日蓮正宗のススメ

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1190夜:「創価ダメだしブログ」さんに学ぶ、教学の大切さと会通の仕方

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創価や顕正というのはまさにこれ


創価ダメだしブログ」さんは、私がしょっちゅう勉強させていただいているブログです。今回も非常に勉強になりましたので、ご紹介させていただきます。

法体の四力。戒壇大御本尊は四力冥合の体。

戒壇大御本尊を捨て三大秘法開合の法門を否定する創価民にありがちなロジックとして、「謗法の地にである大石寺の大御本尊は信仰の対象にならないから大御本尊には三大秘法が揃っていない。」というような莫迦理論がある。大御本尊は本門の本尊だが、本門の題目と戒壇がないので三大秘法にならないといいたいわけである。言い方を変えれば大御本尊には法力と仏力はあるがそれに信力と行力が加わらないと三大秘法にならないという理屈である。信力とは本門の戒壇で行力とは本門の題目という解釈なのだろう。その解釈自体は間違っていないが彼等の四力論はあくまでも衆生の修行に約した理論であり衆生に主眼を置いた一方通行の片手落ちの浅識である。修行ではなく法体に約して四力を述べれば衆生が信じようと信じまいと戒壇大御本尊は四力全て備わっている四力冥合の体なのである。大御本尊には法力と仏力が備わっているということには創価民も異論はないだろう。法力とはいうまでもなく「妙法の力」である。創価風に分かりやすいうと「宇宙の根源の力」という事になる。では「仏力」を創価風に言うと「仏の根源の力」という事になる。ならばこの「仏の根源の力」とは何かといえば、それこそ「信力」と「行力」なのである。全ての仏が成仏した因は、「信力」と「行力」によるものだからだ。つまり「仏力」とは開会すれば「信力」と「行力」なのである。久遠元初の御本仏の「信力」と「行力」を三大秘法に当てはめれば上述したように、「信力」とは「本門の戒壇」であり、「行力」とは「本門の題目」なのである。

◆天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」(四条金吾殿御返事)

このように法体である戒壇大御本尊はすでに四力冥合の体であり、三大秘法総在の体なのである。それは信者がいようといまいと関係ないのである。衆生の「信力」「行力」が無くても法体の四力は戒壇大御本尊に厳然と備わって三大秘法がひとつも欠けることなく備わっているのである。であるから創価民の言うように自分自身(衆生側)の「信力」「行力」がなければ三大秘法義が成立しないなどというのは修行と法体の区別もできない一知半解の謗法者の言なのである。そしてこのような「衆生が主・仏が迹」とする「生主仏迹」思考こそが池田創価教学の根本的な誤りなのである。確かに仏法は衆生を成仏せしめんが為に説かれているがだからといって衆生が勝手に仏法を解釈していいとはならない。衆生を主にしてしまったらそれこそ衆生は成仏できなくなってしまうではないか。いずれにしても一部創価民の主張する三大秘法隔歴論法は実に幼稚な邪義であり謗法である。そのような謗法の創価民達の幼稚なロジックに騙されないようにしっかりと教学を研鑽して謗法創価民とそのインチキ教学を破折していきたいと思う。また日蓮大聖人の仏法を信仰したい創価民のみんさんはくれぐれも創価幹部の指導や教学を真に受けないよう御自分で学ぶことを心がけて欲しいと思うのである。創価教学は日蓮大聖人の法門・法義ではない己義・邪見なのだから。

sokadamedasiblog.hatenadiary.com

創価学会顕正会日蓮正宗からは、異流儀団体と呼ばれています。
他門日蓮宗等は門内(宗門の中)に入ったことがありませんので、他門と呼んでいますが広く解釈すれば異流儀です。京都要法寺(かつて大石寺とも交流があり、猊下様を輩出した古刹)や保田妙本寺など、傍系と呼ばれる異流儀も存在しています。北山本門寺など、日興上人様の開いた学問所(重須談所)でしたが、今は身延日蓮宗になってしまっています。

なんでこんなことになるのでしょうか?

