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1074夜:三世諸仏総勘文教相廃立 第1回

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引用元:日蓮正宗久道山開信寺 

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

  • 発売日: 2018/10/13
  • メディア: 単行本
 
日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

第1章 一代聖教に自行と化他の法

【三世諸仏総勘文教相廃立.弘安二年一〇月.五八歳】
三世諸仏総勘文教相廃立 弘安2年(西暦1279年)10月 58歳御作

【夫〔それ〕一代聖教とは総〔すべ〕て五十年の説法なり。是を一切経とは言ふなり。此を分かちて二と為〔な〕す。】
一代聖教とは、すべて釈迦牟尼仏が説いた五十年の説法の事であり、これを一切経と言うのですが、これを二つに分類する事が出来るのです。

第2章 化他の経の位置づけ

【一には化他〔けた〕、二には自行〔じぎょう〕なり。.一に化他の経とは、法華経より前の四十二年の間説き給へる諸の経教なり】
一つは、化他と言い、一つは、自行と言いますが、この中の一つ目の化他の経文とは、法華経より以前の四十二年間に説かれたものなのです。

【此を権教〔ごんきょう〕と云ひ、亦は方便と名づく。】
これを権教と言い、または、方便と言うのです。

【此は四教の中には三蔵教と通教と別教との三教なり。】
これは、天台大師が教化の方法を立て分けた四教の中では、円教を除く、蔵教と通教と別教の三つなのです。

【五時の中には華厳〔けごん〕と阿含〔あごん〕と方等〔ほうどう〕と般若〔はんにゃ〕となり。法華より前の四時の経教なり。】
また天台大師の立てた五時の中では、華厳、阿含、方等、般若となるのです。これらは、法華経より以前に説かれた四つの時期の経文なのです。

第3章 権実の相違を夢と寤に譬える

【又十界の中には前の九法界なり。又夢と寤〔うつつ〕との中には夢中の善悪なり。】
また十界の中では、仏界を除く九界なのです。また夢と現実との中では、夢の中の善悪の事を説く教えなのです。

【又夢を権〔ごん〕と云ひ、寤を実〔じつ〕と云ふなり。是の故に夢は仮に有って体性〔たいしょう〕無し、故に名づけて権と云ふなり。】
また夢を権教と言い、現実を実教と言うのです。この故に夢は、仮にあって実態は無く、故にそれを権教と言うのです。

【寤は常住にして不変の心の体なり、故に此を名づけて実と為す。故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く、故に権教と言ふ。】
現実は、常住であり、不変の心の実態であり、その故に、これを実教と言い、四十二年の経文は、生死の夢の中の善悪を説くので権教と言うのです。

【夢中の衆生を誘引〔ゆういん〕し驚覚〔きょうがく〕して法華経の寤と成さんと思〔おぼ〕し食〔め〕しての支度〔したく〕方便の経教なり、】
夢の中の衆生を導いて目を覚まさせ、法華経の現実の世界に戻そうと思って準備された方便の教えなのです。

【故に権教と言ふ。斯〔こ〕れに由って文字の読みを糾〔ただ〕して心得べきなり。】
それ故に権教と言うのです。この文字の読み方によって、正しく、その意味を心得るべきなのです。

【故に権〔ごん〕をば権〔かり〕と読む。権なる事の手本には夢を以て本と為す。】
それ故に権教を権〔かり〕の教えと読み、権〔かり〕である事を、夢に、たとえているのです。

【又実〔じつ〕を実〔まこと〕と読む。実事の手本は寤なり。故に生死の夢は権〔かり〕にして性体無ければ権なる事の手本なり。】
また実教とは真実と読むのです。真実の手本は、現実なのです。それ故に生死の夢は、権であって、その正体が無ければ権である事の手本なのです。

【故に妄想〔もうぞう〕と云ふ。本覚の寤〔うつつ〕は実にして生滅〔しょうめつ〕を離れたる心なれば真実の手本なり。故に実相と云ふ。】
そうであるから、これを妄想と言うのです。本覚の現実は、真実であって生滅を離れた心であれば、真実の手本なのです。それ故に実相と言うのです。

