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1075夜:三世諸仏総勘文教相廃立 第2回

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引用元:日蓮正宗久道山開信寺 

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

  • 発売日: 2018/10/13
  • メディア: 単行本
 
日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

第11章 十如是により生仏不二を明かす

法華経に云はく「如是相(一切衆生の相好本覚の応身如来)、如是性(一切衆生の心性本覚の報身如来)、】
法華経に「如是相(一切衆生の相好本覚の応身如来)、如是性(一切衆生の心性本覚の報身如来)、

【如是体(一切衆生の身体本覚の法身如来)」と。此の三如是より後の七如是出生して合して十如是と成るなり。】
如是体(一切衆生の身体本覚の法身如来)とあり、この三如是より、後の七如是が生まれ出て、合わせて十如是と成っており、

【此の十如是は十法界なり。】
この十如是は、いずれも十法界の事です。

【此の十法界は一人の心より出でて八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し。】
この十法界は、一人の心より出て、八万四千の法門と成るのです。一人を手本として、すべての衆生が平等であることを説いているのです。

【三世の諸仏の総勘文〔そうかんもん〕にして御判慥〔たし〕かに印〔おし〕たる正本の文書なり。仏の御判とは実相の一印なり。】
現在、過去、未来のすべての仏の総勘文であって、判が確かに押されている正本の文書なのです。この判とは、実相の一印なのです。

【印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず。】
印とは、判の異名であり、他のすべて経には、実相の印が無いので正本の文書ではないのです。

【全く実の仏無し。実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。】
全く真実の仏の印は押されておらず、真実の仏の印が無いでの夢の中の文書なのです。夢の中が仏が住む浄土では、ないからなのです。

【十法界は十なれども十如是は一なり。譬〔たと〕へば水中の月は無量なりと雖も虚空〔こくう〕の月は一なるが如し。】
十法界は、十であるけれども十如是は一つなのです。たとへば水に映る月は、無数にあっても大空の月は、一つであるようなものなのです。

【九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し。】
九界の十如是は、夢の中の十如是であるので水に映る月のようなものです。仏界の十如是は、本覚の現実の十如是であるので大空の月のようなものです。

【是の故に仏界の一つの十如是顕はれぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も欠減〔けつげん〕無く同時に皆顕はれて、】
この故に仏界の一つの十如是が現れれば、九法界の十如是の水に映る月も、一つも欠けずに同時に、すべてが現れて、

【体〔たい〕と用〔ゆう〕と一具〔いちぐ〕にして一体の仏と成る。】
当体である大空の月の体とその作用で現れる水に映る月の用とが一具にして一緒に現れて、一体の仏と成るのです。

【十法界を互ひに具足して平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も、一人の身中に具足〔ぐそく〕して欠〔か〕くること無し。】
十法界を互ひに具足して平等である十界の衆生であれば、大空のほんとうの月も水に映る架空の月も、一人の身体の中に備わって欠ける事がないのです。

【故に十如是は本末究竟して等しく差別無し。本とは衆生の十如是なり。末とは諸仏の十如是なり。】
それ故に十如是は、本末究竟して等しく差別がないのです。本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是なのです。

【諸仏は衆生の一念の心より顕はれ給へば衆生は是本なり、諸仏は是末なり。】
諸仏は、衆生の一念の心より現れており、衆生が本であり、諸仏は、末なのです。

【然るを経に「今此三界〔こんしさんがい〕皆是我有〔かいぜがう〕・其中衆生〔ごちゅうしゅじょう〕悉是吾子〔しつぜごし〕」(已上)と云ふは、】
ところが法華経譬喩品第三に「今この三界は、これ我が所有するところである。その中の衆生は、ことごとく我が子である」と説かれており、

【仏成道の後に化他の為の故に、迹の成道を唱へて生死の夢中にして本覚の寤〔うつつ〕を説きたまふなり。】
これは、仏が成道した後に化他の為に、垂迹の成道を唱え、生死の夢の中での本覚の現実を説いたのである。

智慧を父に譬〔たと〕へ、愚癡〔ぐち〕を子に譬へて是くの如く説き給へるなり。】
智慧を父にたとえて、愚癡を子供にたとえて、このように説いたのです。

衆生は本覚の十如是なりと雖も、一念の無明〔むみょう〕眠りの如く心を覆〔おお〕ひ、生死の夢に入りて本覚の理を忘る。】
衆生は、本覚の十如是であるけれども、一念の中の無明が睡眠のように心を覆って、生死の夢に入りて本覚の論理を忘れているのです。

【髪筋〔かみすじ〕を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢〔こむ〕を見るなり。】
髪の毛を切る程度のわずかな無明の力で、現在、過去、未来の三世の夢を見ているのです。

【仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入りて衆生を驚〔おどろ〕かし給へる智慧は、夢の中にての父母の如く、】
仏は、現実の世界の人であるから、生死の夢の中に入って、衆生を驚かし目を覚まさせるような智慧があり、その智慧は、夢の中の父母であり、

【夢の中なる我等は子息の如くなり。此の道理を以て悉是吾子〔しつぜごし〕と言〔のたま〕ふなり。】
夢の中の我等は子供と同じなのです。この道理によって、ことごとく、これ我が子なりと言われているのです。

【此の理を思ひ解けば、諸仏と我等とは本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性は本末是同じ。】
この論理を理解すれば、諸仏と我等とは、本でも父子であり、末でも父子なのです。父子の天性は、本末ともに同じなのです。

【斯〔こ〕れに由〔よ〕りて己心〔こしん〕と仏心とは異ならずと観ずるが故に、】
これによって己心と仏心とは、異ならずと観じる故に、

【生死の夢を覚〔さま〕して本覚の寤に還〔かえ〕るを即身成仏と云ふ。】
生死の夢を覚して本覚の現実に還る事を即身成仏と言うのです。

【即身成仏は今我が身の上の天性地体なり。煩〔わずら〕ひも無く障〔さわ〕りも無き衆生の運命なり。果報なり冥加〔みょうが〕なり。】
即身成仏は、今、我が身の上の天性、地体であり、煩悩もなく、支障もなく、衆生の宿命であり、果報であり、冥の加護なのです。

第12章 夢、寤の譬で無明即法性を明かす

【夫〔それ〕以〔おもんみ〕れば夢の時の心を迷ひに譬へ、寤の時の心を悟りに譬ふ。】
それを、よく考えてみれば、夢の時の心を迷いにたとえ、現実の時の心を悟りにたとえているのです。

【之を以て一代聖教を覚悟するに、跡形〔あとかた〕も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水〔あせみず〕と成りて驚きぬれば、】
これをもって一代聖教を理解すると、意味もない夢を見て心で苦しみ、汗水を落として驚いて目を覚ましてみると、

【我が身も家も臥所〔ふしど〕も一所にて異ならず。】
我が身も家も寝ている場所も同じでまったく異ならないのです。

【夢の虚〔こ〕と寤の実〔じつ〕との二事を目にも見、心にも思へども、所も只一所なり、身も只一身にて二の虚と実との事有り。】
夢の虚構と現実の真実との二つを、目で見て、心で思っても、やはり、場所も一緒で身体も同じなので、この二つの虚構と真実は、同じものなのです。

【之を以て知るべし、九界の生死〔しょうじ〕の夢見る我が心も、仏界常住〔じょうじゅう〕の寤の心も異ならず。】
これをもって知るべきなのです。九界の生死の夢を見る我が心も、仏界の常住である現実の心も、まったく異ならないのです。

【九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変はらず、】
九界の生死の夢を見る所が仏界である常住の現実の所であって、

【心法も替〔か〕はらず、在所も差〔たが〕はざれども夢は皆虚事〔こじ〕なり、寤は皆実事〔じつじ〕なり。】
心法も変わらず、場所も違わないけれども、夢はすべて虚構であり、現実は、すべて真実なのです。

【止観〔しかん〕に云はく「昔荘周〔そうしゅう〕といふもの有り、夢に胡蝶〔こちょう〕と成りて一百年を経〔へ〕たり。】
魔訶止観には「昔、荘周と言う者がいた。夢で蝶と成って百年を生きた。

【苦は多く楽は少なく、汗水と成りて驚きぬれば胡蝶にも成らず、百年をも経ず、苦も無く楽も無く皆虚事なり、】
苦は多く、楽は少なく、汗水と成りて、驚いて目覚めると、蝶にも成らず、百年も経たず、苦も無く楽も無く、すべて虚構であり、

【皆妄想〔もうぞう〕なり」(已上取意)。】
すべて妄想だった」と書かれています。

【弘決〔ぐけつ〕に云はく「無明は夢の蝶〔ちょう〕の如く、三千は百年の如し。】
止観輔行伝弘決には「無明は、夢の蝶の如く、三千は、百年のようなものです。

【一念実無きは猶〔なお〕蝶に非ざるが如く、三千も亦無きこと年を積〔つ〕むに非ざるが如し」(已上)。】
一念が真実で無いのは、なお、蝶でなかったようなものであり、三千が無いことは、百年を経ていなかったようなものなのです。」と書かれています。

【此の釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず。寤に蝶と成らずと思ふ時も別の荘周なし。】
この解釈は、即身成仏の証拠であるのです。夢で蝶と成った時も、荘周は、異なることはなく、現実に蝶と成らずと思う時も、他に荘周はいないのです。

