1201夜:仏道修行に向き不向きはあるだろうか?
仏道修行に向き不向きはあるだろうか?
【質問】
この信心をしていく上で、人によって向き不向きということがあるのではないでしょうか。自分の場合、信心に向いていないような気がするのですが…?
【回答】
一往、ある意味では、向き不向きということはあるといえます。たとえば、入信してすぐにスラスラとお経が読める人もいれば、なかなかそうはいかず、毎日、勤行するのに二時間以上かかってしまう、という人もいます。あるいは、最初から比較的真面目に信心できる人もいれば、すぐに疑いを懐いたり、いつまで経っても怠けてばかりいる人もいます。
こうした違いは、言い方によっては、向き不向きがあるということだと思いますが、では、このような違いは何によってできたのでしょうか。
それは、人それぞれ、過去世で作った罪障や、今世で邪宗教に関わって受けた害毒に違いがありますので、いざ正法を信仰しようとする時に、それが強い障りとなる人もあれば、それほどでもない人もある等、違いが出てくるのです。
中には、御本尊様を拝んでいる時にどうしても念仏が出てきてしまうとか、眠ると、御本尊を御不敬する夢ばかり見てしまう、という人もいます。これは、かなり邪宗謗法の害毒が染まっている人、といえるでしょうね。
そういうわけで、一往は、あなたの言うように、人によって向き不向きがある、といえますが、しかし、大聖人は、
「末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。(中略)人是を用ひず、機に叶はずと云へども、強ひて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり」(御書一三一五頁)
と仰せられ、たとえ、その人には向かないという場合であっても、とにかく、全ての人にこの仏法を持たせなくてはならない、その理由は、末法においては、この御本尊を受持する以外に幸せになる道はないからである、と仰せられています。
この仰せからすると、一往、向き不向きはあったとしても、再往、それを乗り越えてでも、正法の信心をしていかなくてはならない、ということです。
なかなか素直に信心ができない、すぐに疑いの心が起きてくる、すぐに怠けたくなる…等々といった傾向が自分にあるということは、自分が、それだけ謗法の罪障が深く、邪宗の害毒が濃い、ということなのですから、その傾向のままに信心から遠ざかっていってはなりません。そのようなことでは、不幸の原因を消して幸せになっていくことは、絶対にできないからです。
今日のこの会合にも、イヤイヤ連れて来られたという、不向きな人がいるかもしれません(笑い)。
しかし、それでも信心に励んでいくならば、やがて、その功徳で、自分の中の罪障や害毒は必ず消えていき、不向きではなくなりますので、ぜひ、そこまで頑張ってください。
また、そのために、こうした会合も設けられているのですから、お互いに励まし合い支え合って、信心を続けていただきたいと思います。
この信心をしていく上で、人によって向き不向きということがあるのではないでしょうか。自分の場合、信心に向いていないような気がするのですが…?
【回答】
一往、ある意味では、向き不向きということはあるといえます。たとえば、入信してすぐにスラスラとお経が読める人もいれば、なかなかそうはいかず、毎日、勤行するのに二時間以上かかってしまう、という人もいます。あるいは、最初から比較的真面目に信心できる人もいれば、すぐに疑いを懐いたり、いつまで経っても怠けてばかりいる人もいます。
こうした違いは、言い方によっては、向き不向きがあるということだと思いますが、では、このような違いは何によってできたのでしょうか。
それは、人それぞれ、過去世で作った罪障や、今世で邪宗教に関わって受けた害毒に違いがありますので、いざ正法を信仰しようとする時に、それが強い障りとなる人もあれば、それほどでもない人もある等、違いが出てくるのです。
中には、御本尊様を拝んでいる時にどうしても念仏が出てきてしまうとか、眠ると、御本尊を御不敬する夢ばかり見てしまう、という人もいます。これは、かなり邪宗謗法の害毒が染まっている人、といえるでしょうね。
そういうわけで、一往は、あなたの言うように、人によって向き不向きがある、といえますが、しかし、大聖人は、
「末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。(中略)人是を用ひず、機に叶はずと云へども、強ひて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり」(御書一三一五頁)
と仰せられ、たとえ、その人には向かないという場合であっても、とにかく、全ての人にこの仏法を持たせなくてはならない、その理由は、末法においては、この御本尊を受持する以外に幸せになる道はないからである、と仰せられています。
この仰せからすると、一往、向き不向きはあったとしても、再往、それを乗り越えてでも、正法の信心をしていかなくてはならない、ということです。
なかなか素直に信心ができない、すぐに疑いの心が起きてくる、すぐに怠けたくなる…等々といった傾向が自分にあるということは、自分が、それだけ謗法の罪障が深く、邪宗の害毒が濃い、ということなのですから、その傾向のままに信心から遠ざかっていってはなりません。そのようなことでは、不幸の原因を消して幸せになっていくことは、絶対にできないからです。
今日のこの会合にも、イヤイヤ連れて来られたという、不向きな人がいるかもしれません(笑い)。
しかし、それでも信心に励んでいくならば、やがて、その功徳で、自分の中の罪障や害毒は必ず消えていき、不向きではなくなりますので、ぜひ、そこまで頑張ってください。
また、そのために、こうした会合も設けられているのですから、お互いに励まし合い支え合って、信心を続けていただきたいと思います。