【是を以て権実の二字を糾〔ただ〕して一代聖教の化他〔けた〕の権〔ごん〕と自行〔じぎょう〕の実との差別を知るべきなり。】
これをもって権実の二文字の意味を理解して一代聖教の化他の権教と自行の実教の違いを知るべきなのです。

【故に四教の中には前の三教と、五時の中には前の四時と、十法界の中には前の九法界は】
それ故に四教の中では前の三教であると言い、五時の中では前の四時であると言い、十界の中では、前の九界であると言い、

【同じく皆夢中の善悪の事を説くなり。故に権教と云ふ。】
同じく夢の中の善悪の事を説いているので、これを権教と言うのです。

第4章 経釈を引き権実の意義を証す

【此の教相をば無量義経に「四十余年未顕〔みけん〕真実〔しんじつ〕」と説きたまふ(已上)。未顕真実の諸経は夢中の権教なり。】
これらの教えの姿を無量義経では「四十余年、未顕真実」と説いているのです。未顕真実の経文は、すべて夢の中の権教なのです。

【故に釈籖〔しゃくせん〕に云はく「性〔しょう〕は殊〔こと〕なること無しと雖も】
それ故に法華玄義釈籖には「夢の中と現実では、その心の動きは、異なる事が無いと言っても、

【必ず幻〔げん〕に藉〔よ〕りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発〔お〕こす。】
必ず夢の中の幻〔まぼろし〕によって心が動き、幻〔まぼろし〕によって機、感、応、赴が起きるのです。

【能応〔のうおう〕と所化と並びに権実に非ず」(已上)。此皆夢幻〔むげん〕の中の方便の教なり。】
能応である仏と所化である衆生は、ともに幻の権であって現実ではないのです。」とあり、これらは、みんな夢、幻の中の方便の教えなのです。

【「性は殊なること無しと雖も」等とは、夢〔ゆめ〕見〔み〕る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして、】
この「夢の中と現実では、その心の動きは、異なる事が無い」とは、夢を見ている心の動きと現実の心の動きは、ただ同じ心の動きであって、

【総〔すべ〕て異なること無しと雖も、夢の中の虚事〔こじ〕と寤の時の実事と、二事一の心法なるを以て、】
すべて異なることがないと言う意味で、夢の中の虚構と現実の時の実際とは、二つの事であっても一つの心の動きなので、

【見ると思ふも我が心なりと云ふ釈なり。】
見え方も思う事も、すべて自分の心の動きが行っていると言う解釈なのです。

【故に止観〔しかん〕に云はく「前の三教の四弘〔しぐ〕、能〔のう〕も所〔しょ〕も泯す」(已上)。】
それ故に止観輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決には「爾前教である蔵、通、別の三教の四弘誓願は、仏や衆生にとって何の意味もない」と書かれています。

【四弘とは、衆生の無辺〔むへん〕なるを度せんと誓願し、煩悩〔ぼんのう〕の無辺なるを断ぜんと誓願し、】
四弘誓願とは、衆生のすべてを救うと誓願し、煩悩のすべてを断じさせようと誓願し、

【法門の無尽〔むじん〕なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。】
法門の無尽である事を教えようと誓願し、最高の悟りを得させようと誓願するものです。

【此を四弘と云ふ。能とは如来なり、所とは衆生なり。】
これを四弘誓願と言うのです。能とは如来であり、所とは衆生なのです。

【此の四弘は能の仏も所の衆生も、前三教は皆夢中の是非なりと釈し給へるなり。】
この四弘誓願は、能の仏も所の衆生も、爾前教の蔵、通、別の三教では、みんな夢の中の事であると言われているのです。

【然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸教は、未顕真実の権教なり方便なり。】
そうであれば、法華経以前の四十二年の間の説教である多くの教えは、すべて未顕真実の権教であり方便なのです。

