日蓮正宗のススメ

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1136夜:付け願い再び、今日のお供え物

 

nichirendaihonin.hatenablog.com

ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へ(得)て仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つき(著)て候衣を法華経にまいらせ候が身のかわをわ(は)ぐにて候ぞ。うへたるよに・これはなしては・けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。[白米一俵御書]

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[白米一俵御書ご真筆:富士大石寺所蔵]

過去記事で確認しましたら、前回の付け願いから早いもので1年になるのですね。
コロナウイルス感染症対策による、緊急事態宣言は解除になりましたが、まだまだ油断はできません。家族全員で付け願いの御供養をお願いいたしました。
私自身もファイザー製ワクチンを、9/1に第二回目接種完了しておりますが、冬の流行期のことを考えると、少し早かったかなって思います。
やたらと政府や製薬会社に手厳しい人がいますが、僕はよくやってくれているなと思っています。
飲み薬も開発されつつあるとか。
現代科学の成果を喜びたいと思います。

御心ざしの候へば申し候ぞ。よくふかき御房とおぼしめす事なかれ。
仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおもけれども油をぬりてまわり、ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに水をあたへ、寒氷にこゞへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせにあふがごとし。(上野殿御返事1529㌻)

話は御供養の精神について。
御供養は功徳が大きいんです。
でも、大聖人様でさえ、欲が深いと誤解されることを憚られ、信心の志がある人にだけ教えられたようです。
信心の志ってのは、何時間唱題しましたとか、何人折伏しましたとか、創価や顕正の成果自慢のことではないんですよ。

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行きつけの和菓子店で購入してきました

「凡夫は志ざしと申す文字を心へ(得)て仏になり候なり。」なんですよ。
志ざしってなんでしょうか?
観心の法門なり、ですよ。
観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ね。
身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、なんですよ。
大げさな話じゃないんです。
人さまからの頂き物を、御宝前にお供えしてもいいです。
でもね、ほんの真心なんですよ。
出かけた先で、家の御本尊様のために御饅頭を買ってくる。
お供えしたお菓子を、家族で御相伴にあずかる。
おいしいねって笑顔になる。
自分の人生の一部になっているんですよ。
仏様がね。
飾りじゃない。
ハッタリでもないのよ。
かりんと饅頭なんて、揚げたてでアツアツだったもの。
最高にうまかった。
なんの話だっけ?
あ、付け願いね。
喜んで御供養してください。
こんな御時世ですもの。
添書登山する人にお願いすればいい。
功徳は志で積むものです。

白米一俵御書(御書 1544頁)
(別名『事理供養御書』

 

 一、御述作の由来

 本抄は弘安三(一二八〇)年、日蓮大聖人様が五十九歳の御時にしたためられた御書です。御真蹟は総本山大石寺に厳護されていますが、残念なことに最後の部分が欠損しており、対告衆が誰であるかは判っていません。また、「よう」と「よう」の二義について述べられていることから、『事理供養御書』とも呼ばれています。
 文永十一(一二七四)年三月、幕府よりのしゃめんじょう佐渡に届くと大聖人様は、二年半ぶりに鎌倉かまくらへ戻られました。そして四月八日、大聖人様は幕府の館においてへいのもんのじょうよりつなと対面し、第三のこくしゅかんぎょうを行われました。
 しかしこの時、幕府の役人らは、大聖人様のほうぼうしゃくの御言葉に耳を傾けようとはせず、領地や堂宇の寄進をえさに、ひたすら大聖人様を懐柔かいじゅうしようとしたのです。
 これに対して大聖人様は、
謗法ほうぼうの供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり」(御書一八四七頁)
との精神から頼綱らの申し出を断り、ただ正法を受持すべきことを説かれました。
 その後大聖人様は、
「本よりせし事なれば、三度国をいさめんにもちゐずば国をるべしと。されば同五月十二日にかまくらをいでて此の山に入る」(同一〇六九頁)
とのおおせのように、日興上人深縁の地であるのぶさんに入られ、一期いちごの御化導の大成と未来の人材育成に心血を注がれるようになりました。
 身延入山を聞きつけると、各地の檀越だんのつからは食糧や金員、衣類等の御供養が届けられました。しかし当時は、国中の民衆がえに苦しんでいた時代です。まして人里離れた身延の山中で多くの弟子を養われていた大聖人様は、
蘇武そぶが如く雪を食として命を継ぎ、りょうが如くみのをきて世をすごす」(同九〇四頁)
と仰せられるように、飢えや寒さと闘いながら、想像を絶するご苦労を重ねられていました。
 そうした中、某氏より白米一俵と毛芋けいもかわが届けられたのです。これらの品々によって大聖人一門は命をつなぎ、正法の法灯を守り続けていくことができるのです。よって大聖人様は、真心が込められた御供養には、仏の命を養うに等しい大功徳が存することを、本抄において示されています。