【我が身を生死の凡夫なりと思ふ時は、夢に蝶と成るが如く僻目〔ひがめ〕僻思〔ひがおも〕ひなり。】
我が身を生死の凡夫であると思う時は、夢で蝶と成ったように、錯視〔さくし〕であり錯覚なのです。

【我が身は本覚の如来なりと思ふ時は本〔もと〕の荘周なるが如し。即身成仏なり。】
我が身が本覚の如来であると思う時は、元の荘周であるようなものであり、これこそ即身成仏なのです。

【蝶の身を以て成仏すと云ふには非ざるなり。蝶と思ふは虚事なれば成仏の言無し。】
蝶の身では、成仏とは言えないのです。蝶であると思う事は、それ自体が虚構であり、成仏という言葉の意味はないのです。

【沙汰〔さた〕の外の事なり。】
これは、まったくの論外なのです。

【無明は夢の蝶の如しと判すれば、我等が僻思ひは猶〔なお〕昨日の夢の如く、性体無き妄想なり。】
無明は、夢の蝶のようなものであるとわかれば、私たちの錯覚は、なお、昨日の夢のようなもので、その性体はなく、まったくの妄想なのです。

【誰〔たれ〕の人か虚夢の生死を信受して、疑ひを常住〔じょうじゅう〕涅槃〔ねはん〕の仏性〔ぶっしょう〕に生ぜんや。】
誰がその虚構である夢の生死を信じて、疑いを常住涅槃の仏性に起こすことがあるでしょうか。

【止観に云はく「無明の癡惑〔ちわく〕は本〔もと〕より是法性〔ほっしょう〕なり。】
魔訶止観には「道理が通じない原因である無明は、もともとは、法性であるのです。

【癡迷〔ちめい〕を以ての故に法性変じて無明と作〔な〕り、諸の□倒〔てんどう〕の善・不善等を起こす。】
愚痴蒙昧〔ぐちもうまい〕によって法性が変わって無明となり、さまざまな転倒の善行や悪行を起すのです。

【寒〔かん〕来たりて水を結び変じて堅氷〔けんぴょう〕と作〔な〕るが如く、又眠り来たりて心を変じて種々の夢有るが如し。】
寒波が来て水を硬い氷とするように、また、眠りが来て心が変わり、いろいろな夢を見るようなものなのです。

【今当〔まさ〕に諸の□倒〔てんどう〕は即ち是法性なり、一ならず異ならずと体すべし。】
今、まさに転倒は、そのまま法性であり、この転倒と法性は、同一でもなく、異ることもないと思うべきなのです。

【□倒〔てんどう〕起滅〔きめつ〕すること旋火輪〔せんかりん〕の如しと雖も、】
転倒が起滅するのは、回転する火が輪に見えるように、実際にないものが残像で見えているだけなのに、

【□倒〔てんどう〕の起滅を信ぜずして唯此の心但〔ただ〕是法性なりと信ず。】
その転倒が起滅する事を信じないで、ただ、この心が法性であると固く信じているのです。

【起〔き〕は是法性の起、滅は是法性の滅なり。】
しかし、転倒の起滅の起は、法性の起であり、転倒の起滅の滅は、法性の滅なのです。

【其れを体するに実に起滅せざるを妄〔みだ〕りに起滅すと謂〔おも〕へり。】
それを、きちんと理解すると、実際には、転倒が起滅しないのに、みだりに転倒が起滅すると思っているのです。

【只妄想を指すに悉く是法性なり。法性を以て法性に繋〔か〕け、法性を以て法性を念ず。】
ただ、妄想をただしく理解すると、それは、ことごとく法性の現れなのです。法性によって法性にかけ、法性によって法性を念じているのです。

【常に是法性なり。法性ならざる時無し」(已上)。】
常に法性であって、法性でない時はないのです。」と説明されているのです。

【是くの如く法性ならざる時の隙〔ひま〕も無き理の法性に、】
このように法性でない時は一瞬たりともないという理論が法性であるのに、

【夢の蝶の如くなる無明に於て実有〔じつう〕の思ひを生じて之に迷ふなり。】
夢の中の蝶が現実であると思うように、無明によって転倒の生死が実際にあるとの思いが生れて、これに迷っているのです。

第13章 一体三身の徳を示す

【止観〔しかん〕の九に云はく「譬〔たと〕へば眠〔ねむ〕りの法、心を覆〔おお〕ふて一念の中に無量世〔むりょうせ〕の事を夢みるが如し。】
魔訶止観の第九巻には「たとえば眠りの法が心を覆っているように、一念の中で無量の世の歴劫修行を夢見ているようなものなのです。