【法華に取り寄るべき方便なるが故に真実には非ず。】
法華経の為に説かれた準備の為の方便であるが故に真実ではないのです。

【此は仏自〔みずか〕ら四十二年の間説き集め給ひて後に、今法華経を説かんと欲して、先づ序分〔じょぶん〕の開経〔かいきょう〕の無量義経の時、】
これは、仏自身が四十二年の間の説法をした後に、今から法華経を説こうと思って、まず法華経の序分である開経の無量義経の時に、

【仏自ら勘文〔かんもん〕し給へる教相なれば、人の語も入るべからず、不審をも生〔な〕すべからず。】
仏、みずからが、厳しく意見をされたものであれば、その他の人の言葉を入れるべきではなく、それを不審に思ってもならないのです。

【故に玄義〔げんぎ〕に云はく「九界を権と為し、仏界を実と為す」(已上)。九法界の権は四十二年の説教なり。】
そうであるから妙楽大師の法華玄義釈□〔しゃくせん〕に「九界を権とし、仏界を実とする」と書かれており、九法界の権とは、四十二年の説教であり、

【仏法界の実は八箇年の説、法華経是なり。故に法華経を仏乗と云ふ。】
仏界の実は、八年間の説法である法華経のことなのです。それ故に法華経を仏乗と言うのです。

【九界の生死は夢の理なれば権教と云ひ、仏界の常住は寤の理なれば実教と云ふ。】
九界の生死は、夢の中の虚構であれば権教と言い、仏界の常住は、現実の道理なので実教と言うのです。

【故に五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば、】
それ故に釈迦牟尼仏の五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自行の八年間の実教を合わせて五十年となるのです。

【権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰〔くもり〕無し。】
このように権と実との二つの文字によって、その意味は、鏡にまったく曇りがないように明々白々のことなのです。

第5章 修行に約し爾前不成仏を明かす

【故に三蔵教を修行すること三僧□百大劫〔さんそうぎひゃくだいこう〕を歴〔へ〕て終はりに仏に成らんと思へば、】
それ故に三蔵教を修行して三僧□〔そうぎ〕百大劫という長大な時間を経て、最終的に仏に成るであろうと思えば、

【我が身より火を出だして灰身〔けしん〕入滅〔にゅうめつ〕とて灰と成りて失せぬるなり。】
自分の身体から火が出て灰となって死んでしまい消え失せてしまうのです。

【通教を修行すること七阿僧□〔あそうぎ〕百大劫を満〔み〕てゝ仏に成らんと思へば、】
また通教を修行して七阿僧□〔あそうぎ〕百大劫という長大な時間を経て、最終的に仏に成るであろうと思えば、

【前の如く同様に灰身入滅して跡形〔あとかた〕も無く失せぬるなり。】
同様にその身が灰となって跡形も無くなってしまうのです。

【別教を修行すること二十二大阿僧□百千万劫〔だいあそうぎひゃくせんまんこう〕を尽くして終はりに仏に成りぬと思へば、】
また別教を修行して二十二大阿僧□〔あそうぎ〕百千万劫という長大な時間を経て、最終的に仏に成ると思えば、

【生死の夢の中の権教の成仏なれば、本覚の寤〔うつつ〕の法華経の時には、別教には実仏無し、夢中の果なり。】
生死の夢の中の権教の成仏であれば、本覚の現実の法華経の時には、別教では、真実の仏になる事は出来ないのです。すべて夢の中だけのことなのです。

【故に別教の教道には実の仏無しと云ふなり。】
それ故に別教の教えでは、実際に仏に成る事は出来ないと言うことなのです。

【別教の証道〔しょうどう〕には、初地〔しょじ〕に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕はし、始めて之を見れば】
別教の真理を証得するには、菩薩の第四十一位までの修行によって始めて、無明の一部を断じて中道の一部の論理を理解し、そこまで来て、初めて

