日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

PVアクセスランキング にほんブログ村 日蓮正宗のススメ - にほんブログ村

1209夜:UFO(未確認飛行物体)の存在をどう考えるか?

UFO(未確認飛行物体)の存在をどう考えるか?

【質問】
UFOの目撃情報が報道されることがありますが、本当に他の天体に高等生物がいて、地球に飛来ひらいして来ているのでしょうか?

【回答】
まず、我々と同じような知性をそなえた生物の住む天体が、この地球の他にもあるのか、ということからですが、仏教には、「三千さんぜん大千だいせん世界せかい」という世界観が説かれています。

どういう概念がいねんかというと、まず、世界の中心に須弥山しゅみせんがあり、天には日月にちがつ星辰せいしんが回転し、周囲は九つの山と八つの海で囲まれている、その海に四つのしゅう四天下してんげ)があり、そのうちの一つに衆生しゅじょうの住む国土がある、というのです。ここまでは古代インドの世界観を用いたものです。

この須弥山しゅみせんを中心とした世界を一世界いちせかいといいますが、これは今日でいえば太陽系にあたるものといえます。そして、この一世界が一千個集まったものを小千しょうせん世界せかい、小千世界がさらに一千個集まって中千ちゅうせん世界せかい、中千世界がさらに一千個集まって大千だいせん世界せかいとなり、この大千世界のことを三千さんぜん大千だいせん世界せかいともいいます。

つまり、太陽系と同じような、一つの恒星こうせいを中心とした惑星わくせい衛星えいせい群が千×千×千個集まって三千さんぜん大千だいせん世界せかいとなるわけですが、さらに、この三千さんぜん大千だいせん世界せかいが五百千万億那由佗なゆた阿僧祇あそうぎ(五×百×千×万×十万×一千億×一兆の四乗×千)という、まさに数字も及ばない数量集まって、この宇宙が構成されている、というのです。

このような概念がいねんが、天文学も発達していない時代に説かれたというのは、まさに驚くべきことであります。

これだけ無数の世界が存在するのであれば、当然、その中には、知性を備えた生命体の存在する世界があるものと考えられますし、事実、仏法では、三世さんぜ(過去・現在・未来)十方じゅっぽう(東西南北の四方と、北東・北西・南東・南西の四すみと、上下の二方)といって、無限の時間と無限の空間の中で仏の衆生しゅじょうに対する化導が展開されている、と説いているのです。

次に、現代科学でわかっていることとして、この銀河系宇宙には三千億個の星があり、そのうちの三百億が太陽と同じような恒星である、といわれています。そして、その恒星の周囲を回っている惑星の中には、地球と同じように、光や熱があり空気や水を備えた惑星が存在していて当然であり、そこに高度な文明を持った知的生命体が存在する可能性も指摘されています。

ただし、あくまで可能性という話であって、現実に、そのような生命体の存在が観測され確認されたということではないのですが、科学の発達とともに、その状況証拠が増えつつあるということです。

たとえば、近年、電波望遠鏡での観測によって四十種類の星間せいかん分子ぶんしの存在が確認され、その分子の中に、生物の体を構成する有機分子が多数含まれていることが発見されています。そうした状況と、三百億の太陽があることから、確率として、この銀河系には、文明を持った星が一万個存在するであろう、といわれております。

こうしたことを背景として、UFOの飛来ひらいとか、エイリアンの襲来しゅうらい等ということを題材にした小説や映画が作られ、多くの人がそれを信じるに至っているわけです。

しかし、結論からいって、私は、他の星からUFOが飛んで来ているとか、宇宙人が地球人と接触する等ということは、あり得ないことと考えます。これは、まず、仏法上からいって考えられないのです。

なぜかといえば、三世さんぜ十方じゅっぽうの世界で展開されている仏の御化導は、しゅじゅくだつという順序次第に基づいてなされています。

種とは下種益げしゅやくといって仏になる種を衆生しゅじょうに植えること、熟とは熟益じゅくやくといって過去に下された種を育てる(調熟ちょうじゅくする)こと、脱とは脱益だっちゃくといって実った種を収穫する、すなわち衆生しゅじょうを仏と等しい境涯に至らせることをいいます。

そして、この仏の御化導によって、衆生しゅじょうの側にも、すでに下種げしゅを受けた衆生しゅじょう本已ほんい有善うぜん)と、いま下種げしゅを受けていない衆生しゅじょう本未ほんみ有善うぜん)という機根きこんの違いが生じてきます。

さて、真実の仏法の体系から見れば、釈尊の化導は、過去に仏種を下された本已ほんい有善うぜん衆生しゅじょうを成仏に導くための熟脱じゅくだつの化導であり、久遠くおんの昔から長遠な期間にわたって化導を続けられ、最後に、三千年前のインドで法華経ほけきょうを説いて衆生しゅじょうを成仏に導きました。

その後、正法・像法の二千年の中で、本已ほんい有善うぜん衆生しゅじょうことごと救済きゅうさいされ終わると、後にはいまだ仏種を下されていない本未ほんみ有善うぜん衆生しゅじょうが出生してくることになります。すると、それに伴って仏法の化導は一転して始まりに戻り、下種げしゅの化導が開始されることになります。

この時代を末法まっぽう時代というのです。

釈尊の仏法は、いわば、下された種を育て収穫する教えです。その仏法が末法時代に残っていても、もともと種のまかれていない畑をたがやし、そこへ水や肥料を与えるようなもので、何の効果もありません。だから釈尊は、末法時代になると自らの仏法が白法びゃくほう隠没おんもつして功徳くどくを失う、と説かれたのです。