【乃至寂滅〔じゃくめつ〕真如〔しんにょ〕に何の次位か有らん。乃至一切衆生即大涅槃〔だいねはん〕なり。】
しかし、寂滅真如の世界では、歴劫修行などなく、すべての衆生がそのままの現実で大涅槃を現わすのです。

【復〔また〕滅すべからず。何の次位の高下・大小有らんや。】
また、それで実際に滅すこともないのです。どのような歴劫修行の順番や歴劫修行の高下、大小が有ると言うのでしょうか。

【不生不生にして不可説〔ふかせつ〕なれども因縁有るが故に亦説くことを得べし。】
歴劫修行などなく不生不生なので説明することは出来ないけれども、一大事因縁が有る為に、また説くことも出来るのです。

【十因縁の法は生の為に因と作〔な〕る。虚空〔こくう〕に画〔えが〕き方便して樹を種〔う〕うるが如し。】
十二因縁の中の十の因縁の法は、生の為の原因となるのです。方便として大空に絵を描き樹を植えるようなものなのです。

【一切の位を説くのみ」(已上)。】
そういう事ですべての歴劫修行の位を説いているのです。」と書かれています。

【十法界の依報〔えほう〕・正報〔しょうほう〕は法身の仏、一体三身の徳なりと知りて】
十法界の依報と正報は、法身の仏、一体三身の徳なりと知って

【一切の法は皆是仏法なりと通達〔つうだつ〕し解了〔げりょう〕する、是を名字即と為〔な〕づく。】
すべての法は、みんな、仏法であると通達して理解すれば、このことを名字即と言うのです。

【名字即の位にて即身成仏する故に円頓〔えんどん〕の教〔きょう〕には次位の次第無し。】
名字即の位でそのまま現実世界で即身成仏する故に円頓の教えには歴劫修行の位や順序はないのです。

【故に玄義〔げんぎ〕に云はく「末代の学者多く経論の方便の断伏〔だんぷく〕を執〔しゅう〕して諍闘〔じょうとう〕す。】
その故に法華玄義には「末代の学者の多くが経論に方便として説かれた煩悩を断じ伏す歴劫修行に執着して競い争っているのです。

【水の性の冷〔ひ〕やゝかなるが如きも、飲まずんば安〔いずく〕んぞ知らん」(已上)。】
水の冷たさも飲んでみなくては、どうやって知ることができようか。」と書かれています。

【天台の判に云はく「次位の綱目〔こうもく〕は仁王〔にんおう〕・瓔珞〔ようらく〕に依り、断伏〔だんぷく〕の高下は大品〔だいぼん〕・】
天台大師の判釈には「歴劫修行の順番や位の大綱と網目は、仁王経や瓔珞経に依り、煩悩を断じ伏す歴劫修行における位の高下は、大品般若経

【智論〔ちろん〕に依る」(已上)。仁王・瓔珞・大品・大智度論、是の経論は皆法華已前の八教の経論なり。】
大智度論に依るのである。」と言われており、仁王経、瓔珞経、大品般若経大智度論などのこれらの経論は、すべて法華経以前の八教の経論なのです。

【権教の行は無量劫〔むりょうこう〕を経〔へ〕て昇進する次位なれば位の次第を説けり。】
権教の歴劫修行は、無量劫を経て昇進する順序なので、そのまま位の序列を説いているのです。


【今の法華は八教に超えたる円なれば、速疾頓成〔そくしつとんじょう〕にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂〔おさ〕めて】
今の法華経は、八教に超えた円教であるので速疾頓成、即身成仏して、心と仏と衆生との、この三つは、我が一念の心の中にすべて納まっていて

【心の外に無しと観ずれば、下根〔げこん〕の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る。】
心の外にないと理解出来れば、理解力が乏しい修行者ですら、一生のうちに、すべてを理解できる仏の悟りである妙覚の位に入ることが出来るのです。

【一と多と相即〔そうそく〕すれば一位に一切の位皆是具足〔ぐそく〕せり。】
一と無数がそのまま備わっているので、一位にすべての位がすべて具足しているのです。

【故に一生に入るなり。下根すら是くの如し。況〔いわ〕んや中根〔ちゅうこん〕の者をや。何に況んや上根〔じょうこん〕をや。】
その故に一生の間に妙覚の位に入るのです。下根の者ですら、そうであるのに中根の者は、なおさらであり、上根の者は、当然の事なのです。

【実相の外に更に別の法無し。実相には次第無きが故に位無し。】
実相の外に別の法は無いのです。実相には、歴劫修行の順番がないので、その修行による位もないのです。

第14章 衆生即万法の深義を明かす

【総じて一代聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知るべし。之を悟るを仏と云ひ、之に迷へば衆生なり。】
総じて一代聖教は、一人の法であれば、我が身の本体を、よくよく理解するべきなのです。これを悟るを仏と言い、これに迷えば衆生と言うのです。

