日蓮正宗のススメ

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1164夜:瞑想で心の平安を得られないのはなぜか?

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マインドフルネス瞑想が流行していますが

ストレスの多い現代社会、皆さん、お元気ですか?
ジョギングにウォーキングや筋トレ、瞑想などで気持ちをリフレッシュする習慣が定着しているようです。
最近、ブームになっているのがマインドフルネス瞑想。
下の動画を参考にしてみてください。

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雑念ばかりが湧いてきたことだと思います。私も1日300回のスクワットをしています。確かに気持ちがスッキリしますが、その時だけですね。運動は身体の為にはいいですが。
末法である現代においては、瞑想をしたところで悟ることも、心の平安を得ることもできません。
むしろ、禅病と呼ばれる精神疾患を引き起こす危険性があるのです。
野狐禅といって、正しい師匠、正しい修行法を知らずに独覚を目指すことは、謗法であることから、堕獄の因になってしまうことにもなりかねません。

仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。舎利弗尊者は金師に不浄観を教へ、浣衣の者には数息観を教ふる間、九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして、還って邪見を起こし一闡提と成り畢んぬ。仏は金師に数息観を教へ、浣衣の者に不浄観を教へたまふ。故に須臾の間に覚ることを得たり。智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず。何に況んや末代の凡師機を知り難し。但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教ふべし。(教機時国抄270㌻)

不浄観・数息観とは、瞑想のやり方です。
相手の能力にミスマッチな瞑想法を教えてしまい、弟子を無間地獄に堕としそうになった、舎利弗尊者の失敗談が上記の御書です。そもそも、仏道修行は戒定恵の三学が整っていなければ、何の意味もありません。
座禅を組んで、瞑想修行しても禅定修行になっていないのです。

江戸時代前期に登場した白隠禅師は、大石寺第二十六代日寛上人様に、頓智問答*1で負けたことが有名ですが、その白隠禅師がまだ若い頃、「禅病」に罹って、いたく難渋したそうです。

著作の『夜船閑話』に、罹患した原因から始まって、症状や、治療の過程が、かなり詳しく書かれています。まず、原因です。以下に、当該する箇所の原文と私の現代語訳を引用します。なお、原文に使われている漢字は新字体に改めています。

原文】
山野(さんや)初め参学の日、誓つて、勇猛の信々(しんじん)を憤発し、不退の道情(どうじょう)を激起(げきき)し、精錬(せいれん)刻苦する者既に両三霜、乍(たちま)ち一夜忽然(こつぜん)として落節(らくせつ)す、従前多少の疑惑、根(こん)に和して氷融し、曠劫(こうごう)生死(しょうじ)の業根(ごうこん)、底(てい)に徹して漚滅(おうめつ)す。自(みづか)ら謂(おも)へらく、道(みち)人を去る事寔(まこと)に遠からず、古人二三十年、是(こ)れ何の捏怪(ねっかい)ぞと、怡悦(いえつ)蹈舞(とうぶ)を忘るる者数月。向後(きょうご)日用を廻顧(かいこ)するに、動静(どうじょう)の二境全く調和せず、去就(きょしゅう)の両辺總(りょうそう)に脱洒(だっしゃ)ならず。自(みづか)ら謂(おも)へらく、猛(たけ)く精彩を著(つ)け、重ねて一回捨命(しゃみょう)し去らむと、越(ここにおい)て牙関(げかん)を咬定(こうじょう)し、双眼(そうがん)晴(せい)を瞠開(どうかい)し、寢食ともに廃せんとす。

【訳】
禅の修行を始めるにあたり、こう誓った。

「悟りを求めるために、勇猛心を発憤し、絶対に退かない」

かくて、ひたすら修行に精勤し刻苦勉励すること足かけ三年にして、一夜、悟りの境地に至った。これまで抱いていたいくつもの疑惑はその根底から氷解し、輪廻転生の初めからつきまとっていた業もまた完全に消え去った。

そして、こう思った。「究極の悟りの境地も、もうすぐだ。昔から何十年もかかるといわれてきたが、自分の場合はそうではなさそうだ」。嬉しくて嬉しくて、文字どおり狂喜乱舞の状態だった。

ところが、数カ月して、冷静に自分の状態をかえりみると、坐禅の動と静とがまったく合っていないことに気付いた。両極を行きつ戻りつするばかりで、そこからどうしても抜け出せない。