【別教は隔歴不融〔きゃくりゃくふゆう〕の教と知りて、円教に移り入りて円人〔えんにん〕と成り已〔お〕はって、別教には留まらざるなり。】
別教は、三諦、三身が別々に説かれている教えと気づいて、完全無欠の法華経によって正しい法華経の行者となって別教を捨ててしまうのです。

【上中下の三根の不同有るが故に、初地・二地・三地乃至等覚までも円人と成る。】
菩薩にも上根、中根、下根の三根の差がある故に、初地、二地、三地から等覚までは、法華経の行者となるのです。

【故に別教の面〔おもて〕に仏無きなり。故に有教無人〔うきょうむにん〕と云ふなり。】
故に別教の経文上には仏は無いのです。それで教えは、あっても、成仏する人は、いないと言うのです。

【故に守護国界章〔しゅごこっかいしょう〕に云はく「有為〔うい〕の報仏は夢中の権果(前三教の修行の仏)、】
このことを伝教大師は、守護国界章で「有為無常の報身仏は、夢の中の権果(前三教の修行の仏)であり、

【無作の三身は覚前〔かくぜん〕の実仏(後の円教の観心の仏)なり」と。】
無作の三身如来は、真実を覚っている実仏である(後の円教の観心の仏)」と言っているのです。

【又云はく「権教の三身は未だ無常を免〔まぬか〕れず(前三教の修行の仏)、】
また「権教の三身は、未だ無常をまぬがれず(爾前教の修行の仏)、

【実教の三身は倶体倶用〔くたいくゆう〕なり(後の円教の観心の仏)」と。此の釈を能く能く意得〔こころう〕べきなり。】
実教の三身は、体も用も備わる仏である(後の円教の観心の仏)」と言っているのです。この伝教大師の解釈を、よくよく理解するべきなのです。

【権教は難行苦行して適〔たまたま〕仏に成ると思へば、夢中の権の仏なれば、本覚の寤の時には実の仏無きなり。】
権教は、難行苦行して、たまたま仏に成ると思えば、夢の中の権〔かり〕の仏であれば、本覚の現実では、真実の仏ではないのです。

【極果〔ごくか〕の仏無ければ有教無人なり。況〔いわ〕んや教法実ならんや。】
最終的な結果の仏で無ければ、教えはあっても成仏する人は、いないのです。それが真実の教えや法門と言えるでしょうか。

【之を取りて修行せんは聖教に迷へるなり。】
これを修行して、すべての人々は、釈迦牟尼仏の一代聖教に迷ってしまうのです。

第6章 有教無人の権を説く所以を明かす

【此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給ひて、末代の衆生に慧解〔えげ〕を開かしむるなり。】
この爾前教では、仏に成れない証拠を釈迦牟尼仏は、説かれて、末代の衆生智慧による理解力を開かれているのです。

【九界の衆生は一念の無明〔むみょう〕の眠りの中に於て、生死の夢に溺〔おぼ〕れて本覚の寤を忘れ、】
九界の衆生は、一念の無明の眠りの中で生死の夢におぼれて本覚の現実を忘れ、

【夢の是非に執して冥〔くら〕きより冥きに入る。】
夢の出来事に執着して暗いところから暗いところにさまよっているのです。

【是の故に如来は我等が生死の夢の中に入りて□倒〔てんどう〕の衆生に同じて、夢中の語を以て夢中の衆生を誘〔いざな〕ひ、】
この故に如来は、我等が生死の夢の中に入って転倒した衆生と同じように夢の中の言葉で夢の中の衆生を導き、

【夢中の善悪の差別の事を説きて漸々〔ぜんぜん〕に誘引し給ふ。】
夢の中の善悪を説いて、少しづつ正しい現実へと誘導しているのです。

【夢中の善悪の事、重畳〔ちょうじょう〕して様々に無量無辺〔むりょうむへん〕なれば、先づ善事に付いて上中下を立つ。】
夢の中の善悪の事は、善悪が重なり合って様々で無数に広がっているので、まず上中下の仏教の修行を立てたのです。