【此は華厳〔けごん〕経の文の意なり。】
これが華厳経の文章の意味なのです。

【弘決〔ぐけつ〕の六に云はく「此の身の中に具〔つぶさ〕に天地に倣〔なら〕ふことを知る。】
妙楽大師の止観輔行伝弘決の第六巻には「この身の中を詳細に観察すれば、天地を現わしていることがわかるのです。

【頭の円〔まど〕かなるは天に象〔かたど〕り、足の方なるは地に象ると知る。身の内の空種〔うつろ〕なるは即ち是虚空なり。】
頭の丸いのは、天上を表わし、足の裏が四角なのは、地面を表わしているのです。身体の中が空なのは、虚空を表わしているのです。

【腹の温〔あたた〕かなるは春夏に法〔のっと〕り、背の剛〔こわ〕きは秋冬に法り、四体は四時に法り、大節〔だいせつ〕の十二は十二月に法り、】
腹の温かなのは、春夏であり、背の硬いのは、秋冬であり、四体は、頭、胴、手、足は、春夏秋冬であり、大きな関節の十二は、十二月であり、

【小節〔しょうせつ〕の三百六十は三百六十日に法り、鼻の息の出入は山沢溪谷〔さんたくけいこく〕の中の風に法り、】
小さな関節の三百六十は、三百六十日であり、鼻の息の出入は、山沢溪谷の中の風であり、

【口の息の出入は虚空の中の風に法り、眼は日月に法り、開閉は昼夜に法り、髪は星辰〔せいしん〕に法り、眉〔まゆ〕は北斗〔ほくと〕に法り、】
口の息の出入は、大空の中の風であり、眼は、日月であり、その開閉は、昼夜であり、髪は、星であり、眉は、北斗七星であり、

【脈は江河〔こうが〕に法り、骨は玉石に法り、皮肉は地土に法り、毛は叢林〔そうりん〕に法り、五臓〔ごぞう〕は天に在りては五星に法り、】
血管は、江河であり、骨は、石灰であり、皮肉は、地表であり、毛は、森林であり、五臓は、空では五星であり、

【地に在りては五岳に法り、陰陽に在りては五行に法り、世に在りては五常に法り、内に在りては五神に法り、行を修するには五徳に法り、】
地では五岳であり、陰陽にあっては五行であり、世にあっては五常であり、内にあっては五神であり、修行にあっては五徳であり、

【罪を治むるには五刑〔ごけい〕に法る。】
罪にあっては五刑なのです。

【謂はく墨〔ぼく〕・□〔ぎ〕・□〔ひ〕・宮〔きゅう〕・大辟〔ていへき〕】
いわゆる、入れ墨、鼻を削ぎ、足を斬り、去勢をし、死刑にする

【(此の五刑は人を様々に之を傷〔いた〕ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云ふ。)】
(これらの五刑は、人を様々に痛めつけ、その数は三千の罰で有り、これを五刑と言うのです。)

【主領〔しゅりょう〕には五官と為〔な〕す。五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し。謂はく苟萠〔こうぼう〕等なり。】
首領は、五官であり、この五官は、下の第八巻の博物誌を引用しているのです。苟萠などがそうなのです。

【天に昇りては五雲と曰〔い〕ひ、化して五竜と為る。心を朱雀〔すざく〕と為し、腎〔じん〕を玄武〔げんぶ〕と為し、】
天に昇って五雲となり、それが変化して五竜となり、心臓を朱雀とし、腎臓を玄武とし

【肝〔かん〕を青竜〔せいりゅう〕と為し、肺〔はい〕を白虎〔びゃっこ〕と為し、脾〔ひ〕を勾陳〔こうちん〕と為す。】
肝臓を青竜とし、肺臓を白虎とし、脾臓を勾陳とするのです。

【又云はく、五音〔ごいん〕・五明・六芸〔りくげい〕皆此より起こる。亦復当〔まさ〕に内治の法を識〔し〕るべし。】
また五の音、五つの学問、六つの素養は、すべて、これより起こるのです。このように内の治める法を識るべきなのです。

【覚心〔かくしん〕、内に大王と為っては百重〔じゅう〕の内に居り、出〔い〕でては則ち五官に侍衛〔じえい〕せらる。】
覚ろうとする心が、体の中で大王となって、百重の中にあり、それが外に出で五官に守られるのです。

【肺をば司馬〔しば〕と為し、肝をば司徒〔しと〕と為し、脾をば司空〔しくう〕と為し、四支〔しし〕をば民子〔みんし〕と為し、】
肺臓を軍人とし、肝臓を警察とし、脾臓を守衛とし、四支を民衆とするのです。

