日蓮正宗のススメ

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1214夜:成仏をしたらその後はどうなるのか?

成仏したら末法には生まれないのか?

【質問】
成仏してしまうと、罪業ざいごうがなくなって、もう末法時代には生まれてこないのでしょうか?

【回答】
たしかに、この末法という濁悪じょくあくの世の中に生まれてくるのは、過去に謗法ほうぼうの者であった罪業ざいごうによるのだ、と御書の随所ずいしょに述べられています。

ところが、御書の中には、もう一つ、別なことも示されています。すなわち、「末法にして妙法蓮華経の五字をひろめん者は男女はきらふべからず、皆地涌じゆ菩薩ぼさつの出現にあらずんば唱へがたき題目なり」(御書六六六頁)

と言われているのです。

地涌じゆ菩薩ぼさつとは、法華経ほけきょう会座えざにおいて、日蓮大聖人が地涌じゆ棟梁とうりょう・上行菩薩ぼさつとして出現されていますが、その上行菩薩ぼさつに従って現われた六万恒河沙ごうがしゃという無数の眷族けんぞくのことをいいます。

このことからいえば、地涌じゆ菩薩ぼさつとは御本仏日蓮大聖人様の本眷属、つまり、過去にすでに大聖人様の仏法を修行して、即身成仏をげたであろう人達、ということになります。

この人達が末法に生まれてきて、お題目を唱え、大聖人様の御化導のお手伝いをしているのだ、と大聖人様は言われているわけです。

このことを「願兼がんけん於業おごう」といいます。これは、願生がんしょう業生ごうしょうを兼ねるということで、「願生がんしょう」とは、願って生まれるということであり、「業生ごうしょう」とは、業によって生まれるということです。

つまり、末法濁悪じょくあくの世に、悪業あくごう果報かほうによって生まれてきた、というのが「業生ごうしょう」です。

一方、「願生がんしょう」というのは、末法における大聖人様の広宣こうせん流布るふのお手伝いをさせていただくために、また正法しょうぼうを護るために、大聖人様の本眷属が願って生まれてきた、ということです。

この「願生がんしょう」と「業生ごうしょう」とを兼ねて生まれる、といいますのは、末法地涌じゆ菩薩ぼさつ流類るるいが生まれてくる場合は、当然、願生がんしょうなのですが、末法の世の中は濁悪じょくあくの世の中ですから、悪業あくごうを持った衆生しゅじょうでないと生まれてこられません。そこで、形どおり、罪業ざいごうを作って生まれてくるのです。

すなわち、地涌じゆ流類るるいは過去に妙法を行じて即身成仏をげており、成仏の境界きょうがいは自由自在ですから、もともと無かった罪業ざいごうを、形どおり作って生まれてくることができる、というわけです。

仏様や菩薩ぼさつが地獄にちる、などということは、本来ありえないことです。しかし、菩薩ぼさつが地獄の衆生しゅじょうを救うために、形どおり地獄の業を作って地獄の中まで行き、地獄の衆生しゅじょうを救うということが、小乗教の中に説かれていると、大聖人様は『開目抄』に述べられています。そして、それと同じように、作りたくない罪だけれども、形どおり罪業ざいごうを作って末法に出生し、末法衆生しゅじょうを救うのだ、と示されています。

したがいまして、末法には、“地涌じゆ菩薩ぼさつ流類るるいが、願兼がんけん於業おごうによって罪業ざいごうを作って生まれてきた”というケースと、もう一つは、“本当に過去世かこせおかした罪業ざいごうの報いによって生まれてきた”というケースの、二通りがあることになります。

では、そういう違いがどこで分かるのかといえば、これはなかなかむずかしい問題です。自分で「ああ、俺は業生ごうしょうだ」とか「あなたは願兼がんけん於業おごうね」とか、そんなことを勝手に断定することはできません。これは、我々凡夫の眼では、なかなか分からないのです。

ただ、経験的に一つ言えることは、入信した時からずっと見ていると、やはり、人によって正法しょうぼうに対する素養の違いが厳然げんぜんとあるようです。

それを見ていると、やはり、仏道修行をしている人達の中に、罪業ざいごうによって生まれてきた人と、願兼がんけん於業おごうで生まれてきた人の両方がいる、ということは、認めざるえない事実であると思います。

ただし、罪業ざいごうによって生まれてきて、今世で初めて妙法に縁して入信した人であっても、一生懸命に信心に励み、どんな三障四魔があっても乗り越えて、本当に正しく信心をして折伏に励んだならば、今生こんじょうにおいて地涌じゆ流類るるいの中に入れていただけるわけです。

逆に、願って生まれてきて、過去の約束によって信心につくことができたとしても、信心をゆるくして退転たいてんしていってしまったならば、その人は地涌じゆ菩薩ぼさつからはずれてしまうでしょう。

だから、どちらにせよ、今生こんじょうで一生懸命に仏道修行をつらぬくことが大事なのです。

ただ今の質問も、これらのことから考えればわかるだろうと思います。

すなわち、末法時代に生まれて自行じぎょう化他けたにわたる修行をし、罪障ざいしょう消滅を果たして、即身成仏をげたとすれば、この人は地涌じゆ流類るるいに加えていただけます。

そして、「こんな素晴らしい人生はなかった」ということに気がついて、次の世にも、自分から願って御本尊様の元へ生まれて、「また末法広宣こうせん流布るふのために働かせていただこう」と、そういう人生になってくるのであります。

あなたもすでに過去世において、成仏しているのかもしれません

追伸

眷属妙の話はややこしいですね。

私が御僧侶から聞いた話を少し。

ひとつは、「本未有善」「本已有善」のこと。
この時の「善」とは、釈迦仏法について善根や因縁のことで、大聖人様との御縁は別次元の話ですよと。
たしかにそうですよね。
大聖人様の御両親を始めとして、宿縁のあるであろうと推測できる方々がおられ、大聖人様の御化導を補助されています。
日興上人様や熱原法華講衆など、「本未有善」ではありえない方々がおられますものね。

あとのひとつは、「ポリ銀さんや御家族は、仏国土に生まれます。もう、娑婆世界には来ないですよ」と言われたことがあります。仏界に往生ということですね。

この辺の詳しいことは、百六箇種脱對見拜述記の眷属妙の章を御参照ください。