【三乗の法是なり。三々九品〔ほん〕なり。】
これが声聞、縁覚、菩薩の三乗の法門なのです。その三乗それぞれに上根、中根、下根があるので九品となります。

【此くの如く説き已〔お〕はって後に又上々品の根本善を立て、上中下三々九品の善と云ふ。】
このように説き終わって後に、また上々品の根本善を立てて、上中下三々九品の善と言うのです。

【皆悉〔ことごと〕く九界生死の夢の中の善悪の是非なり。今是をば総じて邪見外道と為す】
しかしこれらは、すべて九界の生死である夢の中の善悪なのです。末法においては、これを総じて邪見、外道とするのです。

【(捜要記〔そうようき〕の意。)】
(妙楽大師の魔訶止観捜要記の主意)

【此の上に又上々品の善心は本覚の寤の理なれば、此を善の本と云ふと説き聞かせ給ひし時に、】
この上で、また上々品の善心は、真実の覚りである現実の論理なので、これを善の根本であると説いて、

【夢中の善悪の悟〔さと〕りの力を以ての故に、寤〔うつつ〕の本心の実相の理を始めて聞知〔もんち〕せられし事なり。】
夢の中の善悪の悟りの力でもって、現実の本心の実相の論理を、はじめて聞かせ、知らしめる事が出来たのです。

【是の時に仏説いて言はく、夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり。】
この時に仏は、夢と現実とは、虚事と実事との二つであるけれども、心は、ただ一つなのであると説かれたのです。

【眠りの縁に値〔あ〕ひぬれば夢なり。眠り去りぬれば寤の心なり。】
眠りの中にあれば夢であり、眠りから目覚めれば現実の心であるのです。

【心法は只一なりと開会〔かいえ〕せらるべき下地〔したじ〕を造り置かれし方便なり(此は別教の中道の理なり。】
心は、ただ一つであっても、これは、やはり法華経を教えるための下地であり方便なのです。(これは、別教の中道の論理なのです。)

【是の故に未だ十界互具・円融〔えんゆう〕相即〔そうそく〕を顕はさゞれば成仏の人無し。】
この故に未だ十界互具、円融相即を現わしてはいないので成仏する人がいないのです。

【故に三蔵教より別教に至るまでの四十二年の間の八教は皆悉〔ことごと〕く方便・夢中の善悪なり。】
故に三蔵教から別教に至るまでの四十二年の間の八教は、すべて方便であり、夢の中の善悪なのです。

【只暫〔しばら〕く之を用ひて衆生を誘引し給ふ支度〔したく〕方便なり。】
ただ、しばらく、これを用いて衆生法華経に誘導する為の支度の方便なのです。

【此の権教の中には、分々に皆悉く方便と真実と有りて権実の法欠〔か〕けざるなり。】
この権教の中にも、それぞれに方便と真実が有って、権実の法は欠けていないのです。

【四教一々に各四門ありて差別有ること無し。】
四教の一つ一つに、それぞれ有門、空門、亦有亦空門、非有非空門の四門があって差別が有ることはないのです。

【語も只同じ語なり。文字も異なること無し。斯〔こ〕れに由りて語に迷ひて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云ふ。】
このように言葉も同じ言葉であり、文字も異ならず、これによって言葉に迷って権実の差別を理解出来ないので仏法が滅んでしまうのです。

第7章 権教は浄土に無きことを示す

【是の方便の教は唯穢土〔えど〕に有って総て浄土には無し。】
この方便の教えは、ただ汚〔けが〕れた穢土にだけあって、すべて浄土には無いのです。

法華経に云はく「十方仏土の中には唯一乗の法のみ有りて、二も無く亦三も無し。仏の方便の説をば除く」(已上)。】
法華経には「四方の仏の国土の中には、ただ一乗の法のみあって、二も無く、また三も無し、ただし、仏の方便の説を除く」とあります。