【左〔ひだり〕をば司命〔しめい〕と為し、右〔みぎ〕をば司録〔しろく〕と為し、人命を主司〔しゅし〕す。】
左を医者とし、右を商人とし、人命を官僚とするのです。

【乃至臍〔へそ〕をば太〔たい〕一君〔くん〕等と為すと。禅門〔ぜんもん〕の中に広く其の相を明かす」(已上)。】
また、ヘソを北極星とするのです。禅門波羅蜜次第法門の中で広くその実態を明かしているのです。」と言われているのです。

【人身の本体を委しく検〔けん〕すれば是くの如し。】
このように人身の本体を詳しく調べてみると、実際に、このようであるのです。

【然るに此の金剛不壊〔こんごうふえ〕の身を以て生滅無常〔しょうめつむじょう〕の身なりと思ふ僻〔ひが〕思ひ、】
ところが、この金剛不壊の身を生滅無常の身と思う、おごりたかぶった思いは、

【譬〔たと〕へば荘周〔そうしゅう〕が夢の蝶〔ちょう〕の如しと釈し給へるなり。五行とは地水火風空なり。】
譬えば、荘周が夢の蝶になったようなものであると妙楽大師は、解釈されているのです。五行とは、地水火風空なのです。

【五大種〔ごだいしゅ〕とも五薀〔ごうん〕とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいふ。只〔ただ〕一物にて経々の異説なり。】
五大種とも、五薀とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時とも言い、これらは、ただ一つであり、経によって様々に説かれているのです。

【内典外典の名目〔みょうもく〕の異名なり。今経〔こんぎょう〕に之を開して、一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり】
内典、外典の名前の違いだけであり、法華経では、これを、さらに詳しく、一切衆生の心の中の五仏性、五智の如来の種子であると説いているのです。

【是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有〔ほんぬ〕常住〔じょうじゅう〕なり、本覚の如来なり。】
これが妙法蓮華経の五字なのです。この五字をもって人身の体を造るのです。これが本有常住であり本覚の如来なのです。

【是を十如是と云ふ。此を唯仏与仏〔ゆいぶつよぶつ〕乃能究尽〔ないのうくじん〕と云ふ。】
これを十如是と言い、これを法華経方便品において、ただ仏と仏とのみが、すなわち、よく、これを究〔きわ〕め尽くしていると言っているのです。

【不退の菩薩と極果〔ごくか〕の二乗とは少分も知らざる法門なり。】
不退の菩薩と極果の阿羅漢を得た二乗とが少しも理解できない法門なのです。

【然るを円頓〔えんどん〕の凡夫は初心より之を知る。】
それなのに円頓の教えを信じる凡夫は、初めから、これを知ることが出来るのです。

【故に即身成仏するなり。金剛不壊〔こんごうふえ〕の体なり。是を以て明らかに知るべし。】
故に即身成仏するのです。故に金剛不壊の体となるのです。このことを明らかに知るべきなのです。

【天崩〔くず〕れば我が身も崩るべし、地裂〔さ〕けば我が身も裂くべし、地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし。】
天が崩れると我が身も崩れるのです。地が裂かれれば我が身も裂かれるのです。地水火風が滅亡するならば我が身も、また滅亡するのです。

【然るに此の五大種〔ごだいしゅ〕は過去・現在・未来の三世は替〔か〕はると雖も五大種〔ごだいしゅ〕は替はること無し。】
この五大種は、現在、過去、未来の三世が移り変わっても、この五大種だけは、変わることはないのです。

【正法と像法と末法との三時殊〔こと〕なりと雖も、五大種は是一にして盛衰転変〔せいすいてんぺん〕無し。】
正法と像法と末法との三時は、異なっていると言っても、五大種は、一つであって盛衰転変することなどないのです。

【薬草喩品〔やくそうゆほん〕の疏〔しょ〕には、円教の理は大地なり、円頓の教は空の雨なり。】
薬草喩品第五の疏には、円教の論理は、大地であり、円頓の教えは、空の雨であるのです。

【亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり。】
また三蔵教、通教、別教の三教は、三草と二木なのです。

【其の故は此の草木は円理の大地より生じて、円教の空の雨に養はれて、五乗の草木は栄ゆれども、】
その故は、この草木は、円理の大地より発芽して、円教の空の雨によって成長し、このように五乗の草木は、繁栄するのであるけれども、

【天地に依りて我栄えたりと思ひ知らざるに由るが故に、三教の人天〔にんでん〕・二乗・菩薩をば草木に譬〔たと〕へて説きたり。】
天地によって自身が栄えたと思わないので、釈迦牟尼仏は、三教の人界、天界、二乗、菩薩を草木に、たとえて説いているのです。