そこで、こう思った。「なおいっそうの精進が必要だ。命がけで修行しなければならない」というので、歯を食いしばり、両眼をカッと見開き、寝ない、食べないで、頑張った。

発病すると、こうなってしまった。

【原文】
既にして、未(いま)だ期月(きげつ)に亘(わた)らざるに、心火(しんか)逆上し、肺金(はいきん)焦枯(しょうこ)して、双脚(そうきゃく)氷雪の底(そこ)に浸すが如く、両耳(りょうじ)溪声(けいせい)の間(あいだ)を行くが如し。肝膽(かんたん)常に怯弱(きょじゃく)にして、挙措(きょそ)恐怖多く、心身困倦(こんけん)し、寐寤(びご)種々の境界を見る。両腋(りょうえき)常に汗を生じ、両眼常に涙を帯ぶ。

【訳】
一カ月もしないうちに、心臓はどきどきしっぱなし、呼吸が苦しくなり、下半身は氷に使っているように冷え、谷の激しい流れのすぐそばにいるみたいな轟音が耳に響きっぱなしになり、内臓は不調になり、なにかにつけてひどく不安や恐怖にとらわれ、心も体も疲労困憊し、寝ようとすれば悪い夢ばかり見る。両脇はいつも汗をかきっぱなし、両眼はつねに涙で濡れている。

これが、白隠が罹った「禅病」の症状である。

その正体については諸説あるが、白隠抑うつ状態、それもかなり重篤な状態になってしまったことは確かなようです。そして、禅の厳しい修行が心身に尋常ならざる緊張状態を長期間にわたってもたらした結果だということも。

日寛上人様は御書文段に収録されている、法華取要抄文段で本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法の整足こそが肝要であることを説明されています。

本尊と戒壇を緻密に解説された後、修行実践法たる本門の題目について、以下のように述懐されるのです。日寛上人御書文段545㌻

第六  本門の題目を明かす

 

 れ本門の題目とは即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊ようけいただ此の事に在り。あに池に臨んで魚をあえて網を結ばず、かてつつみて足をつかね、安座して行かざるべけんや。故によろしく妙行を励むべき者なり。

当に知るべし、行に始終有り。いわく、信心は是れ唱題の始めなり。唱題は是れ信心の終りなり。是れ則ち刹那せつなの始終、一念の因果なり。妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。亦云く「一念信解とは即ちれ本門立行のはじめ」等云云。を以て之を言わば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光におもむくなり。天台云く「智目ちもくぎょうそくをもって清涼しょうりょういたる」等云云。

当体義抄に云く「当体蓮華を証得してじょう寂光じゃっこうの当体のみょうを顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。
 此の一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心にみ、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、しきしん何ぞ別ならんや。十界
・百界千如せんにょ・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。

当流深秘の血脈抄に云く「しゅうとは所作しょさ究竟くきょうなり、受持本因の所作にってしょうに本果の究竟を得」等云云。
 甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞただ唱題のみならんや。若し他流のやからは口に妙法を唱うと雖もただ是れ宝山の空手なり。是れ即ち本門の本尊を信ぜざるが故なり。
 法蓮抄に云く「信くして此の経を行ぜんは手くして宝山に入り、足なくして千
里の道をくわだつるが如し」等云云。いかに況んや本迹一致のだい僻見びゃっけん、蓮師違背の大罪をや。何ぞ無間むけんまぬかれん。悲しむべし、悲しむべし。

何度読んでも感動的な名文です。

宗教の宗とは、所作の究極形態なのです。戒壇の大御本尊様を信受し、その前に座って合掌し、南無妙法蓮華経と唱えることが、仏の出世の本懐たる振舞なのです。
瞑想にあるのは、志や願いだけ。
いくら呼吸を整えても、仏界は出てこず、智慧も湧いてはこないのです。

 

 

*1:白隠禅師は「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と称されるほどの有名人。何かの会合でお昼を一緒に食べることになった、日寛上人様は世間の誉れ高い白隠禅師に頓智問答を仕掛けたそうな。頓智問答は白隠の宗派、臨済宗の禅問答のこと。会食の弁当箱を開ける前に、その中身を言い当てることが出来るかどうか?と尋ねてみたのが日寛上人様。白隠禅師は窮して沈黙。「ならば、貴殿には分かるのか?」と反詰したところ、日寛上人様は、微笑みながら、カパッと弁当箱の蓋を開け、「ほら、この通りぢゃ」と。日寛上人様の一本勝ち。