日蓮正宗のススメ

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1205夜:ウクライナの悲劇は他人事か?

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キーウ州で1222人の遺体が発見された

立正安国論 御書二四九頁一四行目)
仁王経に云はく「人(ひと)仏教を壊(やぶ)らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、疾疫(しつえき)悪鬼日(ひび)に来たりて侵害し、災怪首尾(さいけしゅび)し、連禍縦横(れんかじゅうおう)し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴(ひょうぬ)の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。

(通解)

仁王経には、こう説かれている。

「人が、仏法の教えを破るならば、孝行な子は持てず、父・母・兄・弟・妻・子は不仲で、天神も守らず、疾疫・悪鬼が次々と襲いかかって、災怪首尾(種々の災難や凶事が絶え間なく起こり)し、連禍縦横(禍いが、次々と種々の形で頻発)し、死んでからは地獄・餓鬼・畜生に堕ちるであろう。もし、その悪道から出て、再び人間界に生まれたならば、兵士として隷属させられるという果報を受けるであろう。音に響きの伴うように、身に影が添うように、また夜間に字を書いた場合に、灯りが消えると字は見えなくなるが、見えなくとも字は存するように、この世の中の果報というものも、現世での業因が、死後にまで継続し、厳然と受けていかねばならないのである。」と。

大聖人様の御生誕は、西暦1222年です。
末法の御本仏様が御生誕から、満800年の砌に1222人の虐殺遺体が発見されました。
偶然でしょうか?
隠喩(メタファー)を感じるのは私だけでしょうか?
この人々は、兵士ではありません。
一般市民です。
拷問され、レイプされ、蹂躙されつくして亡くなっていったのです。

ウクライナソ連から独立後は、保有していた核兵器も放棄し、平和な農業国家になっていました。
それが、いきなり攻め込まれたあげくに、一方的に殺されまくったのです。
仏法を知らなければ、世界は不条理としか言いようがありません。

大聖人様の教えは峻厳です。
プーチンやロシア兵を非難しません。
殺された側の謗法罪障を説いているのです。
受け入れることは可能ですか?

とても受け入れることが出来ない、と思うのであれば信心を誤解しているのでしょう。

宗祖日蓮大聖人は『妙一尼御前御返事』に、「信心と申すは別にはこれなく候。妻のをとこ(夫)をおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり。」(御書1467)と仰せであります。
信心と申すは、特別なことではなく、ごく自然で普通のことであり、それは丁度、奥さんがご主人をおしむように頼りにし、男の人が奥さんに命を惜しまないように大事にし、また親の子供を捨てることが無いように大切に守り、子供がお母さんから離れないように確りとついて行き、御本尊であるところの法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信心を入れ奉り、南無妙法蓮華経と唱へたてまつることを信心といいますと、大聖人が私達に教えておられます。
信心は特に改まることなく自然なことであります。しかし、日蓮正宗の信心と他の宗教、特にカルト教団と混同されると、自然なことではないように思われる場合が時としてあります。
先の御書の次下には、「しかのみならず『正直捨方便、不受余経一偈』の経文を、女のかゞみ(鏡)をすてざるが如く、男の刀をさすが如く、すこしもす(捨)つる心なく案じ給ふべく候。」(御書1467)と仰せであり、女性が身だしなみを整えるための鏡を大切にするように、男性が刀を肌身離さず身に帯するように、少しでも捨てるようなことがあってはならないと教えられております。
また、御法門的には、法華経以外の四十余年未顕真実と言われる方便の教えは、素直に捨てるようにと、法華経以外の余計な御経は一偈たりとも受け持つことは絶対にしてはならないと教えられています。まさしく謗法厳誡です。他の教えをやってはいけない理由として、釈尊法華経の方便品に説かれた「正直捨方便」(法華経124)と、譬喩品に説かれる「不受余経一偈」(法華経183)といわれる経文で、法華経の精神です。
しかし、多くの人々が当宗の信心をしていない世の中では、日本に仏教が伝来してからの像法時代、奈良平安時代からの仏教が根強く日本の国土に浸透しているため、また江戸時代の檀家制度が影響して、「正直捨方便、不受余経一偈」の経文を大事にして、信じる人が少ない現実があります。
日蓮正宗の御本尊の右下には、必ず「仏滅度後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり」と認められ、インドの釈尊が滅度された後、二千二百三十余年の間、一閻浮提の内には、今まで一度も存在せず、きわめて珍しい大曼荼羅であることが証明されています。
仏滅度後二千二百三十余年未曾有の大曼荼羅は、本門戒壇の大御本尊御出現のことであり、二千二百三十余年間、地球上に一度たりとも出現されたことのない究極の御本尊ですから、二千二百三十余年間、隠し持たれてきた秘法であるために、世の中の人は全く知らないのも不思議ではありません。むしろ全く知らないことは、至極であり自然なことでしょう。そのために、他宗派では様々な憶測が成され、さらに戒壇の大御本尊に対する疑難や偽作説等、その理論が正当化されている現実があり、まことしやかに信じられている悲しい姿があります。

