久遠元初の概念は科学と矛盾するか?
【質問】
仏法には久遠元初という概念が説かれていますが、これは、今日、明らかになってきた現代科学の研究成果と明らかに矛盾しているように思えます。
つまり、現代科学では、生物の進化の過程の中で現生人類(ホモサピエンス)が誕生したのは約三万五千年前としています。
ところが、御本仏が即座開悟された久遠元初という時を計算しようとすると、まさに計算も及ばない大昔で、地上には哺乳類も存在していないどころか、地球すらも存在しない時代になってしまうのです。
ということは、仏法では現代科学の成果を否定する、ということになるのではないでしょうか?
【回答】
そんなことはありません。
『法華経法師功徳品』には
「是の清浄の意根を以て乃至一偈一句を聞くに、無量無辺の義を通達せん。是の義を解り已って、能く一句・一偈を演説すること、一月・四月・乃至一歳に至らん。諸の所説の法其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経四九三頁)
つまり、正法の上から説かれることと、世間における学問とが相反することはない、と説かれています。
また、天台大師の『法華玄義』には、
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」
世の中の科学・医学等の学問と、仏法の教えとは、けっして相反するものではない、とされています。
つまり、仏法の教えと近代科学の研究成果(進化論等)が矛盾したり、対立する、ということはあり得ないのです。それが矛盾するように思えるとしたら、それは、仏法に対する理解が未熟であるか、あるいは、科学等の学問に対する誤解があるかの、どちらかでありましょう。
さて、それでは、なぜ質問のような疑いが生じたのかといえば、あなたが、仏法を地球上だけの占有物と捉え、狭い空間と歴史の中だけで推し量ろうとしているからです。
そもそも仏法には、「三世十方」という概念があります。三世というのは、過去・現在・未来のことで、十方というのは、この地上の娑婆世界を中心として見た場合に、束・西・南・北の四方に、東南・西南・西北・東北を加えて八方、それに上・下の二方を加えた、あらゆる所をいいます。
そして、この地球上から見た十方――宇宙法界のいたる所に、地球と同じような衆生の存在する無数の国土・社会があり、その各々の世界に先覚者である「諸仏」が出生して仏法を説き、民衆を教化救済していること、しかも、それは過去・現在・未来にわたって行なわれていること等が説かれているのです。
一方、今日の天文学においても、この地球と同じ条件を具えていると思われる、高等生物の存在しうる可能性のある惑星が数多、存在する、といわれています。
たしかに、光の速度をもってしても果てしない大宇宙の中に、文字どおり無数の太陽や惑星があるのに、高等生物が生息するのは地球だけである、と考えることは偏頗きわまりありません。
それらの惑星の中に、我々人間と同様の衆生がかつて存在し、また現在も存在している惑星があるとしても、まったく不思議はありませんし、むしろ、そう考える方が自然であるといえましょう。
このようにみてきますと、久遠元初という概念を、この地球上の人類の歴史という、狭い枠の中に限定して考えるから、わからなくなるのです。
およそ、仏法がこの地球上で初めて説かれたのは、三千年前の釈尊の時です。それ以前は、歴史上で見るかぎり、あたかも「仏法不現前」(御書一八四三頁)のごとくに見えますが、仏法はこの地球上の人類の占有物ではなく、三世十方にわたる宇宙法界と共にあるのですから、三千塵点劫、五百塵点劫、そして久遠元初の昔にも、厳然と存在していたのであり、これは現代科学の成果を否定したりするものではありません。
また、むしろ、天体望遠鏡もない時代に、「三世十方」という卓越した概念を説かれていた、ということは、現代科学をも凌駕する教えとして、目を見張るべきでありましょう。
私の抱えている難問は下記の通り
仏法には久遠元初という概念が説かれていますが、これは、今日、明らかになってきた現代科学の研究成果と明らかに矛盾しているように思えます。
つまり、現代科学では、生物の進化の過程の中で現生人類(ホモサピエンス)が誕生したのは約三万五千年前としています。
ところが、御本仏が即座開悟された久遠元初という時を計算しようとすると、まさに計算も及ばない大昔で、地上には哺乳類も存在していないどころか、地球すらも存在しない時代になってしまうのです。
ということは、仏法では現代科学の成果を否定する、ということになるのではないでしょうか?