 二、 本抄の大意

 はじめに、身にまとう衣と食物は、魚にとっての水、草木にとっての大地と等しく、人間が生きていくために必要不可欠な財であることを示されます。そして、その理由は衣や食物があってこそ、無上の財である生命を養い育むことができるからであると御教示されています。
 次に、神仏を敬うときには、名の前に「南無」の文字を付することが慣例となっているが、「南無」とはインドの言葉であって、「みょう」すなわち命をささげることを意味する。それゆえいにしえの賢人・聖人は皆、無上の宝である命を仏に奉って仏道修行を成就したことを示され、具体的な例としてせっせんどうやくおうさつ聖徳太子天智天皇といった過去の仏法上の聖者の故事を挙げられています。
 ところがこれに対して、
「此等は賢人聖人の事なれば我等は叶ひがたき事にて候」
と示され、末代凡夫にとって命を捧げる修行は実行し難い旨を説かれています。
 よって、それに代わるものとして、
「凡夫はこころざしと申す文字を心へて仏になり候なり」
と、こころざしを持つことの大切さを教えられています。この志とは「観心かんじんの法門」を実践することであり、具体的には自身の生活や命を養うためになくてはならない衣服や食物を、仏に供養することであると示されています。そして、過去の賢聖と末法の凡夫の供養には、「事供養」と「理供養」との違いが存するものの、共にその功徳は等しいとされているのです。
 続いて、こんこうみょう経とはん経を引用し、世法上の事象と仏道は密接な関係にあること、つまり世法即仏法の義を明かされます。ところが、ぜん経に説かれる世法即仏法の義は、世法と仏法をそれぞれ別個のものとしてとらえており、畢竟ひっきょう、仏の真意にかなうものではないとされています。
 そこで真の世法即仏法の義は、法華経
「一切世間の治生産業は皆実相とあいはいせず」
との文言、あるいはみょうらくだいの言葉を引用されて、
法華経しからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」
と説かれ、あくまでも法華経の深義によって一切諸法の真実相を照らしてこそ、万物の心法・色法ともに即法華経一念三千の当体と知ることができる旨を述べられます。
 よって、その法華経の御本尊に御供養してこそ、志を持った人の命そのものを仏に捧げることと同義となるのであって、その功徳は計り知れない旨を述べられ、重ねて御供養に対する深謝の言葉をつづられ、本抄を終えられています。

 三、 拝読のポイント

 御供養の精神
 供養とは「きゅうよう」の義で、仏法僧の三宝さんぼう崇敬すうぎょうし、信仰の志を形に表わすことをいいます。仏典には二種供養、三種供養、十種供養、三業さんごう供養など多種多様の供養が説かれていますが、中でも本抄では「事供養」と「理供養」の意義について述べられています。
 
 事 供 養
 「事供養」とは、先に述べたように、過去の聖者が壮絶な覚悟のもと、実際に身を投じて法を求め、仏を供養することをいいます。本宗の歴史で見れば、まつばら(千葉県鴨川市)の法難ほうなんみぎり、大聖人様をお守りするために命を落としたきょうにんぼうどうよしたか、また卑劣ひれつな弾圧に屈せず身命をして題目を唱え続けたあつわらさんれっなど、数々の法難を乗り越えて赤誠の信心を貫いた法華講衆によるしんきょうほうじゅうの振る舞いが、この事供養に当たります。
 
 理 供 養
 一方「信教の自由」が保障される今日、私たちが自身の命を仏に捧げる代わりに、三宝尊に供養することを「理供養」といいます。この理供養は、さらに「法供養」と「財供養」に分けることができます。
 
 法 供 養
 「法供養」とは、仏の所説に従って法をひろめ、人々を教化することです。現代の私たちにあてはめれば、大聖人様の御金言のままに、幾多の障害を乗り越えて折伏に励むことをいいます。また限られた時間をやり繰りして寺院に参詣したり、会合等に参加して仏法の功徳を語り、歓喜の心を多くの人に伝えていくことも法供養になります。
 
 財 供 養
 これに対して「財供養」とは、食物や衣類・香華・資材などを総本山や所属寺院の御本尊にお供えすることをいい、これによって日蓮正宗の正しい法灯が護られ、正法が興隆し、遠い未来にわたって多くの人々が大御本尊の御利益に浴していくことができるのです。
 伊豆や佐渡はいの折には、ふなもりさぶろうぶつぼうたちが身の危険をかえりみず食物などを大聖人様に奉り、献身的に給仕に励みました。また、南条家では、幕府の弾圧によって経済的に逼迫ひっぱくしたなかにあっても、大聖人様への御供養に尽くしました。このほか多くの信徒たちが、末法の御本仏である大聖人様に対して真心の御供養を続け、外護の任を全うしていったのです。
 大聖人様は、
「度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。いよいよはげませ給ふべし、おこたることなかれ」(同一四五七頁)
とされ、仏祖三宝尊の広大な御恩に報いていくためにも、真心の御供義が大事であることを教えられています。
 私たちは、大聖人様の使つかいとして折伏する法供養に精進すると共に、仏祖三宝尊への真心の財供養に励んでいくことが、成仏のための大切な修行となることを忘れてはなりません。