また見方を変えれば、大曼荼羅である大御本尊が未曽有のため、人々は全く知らず馴染みがありませんから、信じることが難しいとも言えます。まさに難信難解の理由がここにあるでしょう。さらに、機根の特徴としても本已有善と異なり、善無き衆生と言われる釈尊の仏法に全く因縁のない本未有善であるため信じられない人が多いということであります。大曼荼羅に馴染みが全くないために、像法時代から流布されている奈良平安時代からの仏教が現在も重んじられる現実があります。それは奈良や京都の町並みや日本の仏教文化を見れば馴染みが全くないことが一目瞭然です。

その世相は、御本仏様の立場から御覧になった場合『新池御書』に、「此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味にう(飢)へて社(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入りか(替)はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)と成りぬ。国の費(つい)え民の歎きにて、いらか(甍)を並べたる計りなり。是(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。」(御書1458)と仰せであります。

まさに大聖人は『聖愚問答抄』に、「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。」(御書403)と御示しであり、なぜ折伏が必要であるかの理由を御教示であります。
この「信心と申すは」との教えは、大聖人が対告衆である妙一尼に与えておられ、大聖人が日頃から妙一尼の性格や信心に対する姿勢などを御覧になっての御書と拝します。
そのため、御書を拝する人、それぞれの境界、心の立ち位置によって、また妙一尼と異なる性格や物事への価値観、生活空間が違う場合は『妙一尼御前御返事』を拝しても状況が異なるために、同じように感じられない場合もあります。まさにそれは、先ほどの未曽有の大曼荼羅に全く馴染みのない本未有善の人であるために理解できないということになります。
その原因は、末法特有の釈尊には全く縁のない荒凡夫である本未有善という独特な機根、五濁悪世という環境下、そして闘諍言訟といわれる争いや訴訟(裁判等)が起きやすい世の中が多大な影響をもたらしています。
それは末法時代であるために大聖人が『聖愚問答抄』に、「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで」(御書403)と、理由を単刀直入に仰せであります。
大聖人が仰る濁世の影響により、心に僻みや歪みがあり、四悪趣の地獄・餓鬼・畜生・修羅の境界から、奥さんがご主人をおしまなくなり、夫が奥さんに自分の命を惜しむようになり、また親の子供を捨てることが平然とできるような、子供がお母さんから離れるような事が起きても違和感のない、末法五濁悪世の煽りを受けた本未有善特有の考えが根底にあるため、正しく御書を拝することができない人もいるわけです。それは末法時代特有の五つの濁りである五濁が影響しています。
この五濁は、劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁の五つをいいますが、劫濁は、戦争・疫病・飢饉などが起こり、世の中が乱れるという、時代そのものの国土世間の濁り、特に末法では顕著となります。煩悩濁は、貪・瞋・癡・慢・疑などの煩悩による心身の濁り、六根清浄から遠ざける働きをなす煩悩で、五陰世間の濁り。衆生濁は、煩悩におかされた人間の集まり、すなわち社会全体の濁り、衆生世間の濁り。見濁は、身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見などによる思想的な迷い、命濁は、心身ともに衆生の生命そのものが濁り弱まることや寿命の短減をいいます。以上の五濁が、三障四魔を競い起こす原因ともなります。
さらに、その五つの濁りの影響から、御本尊であり、御本尊に認められている法華経を説かれた釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信心を入れ奉ることができず、南無妙法蓮華経と唱へたてまつることもできないという法則が成り立つわけです。本未有善の特徴でもあります。
本来、正直な信心である「正直捨方便、不受余経一偈」を心肝に染めて歩んでいる場合は、大聖人が仰せのように理解していきますが、しかし、世の中の多くの人は、順縁ではないために、逆縁の機根が非常に強いため、正直な信心を歩むことができない人が多いのが現実で、世界と日本の人口割合からしても一目瞭然であり、依正不二の原理が如実に五濁が三世間を覆う現実があります。その原因も末法時代の五濁が起因しています。
この末法時代、五濁の様相は、日本の歴史を振り返れば一目瞭然です。

