日蓮正宗のススメ

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1198夜:モンテーニュと荘子

モンテーニュ

中世の思想家に、モンテーニュがいる。彼は、合理的で論理的な欧州人に珍しく、老荘思想に近い考え方の持ち主だった。「自然の前に、人間は無力である」「できることだけすればよい。できないことはしないがいい」「運命に身を任せ、抗うことはやめよう」
「父親の精子、あんな、目にも見えない小さなものに、生命が、人間が、性格の素材が入っているのは、奇跡だと思う」などと言う。
 荘子の唱えた「無為自然」を体現して生きた人といえる。モンテーニュは、自分の「ぶん」を知り、自分のできることだけを、した人だった。自分以上の自分に、なろうとしない人だった。

 心はさまよい、あてどなく彷徨い続けて、どうしようこうしようとするけれども、何もしようとしなくていい。荘子は言う。何もしないがいい。
 何かしようとする心が、二枚舌、虚栄をつくり、名誉や体裁、社会的立場に心を働かせると、ろくなことはない。そんなふうな心の使い方をせず、無為な心のまま、自然の道を楽しむことだよ、とサラリと言う。

混沌からの生成

 そんな「無為自然」は、「万物斉動」(この「万物」は「人生」と言い換えられる)の思想に繋がっていく。もともと、無であった存在、つまり動植物も人間も、もとをたどれば同じ「1」から生まれたのだ。それを「2」に「分ける」ことから、差別が生まれる。「分かる」は、「分ける」から生じる。分けること、それは人間を苦しめる差別を生む。分かる=理解する=知識を持つ、など、しないが良い。
 ある人を、バカと蔑んだり、あいつは賢明だと尊んだり、あの女は美しい、こいつは醜い、これが善だ悪だと分け隔て、他より自分が優れている満足感を得たいがために、優劣をつくる。そんなものは、もともと、無いのだ。相対によって成り立つ正しさなど、すでに真ではない。真実は、比較を含まないものである。
 万物の一斉は、同じところから動き出したものだ。そこに、わざわざ差別をつくるのは、愚かというより、哀れではないか ── この「万物斉動」、いっさいは同じ「1」であるという考えが、「絶対無差別」の考えに繋がるのは必然だった。

 モンテーニュは、「私は何も知らない」と言い、自分の知り得る以上のもの、「私」という「人智」を超えるものにはフタをした。なぜ存在しているかは、考えない。それは究明できない、明らかにならないものである。しかしそれによって万物は動かされている。万物をつくるものが、万物を動かしている。それがこの世のすべての実相であり、だから「何も」私は知らない、と言い得たのだ。
 西洋人なのに、かれは神に、たいした価値を置いていなかった。パスカルは「神を信じない人間の不幸」とモンテーニュを非難したが、その敬虔なキリスト信者たるパスカルの精神は常に渇き、飢えていたように見える。モンテーニュの「わが道を楽しむ」「足るを知る」人生に、及ばなかったと私は思う。

 運命に随順すること、これが、荘子モンテーニュに通じる考え方だ。といって、無気力になるわけではない。運命を受け入れたればこそ、ますます充実していく道があるという。
「どんなに豪華な椅子に座っても、人間は自分の尻の上に座っている」「旅をしても、彼は何も変わらなかった。ムリもない、彼は自分を連れて行ったのだから」(エセー)
 自分という存在は、この自分から逃れることはできない。それを逃れようとするのが、自殺である。
 孔子は、三日考えてやっと旅に出る決心をした者に、「二日でよかったのに」と言った。

 ブッダは、「迷いの中に悟りがある」と言った。真っ暗闇でなければ、燈明は見えない、と。悟ったからって、それが永遠に続くものではない。燈明は、消え、また、つく。
 モンテーニュボルドー市長になった時、「この職に、私は自分を貸しはするが、私自身になることはない」と言った。
 光も闇も、社会的立場も、それを見る自分に一喜一憂しないこと。喜び、憂鬱、そのものに、自分がなる必要はない。
 荘子モンテーニュブッダが同時期に生まれ、近所にいたら、さぞ彼らは親しい友になっただろう。
 ソクラテスも、「魂は、ある。私が死ねば、この魂はまたどこかの世界へ行って、何かの形に入るのではないか。でないと、どうも理屈に合わない」と言っている。
 彼らの考え方には、今は人間として生きているだけで、その生命の根源は、われわれの知らないところにある、という見方がある。


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 真理は、「まことのことわり」だ。そこには、法則がある。ひとりひとりの根源的な生命の流れは、その軌道から外れることはできない。生きて死ぬことは、砂粒にも満たないものであり、これをつくる広大な道、生命、魂が、その道筋をめぐりめぐるにすぎない。
 ならば、せいぜい、この身を運命の造物者、これをつくりし何ものかに委ね、この身を虚無である自然の中に溶け込ませ、虚無であるが故にすべてを受け入れられる器となり、安静な心で生きた方がいいのではないか。
 このような考えが、上記した賢者たちの言葉の土台をつくっているように私には思われる。彼らは言う、「自分を苦しめるものは何もない」「死ぬほどのことは、この世に何一つとして存在しない」「生死に差別はない。何も憂うことはない」…


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