【故に知んぬ、十方の仏土に無き方便の教を取りて、往生〔おうじょう〕の行と為し、】
故に四方の仏の国土にはない方便の教えを往生の修行とし、

【十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌〔きら〕ひて取らずして成仏すべき道理有るべしや否や。】
四方の浄土に有る一乗の法を嫌って、人々が成仏できる道理が有るでしょうか。

【一代の教主釈迦如来一切経を説き勘文〔かんもん〕し給ひて言はく、】
一代聖教の教主釈迦牟尼仏が、すべての経文を説き、その意見書において、このように言われています。

【三世の諸仏の同様に一つ語一つ心に勘文し給へる説法の儀式なれば、我も是くの如く一言も違はざる説教の次第なり云云。】
三世の諸仏も同様に一つの言葉、一つの心にも意見書がつく説法の儀式なので、私もこのように一言も違はないように説教の手順を慎重に踏んだのである。

【方便品に云はく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別〔むふんべつ〕の法を説く」(已上)。】
方便品に「三世の諸仏の説法の儀式のように、私も今、また、このように三乗に差別がない諸法実相の妙理を説くのである」と説かれています。

【無分別の法とは一乗の妙法なり。善悪を簡〔えら〕ぶこと無く、草木樹林にも山河大地にも一微塵〔みじん〕の中にも互ひに各十法界の法を具足す。】
三乗に差別がない法とは、一仏乗の妙法であり、善人悪人を問わず草木にも山河にも一つの塵〔ちり〕の中にも互いに十界の法を具足しているのです。

【我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周遍して欠くること無し。】
自身の心の妙法蓮華経の一仏乗は、四方の浄土に行き渡って及ばないところがないのです。

【十方の浄土の依報〔えほう〕・正報〔しょうほう〕の功徳荘厳は、我が心の中に有って片時も離るゝこと無き三身即一の本覚の如来なり。】
四方の浄土の依報、正報の功徳にあふれた荘厳な姿は、自身の心の中にあって片時も離れることがないのです。これが三身即一の本覚の如来なのです。

【是の外には法無し。此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し。】
これ以外に法はなく、この一法ばかりが四方の浄土にあって、他の法が有るということは無いのです。

【故に無分別の法と云ふは是なり。此の一乗妙法の行をば取らずして、】
それ故に差別がない法と言い、この一乗妙法の修行をしないで、

【全く浄土にも無き方便の教を取りて、成仏の行と為〔せ〕んは迷ひの中の迷ひなり。】
浄土にない方便の教えを守って成仏の修行とするのは迷いの中の迷いなのです。

【我仏に成りて後に穢土に立ち還〔かえ〕りて、穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に、次第に誘ひ入れて方便の教を説くを化他の教とは云ふなり。】
自身が仏に成った後に穢土に立ち還って、穢土の衆生を仏法界に入らせる為に、次第に導いて方便の教を説く事を化他の教えと言うのです。

【故に権教と言ひ、又方便とも云ふ。化他の法門の有り様、大体略を存して斯〔か〕くの如し。】
これ故に権教と言い、また方便とも言うのです。化他の法門の有り様は、だいたい、このようなことを言うのです。

第8章 自行の法について明かす

【二に自行の法とは是法華経八箇年の説なり。是の経は寤〔うつつ〕の本心を説きたまふ。】
二つ目に自行の法について言うと、これは法華経八箇年の説なのです。この経は、現実の仏の本心を説いているのです。

【唯衆生の思ひ習はせる夢中の心地なるが故に、夢中の言語を借りて寤の本心を訓〔おし〕ふるなり。】
ただ、衆生の心が、人々が習慣として見ている夢の中にあるので夢の中の言語〔げんご〕を使って現実の仏の本心を教えているのです。

【故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ふ。法華経の文と釈との意此くの如し。】
それ故に言葉は、夢の中の言語であっても、心は、現実の仏の本心を教えているのです。法華経の文章とその解釈書の心とは、このようなものなのです。