私達が生きている現代と異なる闘諍言訟の荒波が吹き荒れる時代が日本の歴史でした。まさに末法特有の五濁は、過去の歴史から消すことができずに刻まれています。
その世情は三世の上からの果報として大聖人が『立正安国論』に、「若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。」(御書249)と仰せのように、仁王経に説かれる「兵奴の果報」が現実に日本の歴史にはあります。
いずれも日本における時の有力者・権力者が正法を信じないための果報や罪障として、兵奴の果報が現実に過去の歴史には存在し、末法の様相、五濁悪世とは何か、闘諍言訟の様子を過去の歴史から、具体的にどのようなことなのかを知ることができます。と同時に、正法を信仰できない人々の姿を慈悲の上から感じて、その罪障と罪科を知り、折伏がどうして必要なのかを法華講衆は、過去の歴史から学ぶことが必要でしょう。

さらに大聖人は「信心と申すは」について『新池御書』にも、「信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へ」(御書1460)とも仰せであり、信心とは少しも私の心、我見を挿むことなく、経文に説かれる如くに、経文からかけ離れた人の言葉を信用せず、法華経の文の底に秘し沈められた究極の御本尊に背く事がなければ、絶対的幸福境界の仏になることができます。成仏することは特別なことをするのではなく、題目である南無妙法蓮華経を他事なく、余事・余行を交えずに、ひたすら一生にわたり唱えていくことです。と大聖人がお教え下さっています。

以上のように大聖人が「信心と申すは」との、信心の基本について御指南であります。信心とは、自分の気が向いた時にだけするのではなく、一生涯にわたり毎日食事を取るように、毎日コツコツと大事な御本尊へ南無妙法蓮華経を唱えていくことであります。

立正安国論は逆さに読んではいけません。

孫子の兵法でも、マキャベリズムでもありません。

辛い状況でも信心を貫きなさいとの仰せであります。
人は手練手管や、権謀術数のほうが現状の打開に近いと感じます。
日本でも核武装論や、敵基地攻撃能力保有論が喧伝されはじめました。

夫運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従もしたがはず。所詮運ものこり、果報もひかゆる故なり。ことに法華経の行者をば諸天善神守護すべきよし、嘱累品にして誓状をたて給ひ、一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見えて守護し給ふは日月天なり。争でか信をとらざるべき。ことにことに日天の前に摩利支天まします。日天、法華経の行者を守護し給はんに、所従の摩利支天尊すて給ふべしや。序品の時「名月天子普光天子、宝光天子、四大天王、与其眷属万天子倶」と列座し給ふ。まりし天は万天子の内なるべし。もし内になくば地獄にこそおはしまさんずれ。今度の大事は此の天のまぼりに非ずや。彼の天は剣形を貴辺にあたへ、此へ下りぬ。此の日蓮は首題の五字を汝にさづく。法華経受持のものを守護せん事疑ひあるべからず。まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給ふ。「臨兵闘者皆陳列在前」の文も法華経より出でたり。「若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法」とは是なり。これにつけてもいよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて、諸天守護なしとうらむる事あるべからず。将門はつはものゝ名をとり、兵法の大事をきはめたり。されども王命にはまけぬ。はんくわひ・ちゃうりゃうもよしなし。ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給ふべし。すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし。四条金吾殿御返事1407㌻)

有名な御書ですが、仏法の真髄が説かれております。

私たち日本はいずれ、中国・ロシア・朝鮮から責められる憂き目に遭うでしょう。

しかし、大御本尊様への信順意外に、何らかの方法などないのです。
大日本帝国ですら滅亡しました。

同じ轍を踏んだとしても、やはり信心しか存在しないのです。

古来より善論・正論は迂遠の道として疎んじられてきました。
それこそが人類の宿業なのです。