現在の地球は、まさに、その末法時代にあたっており、熟脱じゅくだつの仏である釈尊に代わって、下種げしゅの仏である日蓮大聖人が出現して一切衆生しゅじょう救済きゅうさいする時に当たっているのであります。

さて、こうした仏法の基本から考えたとき、たしかに他の天体に我々と同じような衆生しゅじょうが存在することは、仏法でも、現代科学でも、示唆しさされているわけですが、では、その天体は、仏法の化導において、いかなる時代に当たっているのか、という問題が出てきます。

当然のことながら、広い宇宙の中では、本已ほんい有善うぜん衆生しゅじょうに対して熟脱じゅくだつの仏が化導している星もあれば、本未ほんみ有善うぜん衆生しゅじょう下種げしゅの仏が救済きゅうさいされている星もあることでしょう。

そして、もし、この時代の異なる天体の衆生しゅじょう同士が交わってしまったら、どうなるでしょうか?大変なことになってしまいます。

なぜなら、本未ほんみ有善うぜん衆生しゅじょう熟脱じゅくだつの仏法では救われません。また、本已ほんい有善うぜん衆生しゅじょう下種げしゅ仏法が与えられたら、どういうことになるか、仏法の本筋から言えば勝れた教えは下種げしゅ仏法ですから、熟脱じゅくだつの仏法はおのずから破されてしまいヽ本已ほんい有善うぜん衆生しゅじょうも救われなくなってしまいます。そうなると、三世さんぜ十方じゅっぽうの世界に仏が出現して衆生しゅじょうを化導されている、そのしゅじゅくだつという教化きょうけの仕組みというものが灰燼かいじんしてしまいます。

時代の異なる星の衆生しゅじょう同士が交流する、ということは、このように仏法の化導の破壊となってしまいますから、仏法上あり得ない、と考えるのであります。

では、末法時代に当たっている星同士なら良いのかといえば、今度は師弟していみちにおいて問題が生じます。地球上の我々がしゅしんあおぐべき仏様は日蓮大聖人ただお一人でなければならないからです。

よく言うたとえですが、自分の家のお父さんも、隣の家のお父さんも、同じくお父さんです。だからといって、子供が隣の家に行って「お父さん」などと言って抱きついたら、これは家庭争議の元になってしまいます。

また時として、所属寺院の御住職から信仰上のことで注意を受けたりすると、よその寺院の御住職の方が優しく見えて「あちらに移りたい」などと言い出す人もあります。でもそれは間違いですね。

これらのたとえと同じように、接触をもった他の星が地球と同じく末法時代で、そこにも下種げしゅの仏様がおられる――。そんなことがあったら、他所たしょの仏に心を移す人達が出てきかねませんが、それでは師弟していの道は成就しなくなってしまいます。法華経ほけきょうの信仰は、あくまでも一仏統一主義で、一人の仏様に化導される衆生しゅじょうは、その仏様をどこまでもあおいで信仰していくのが根本精神なのです。

そういう意味からも、他の天体の衆生しゅじょうとの接触はあってはならない、だから起きないであろう、と考える次第です。

唯一、交流してよい星があるとしたら、全く仏教の説かれたことのない、いまだ無仏むぶつ無教むきょうで仏法不現前ふげんぜんの星ということになりましょうが、現に太陽系の中に、そのような星はなく、また都合よく、そういう星に遭遇そうぐうする可能性ということを考えますと、これも現実味のない話であります。

いずれにせよ、他の天体の高等生物と地球人とが接点をもって交流するということは、以上のような仏法上の理由から、どんなに時代が進んだとしてもあり得ない、と確信します。

では、科学的な観点からはどうなのか。前に、高度な文明を持つと考えられる惑星が、銀河系の中に一万個存在するであろう、という説を紹介しました。

ここで問題なのは、銀河系宇宙の広さです。その一万個の星を均等きんとうに配列したとしますと、星と星との間の距離は約一千光年となります(これはあくまでも平均値です)。光の速さで飛んで千年かかる距離です。しかし、物質は光の速度を超えて飛ぶことはできません。そんな速度で飛んだら物質は全て分解してしまいます。光速を超えて航行したりワープする、などというのは、空想科学小説の中のお話にすぎないのです。

そういうことから考えても、宇宙人がUFOに乗って地球に来ている、ということはあり得ません。

では、時々報道されるUFOの目撃例は何なのか、ということになりますが、少なくとも宇宙人の乗り物でないことだけは確かです。あるいは観測用の気球かもしれませんし、あるいは新型の翼を持たない飛行機かもしれないし、あるいは光の反射とか、星を見間違えたのかもしれません。あるいは、どこかの国で秘密裏に開発された乗り物や新兵器かもしれません。

UFOは地球上の乗り物にはあり得ない動きをしている、だから他の天体のものだ、とする説もありますが、アメリカなどでは、国家機密に属する新兵器が開発されており、その中に、我々の知っている飛び方や速度をはるかに超えた飛行物体が開発されているであろうことも、十分に想像できることであります。

以上、縷々るる述べてきましたが、他の天体にも人間と同様の衆生しゅじょうは存在しています。しかし、その異星人がUFOに乗って地球をおとずれる、ということは、仏法上から考えても、また科学的見地から考えても、とうていありえない、というべきであります。

UFOについて勉強するなら下記の本がおすすめ