【不知恩〔ふちおん〕の故に草木の名を得〔う〕。今法華に始めて五乗の草木は、円理の母と円教の父とを知るなり。】
恩を知らない故に、草木の名前をつけているのです。今、法華経に来て始めて、五乗の草木は、円理の母と円教の父とを知る事が出来たのです。

【一地の所生〔しょしょう〕なれば母の恩を知るが如く、一雨の所潤〔しょにん〕なれば父の恩を知るが如し。】
一つの大地から発芽したと知れば、母の恩を知り、一滴の雨によって潤ったと知れば、父の恩を知るのです。

【薬草喩品の意〔こころ〕是くの如くなり。】
薬草喩品の意味は、このようなものなのです。

第15章 久遠本覚から一切経を施設

【釈迦如来五百塵点劫〔じんでんごう〕の当初〔そのかみ〕、凡夫にて御坐〔おわ〕せし時、】
釈迦牟尼仏がの五百塵点劫のそのかみ、凡夫であった時に、

【我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟〔さと〕りを開きたまひき。】
我が身が地水火風空であると知って即座に悟りを開いたのです。

【後に化他〔けた〕の為に世々番々〔せせばんばん〕に出世成道〔じょうどう〕し、在々処々〔ざいざいしょしょ〕に八相作仏〔はっそうさぶつ〕し、】
その後に、化他の為に何度も生まれ変わっては、出家して成道し、様々な国土において八種類の姿を現して作仏したのです。

【王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲〔もう〕け衆生を誘引〔ゆういん〕す。】
そして、インドの王宮に誕生して、樹の下で成道し、仏に成る姿を衆生に知らしめる為に四十余年に方便の教えを説いて衆生を導いたのです。

【其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、】
その後、方便の多くの経を捨て去って、妙法蓮華経の五智の如来の種子の論理を説き顕わして、

【其の中に四十二年の方便の諸経を丸〔まろ〕かし納〔い〕れて一仏乗と丸〔がん〕し、人〔にん〕一の法と名づく。一人の上の法なり。】
その中に四十二年の方便の諸経を丸め入れて一仏乗とし、人一の法と名前を付けたのです。これは、釈迦牟尼仏自身の悟りを明かした法門なのです。

【多人の綺〔いろ〕へざる正しき文書を造る慥〔たし〕かなる御判の印あり。】
この法華経は、まったく異論を挟む余地がないほど正しい文書であり、確かに釈迦牟尼仏の判の印が押されているのです。

【三世の諸仏の手継〔てつ〕ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由他〔まんのくなゆた〕の国土の上の虚空〔こくう〕の中に】
三世の諸仏の成仏の原因となる手継きが書かれている文書であれば、釈迦牟尼仏より、それが相伝された時に三千三百万億那由他の国土の虚空に

【満〔み〕ち塞〔ふさ〕がれる若干〔そこばく〕の菩薩達の頂〔いただき〕を摩〔な〕で尽〔つ〕くして、】
満ち溢れるようにして集まった多くの菩薩の頭をその文書で摩でて、

【時を指して末法近来〔このごろ〕の我等衆生の為〔ため〕に慥かに此の由を説き聞かせて、仏の譲〔ゆず〕り状〔じょう〕を以て】
時代を末法と指定して、我等、衆生の為に、この妙法蓮華経を説き聞かせて、仏の譲り状をもって

【末代の衆生に慥かに授与すべしと慇懃〔おんごん〕に三度まで同じ御語に説き給ひしかば、】
末代の衆生に確かに授与すると丁寧に三度までも同じ言葉によって説かれたので、

【若干の菩薩達各〔おのおの〕数を尽くして躬〔み〕を曲〔ま〕げ頭を低〔た〕れ、三度まで同じ言に各我も劣らずと事〔こと〕】
多くの菩薩たちは、それぞれに身を曲げ、頭を下げて、三度までも同じ言葉で、各々が劣らずに、

【請〔う〕けを申し給ひしかば、仏心安〔やす〕く思〔おぼ〕し食〔め〕して本覚の都に還〔かえ〕りたまふ。】
この法華経を受持すると仏に誓ったので、仏は、心を安心されて本覚の都へ帰ったのです。

【三世の諸仏の説法の儀式作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲〔ゆず〕り状なれば、】
三世の諸仏の説法の儀式、作法は、ただ同じ言葉にによって行われ、末法の時代を指定された譲り状であれば、


【只〔ただ〕一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと譲り状の面〔おもて〕に載〔の〕せたる手継〔てつ〕ぎの証文なり。】
ただ、後五百歳を指してこの妙法蓮華経によって仏に成るべき時であると、譲り状の面に仏に成る為に手続きが書かれている証文なのです。

