廃す。】
それでも惜しいと思う者はなく、再建しようとする思いなど誰にもありません。

【是を以て住持〔じゅうじ〕の聖僧行きて帰らず、守護の善神去〔さ〕りて来たること無し。】
このような有様なので、正しい僧侶は寺から去ってしまい、仏法を守護するはずの諸天善神も居なくなってしまいました。

【是偏〔これひとえ〕に法然〔ほうねん〕の選択〔せんちゃく〕に依るなり。】
これらはみな、法然の選択集から起こった事なのです。

【悲しいかな数十年の間、百千万の人魔縁に蕩〔とろ〕かされて多く仏教に迷〔まよ〕へり。】
まことに悲しむべき事に法然が選択集を著わしてから、数十年の間に百千万の人々がこの魔説によって、仏法に迷い正法を失ってしまいました。

【謗〔ぼう〕を好んで正〔しょう〕を忘る、】
法華誹謗の念仏を好んで正法である法華経を忘れるならば、

【善神怒〔いか〕りを成さゞらんや。】
仏法守護の諸天善神も必ず怒りを成すに相違ありません。

【円を捨てゝ偏〔へん〕を好む、】
このように完全である円教の法華経を捨てて、偏頗な邪教である浄土念仏を信じるならば、

【悪鬼便〔たよ〕りを得ざらんや。】
悪鬼がたよりを得て日本国に災いをもたらす事は間違いないことなのです。

【如〔し〕かず彼〔か〕の万祈を修せんよりは此の一凶〔いっきょう〕を禁ぜんには。】
それ故に様々な祈祷を行って災いを除こうとするよりも、まず、この災いの元凶である念仏を禁止する事が第一なのです。

 

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

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  • 発売日: 2018/10/13
  • メディア: 単行本