【回答】
そんなことはありません。
『法華経法師功徳品』には
「是の清浄の意根を以て乃至一偈一句を聞くに、無量無辺の義を通達せん。是の義を解り已って、能く一句・一偈を演説すること、一月・四月・乃至一歳に至らん。諸の所説の法其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経四九三頁)
つまり、正法の上から説かれることと、世間における学問とが相反することはない、と説かれています。
また、天台大師の『法華玄義』には、
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」
世の中の科学・医学等の学問と、仏法の教えとは、けっして相反するものではない、とされています。
つまり、仏法の教えと近代科学の研究成果(進化論等)が矛盾したり、対立する、ということはあり得ないのです。それが矛盾するように思えるとしたら、それは、仏法に対する理解が未熟であるか、あるいは、科学等の学問に対する誤解があるかの、どちらかでありましょう。
さて、それでは、なぜ質問のような疑いが生じたのかといえば、あなたが、仏法を地球上だけの占有物と捉え、狭い空間と歴史の中だけで推し量ろうとしているからです。
そもそも仏法には、「三世十方」という概念があります。三世というのは、過去・現在・未来のことで、十方というのは、この地上の娑婆世界を中心として見た場合に、束・西・南・北の四方に、東南・西南・西北・東北を加えて八方、それに上・下の二方を加えた、あらゆる所をいいます。
そして、この地球上から見た十方――宇宙法界のいたる所に、地球と同じような衆生の存在する無数の国土・社会があり、その各々の世界に先覚者である「諸仏」が出生して仏法を説き、民衆を教化救済していること、しかも、それは過去・現在・未来にわたって行なわれていること等が説かれているのです。
一方、今日の天文学においても、この地球と同じ条件を具えていると思われる、高等生物の存在しうる可能性のある惑星が数多、存在する、といわれています。
たしかに、光の速度をもってしても果てしない大宇宙の中に、文字どおり無数の太陽や惑星があるのに、高等生物が生息するのは地球だけである、と考えることは偏頗きわまりありません。
それらの惑星の中に、我々人間と同様の衆生がかつて存在し、また現在も存在している惑星があるとしても、まったく不思議はありませんし、むしろ、そう考える方が自然であるといえましょう。
このようにみてきますと、久遠元初という概念を、この地球上の人類の歴史という、狭い枠の中に限定して考えるから、わからなくなるのです。
およそ、仏法がこの地球上で初めて説かれたのは、三千年前の釈尊の時です。それ以前は、歴史上で見るかぎり、あたかも「仏法不現前」(御書一八四三頁)のごとくに見えますが、仏法はこの地球上の人類の占有物ではなく、三世十方にわたる宇宙法界と共にあるのですから、三千塵点劫、五百塵点劫、そして久遠元初の昔にも、厳然と存在していたのであり、これは現代科学の成果を否定したりするものではありません。
また、むしろ、天体望遠鏡もない時代に、「三世十方」という卓越した概念を説かれていた、ということは、現代科学をも凌駕する教えとして、目を見張るべきでありましょう。
ビッグバン理論が正しいとすると、宇宙なんてたかだか138億年前に誕生した事になります。
久遠元初は、釈尊が過去に初めて成道を遂げたと言われる、五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)をはるかにさかのぼるのですが。ちなみに、五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)5×10⁷⁶年前だそうで、現前している宇宙の誕生以前になるのですよ。
現代物理学でも、宇宙論的議論は意見が分かれていまして、結論は出ていません。
ビッグクランチ理論ならば、整合性が取れるかもしれません。膨張を続けている宇宙が、ある時点で膨張から収縮に転じ、まるでぱんぱんに膨らんだ風船から空気が抜けるようにしぼみ、最終的に無次元の特異点に収縮してしまうという考え方が「ビッグクランチ」です。この特異点は宇宙の終わりだけではなく、新しい宇宙の始まりに繋がるのではないかと考える科学者も存在します。
成住壊空(じょうじゅうえくう)や生住異滅(しょうじゅういめつ)の考えに似ていますからね。
宇宙ですら消滅しても、業は残るのでしょうか?
謎です。
生命(蔵識・阿頼耶識)も永遠不滅なのでしょうか?
分かる方がおいでになりましたら、御教示願いたいものです。