第16章 妙法が末法に譲らるを説く

【安楽行品〔あんらくぎょうほん〕には、末法に入って近来〔このごろ〕、初心の凡夫法華経を修行して、成仏すべき様を説き置かれしなり。】
法華経安楽行品には、末法に入って仏法の初心者が法華経を修行して成仏すべき様子を説かれています。

【身も安楽行、口も安楽行、意も安楽行なる自行の三業も、誓願〔せいがん〕安楽〔あんらく〕の化他の行も、】
身の安楽行、口の安楽行、意の安楽行である自行の身口意の三業も、また誓願安楽の化他の行も、

【同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時となり云云。此は近来の時なり。】
同じく、釈迦牟尼仏の滅後の末法の世界において、仏法が滅しようとする時と説かれている現在の為なのです。

【已上四所に有り。薬王品〔やくおうほん〕には二所に説かれ、勧発品〔かんぼつぽん〕には三所に説かれたり。
これと同じ内容が安楽行品に四箇所に有り、薬王菩薩本事品には二箇所に説かれ、普賢菩薩勧発品には三箇所に説かれています。

【皆近来を指して譲り置かれたり。】
これらはみな現在を指して説かれているのです。

【正しき文書を用ひずして凡夫の言に付き、愚癡〔ぐち〕の心に任せて三世諸仏の譲り状に背〔そむ〕き奉り、】
この正しい文書を用いずに、凡夫の言葉を信じて愚かな心に任せて三世諸仏の譲り状に背いて、

【永く仏法に背かば、三世の諸仏何〔いか〕に本意無く口惜しく心憂〔う〕く歎〔なげ〕き悲しみ思し食すらん。】
永く仏法に背けば、三世の諸仏は、どれほど、悔しく嘆き悲しまれることでしょうか。

【涅槃〔ねはん〕経に云はく「法に依って人に依らざれ」云云。】
涅槃経に「法に依って人に依るべきではない」と説かれているのはこの事なのです。

【痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還〔かえ〕って仏法を滅す。】
ほんとうに痛ましく、悲しい事に、末法の学者たちが仏法を習学して還って仏法を破壊しているのです。

【弘決〔ぐけつ〕に之を悲しんで曰く「此の円頓〔えんどん〕を聞いて崇重〔そうじゅう〕せざることは、】
妙楽大師の止観輔行伝弘決には、これを悲しんで「この円頓の法華経を聞いて、これを崇重しないことは、

【良〔まこと〕に近代大乗を習ふ者の雑濫〔ぞうらん〕に由るが故なり。】
ほんとうに現在の大乗教を習う者が仏法の正邪を雑濫したからなのである。

【況〔いわ〕んや像末情〔こころ〕澆〔にご〕り信心寡薄〔すくなく〕、円頓の教法蔵〔くら〕に溢〔あふ〕れ函〔はこ〕に盈〔み〕つれども、】
まして像法時代、末法時代になると人の心が濁り、信心は薄くなり、円頓の法華経は、法蔵にあふれ、誰でも学ぶことが出来るのに、

【暫〔しばら〕くも思惟〔しゆい〕せず、便〔すなわ〕ち目〔め〕を瞑〔ふさ〕ぐに至る。】
少しも、それを読んで思索せずに、目を閉じて学ぼうとしないのです。

【徒〔いたずら〕に生じ徒に死す、一に何ぞ痛ましきかな」(已上)。】
意味もなく生じ、意味もなく死ぬのです。ほんとうに痛ましい事ではないでしょうか。」と書かれているのです。

【同四に云はく「然も円頓の教は本凡夫に被〔こうむ〕らしむ。】
また、止観輔行伝弘決の第四巻には「しかも円頓の法華経は、もともと凡夫の為に説かれているのです。

【若し凡に益するに擬〔ぎ〕せずんば、仏何〔なん〕ぞ自ら法性〔ほっしょう〕の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして、】
もし、凡夫の為ではないとすれば、仏は、なぜ自らの法性の国土に住して法性の身体を以て、多くの菩薩の為にこの円頓の教え説かずに、

【何ぞ諸の法身の菩薩の与〔ため〕に凡身を示し、此の三界に現じたまふことを須〔もち〕ひんや。】
なぜ、多くの法身の菩薩の為に凡身を示して、この三界に現れたのでしょうか。

【乃至一心凡〔ぼん〕に在〔あ〕れば即ち修習すべし」(已上)。】
凡夫一人の心の中にそれを学ぼうとする仏性があるから、それを修行する事が出来るのです。」と説かれているのです。

日蓮正宗聖典

日蓮正宗聖典

  • 作者:堀米日淳
  • 発売日: 2021/02/16
  • メディア: 新書