それは全て根源が理解できていないからなのです。
根源とは何か?
それは戒壇の大御本尊様が、人法体一の一大秘法であるということです。
日蓮正宗に来てみればわかることなんですが、「無疑曰信(むぎわっしん)」の信徒さんが大勢存在します。
「無疑曰信」は「疑(うたがい)無きを信と曰(い)う」と読みます。心に疑いのない清浄な一念心を「信」といいます。

宿縁の深い信徒さんたちは、一切ブレません。菩薩の境界に居られるのです。
懸命に五座三座の勤行・唱題行・折伏行・登山に励んでおられます。
私のような縁覚界のお粗末な信心とは、桁違い・段違いです。
マネできないですね。

創価2世~顕正会法華講と流れ着いた私は、教学をよりどころに信仰世界にしがみついている状態なのです。
お読みに来てくださっている方々も、少しは私のような気持ちを御理解くださる方々なのではないでしょうか。

今日のテーマは「三大秘法開合の法門」です。
モトケン軍団にはビビビっときますよね。
私も事の戒壇と義の戒壇の立て分けには、長いこと宙をさまよいました。
「約す」という考え。
これを知ることがなかなかできませんでした。
戒壇の事義は、「法体」に約す解釈と「事相」に約す解釈があります。
四力も「法体」に約す解釈と「修行」に約す解釈があるのですね。

共通項たる「法体」とは、本尊のことです。
根源の本尊は戒壇の大御本尊様ですよというのが、日蓮正宗の根本教義です。
むしろ本尊=根源なんですよ。
しかも人法体一ですから、大聖人様の御身体でもあるわけです。

ですから、大石寺から離れてしまっては、根無し草になって枯れてしまうのです。
信心の血脈は、猊下様の丑寅勤行によって、その袈裟衣の裾から流れ通ってくるのです。
御僧侶の御数珠には房がありません。
積んだ功徳を流通させるという意味があるのです。

いくら日蓮正宗から下付された、御歴代書写の御本尊様を異流儀団体が信行しても、謗法になってしまうというのはこういう原理があるのです。

創価学会は法論をしようなどと言って来ますが、自分たちが表向きの言論戦で負けないための質問を用意しています。
大聖人様の御書で示せ!
そればっかりです。
身延のやり口をマネして、身延学会になってしまいました。
相伝書はギショギショと揶揄します。

罰当たりな団体なのです。
顕正会は逆に六巻抄や三大秘法抄の切り文と、御歴代の言質を言って来ます。
国立戒壇放棄のいきさつや、正本堂建立時の意義付けの際に起きたいざこざ。
たしかに創価公明党への忖度に問題はあったでしょうが、日蓮正宗から解散処分を受けたり、除名処分になったら御終いだってのがわからない。
しかも、決定打は教義解釈じゃなく、デモ行進や創価本部への襲撃という不始末。
お話になりません。
日蓮正宗の昭和~平成にかけてのゴタゴタに、宗門側の落ち度や未熟さのようなものがあったにしても、唾棄していいようなものではないのです。

ま、創価民も顕正民も現罰が出てるのですが、頭破作七分・心破作七分で罰を罰とも感じ取れなくなっています。

信心をしているのにおかしいな?
病気ばっかりに悩んでいる。
学校や職場で浮いているかも?
ペットが変な死に方をした。
家族の死相がどう見ても悪かった。
少しでも疑問に思う方はご相談ください。
メールアドレス:porigin@yahoo.co.jp

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日蓮正宗の教義を真剣に勉強してみたいという人には、日蓮正宗要義 改訂版がオススメです。難しいけど、現代語で読める最良の教学書です。何度も繰り返し読むことで、分かってくることが増えていきます。

さらに信心を不動のものにするには、日寛上人様の六巻抄です。