【之を明らめ知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷ふべきなり。】
この事を明らかにして知らなければ経文とその解釈書の文章に必ず迷いが生じてしまうのです。

【但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備はれる徳用〔とくゆう〕の法門なれば、夢中の教を取りて寤の心に摂〔おさ〕むるが故に、】
ただし、この化他の夢の中の法門も、現実の仏の本心に備わる意味がある法門であれば、夢の中の教えを取りて現実の仏の心に適っている故に、

【四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり。】
四十二年の夢の中の化他である方便の法門も、妙法蓮華経の現実の心におさまっており、仏の心の外には法は無いのです。

【此を法華経の開会〔かいえ〕とは云ふなり。譬〔たと〕へば衆流〔しゅる〕を大海に納〔おさ〕むるが如きなり。】
これを法華経の開会の法門と言うのです。たとえば、すべての川の流れは、大海に入るようなものなのです。

【仏の心法妙〔しんぽうみょう〕と衆生の心法妙と、此の二妙を取りて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり。】
仏の心と法と妙と衆生の心と法と妙と、この二つの妙を取って、自身の心におさめる故に、心の外に法が無いと言うのです。

【己心と心性〔しんしょう〕と心体との三は己身の本覚の三身如来なり。】
己心と心性と心体との三つは、自身の本覚の三身如来であるのです。

【是を経に説いて云はく「如是相(応身如来)、如是性(報身如来)、如是体(法身如来)」と。此を三如是と云ふ。】
これを経文に説いて「如是相(応身如来)、如是性(報身如来)、如是体(法身如来)」と言うのです。これを三如是と言います。

【此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為〔な〕し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好と為す。】
この三如是の本覚の如来は、四方の法界を身体とし、四方の法界を心性とし、四方の法界を容姿とするのです。

【是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり。】
それ故に、我が身は、本覚の三身如来の身体なのです。

【法界に周遍して一仏の徳用なれば、一切の法は皆是仏法なりと説き給ひし時、其の座席に列〔つら〕なりし諸の四衆・八部も畜生も外道等も、】
法界にあまねく行き渡る一仏の徳用であるので、すべて法は、仏法であると説かれた時に、その座席に列した多くの仏法者、その協力者も畜生も外道も、

【一人も漏〔も〕れず皆悉〔ことごと〕く妄想の僻目〔ひがめ〕僻思〔ひがおも〕ひ立ち所に散止して、本覚の寤に還って皆仏道を成ず。】
一人も漏れることなく皆、ことごとく妄想の間違った見え方や間違った思想は、たちどころに消えて本覚の現実に戻ってみんな仏法に立ち返るのです。

【仏は寤の人の如く、衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢〔こむ〕を醒〔さ〕まして本覚の寤に還〔かえ〕るを】
仏は、現実の人のようであり、衆生は、夢見る人のようであり、それ故に生死の夢を覚まして本覚の現実に帰ることを

【即身成仏とも平等〔びょうどう〕大慧〔だいえ〕とも無分別法〔むふんべつほう〕とも皆成仏道とも云ふ。只一つの法門なり。】
即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも言うのです。これは、ただ一つの法門なのです。

【十方の仏土は区〔まちまち〕に分かれたりと雖も通じて法は一乗なり。方便なきが故に無分別法なり。】
四方の仏土は別々に分かれていると言っても、法門は、一仏乗であり、方便ではないので声聞、縁覚、菩薩の差別がないのです。

【十界の衆生は品々〔しなじな〕異なりと雖も、実相の理は一なるが故に無分別なり。】
十界の衆生は、男女、悪人善人、二乗三乗と、それぞれ異っているけれども、実相の論理は、一つである故に差別がないのです。

【百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も、十界互ひに具するが故に無分別なり。】
百界千如、三千世間の法門は、異なっているけれども十界互具する故に差別がないのです。

【夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も、一心の中の法なるが故に無分別なり。】
夢と現実、虚構と真実とそれぞれ異っているけれども、一つの心の中の法門である故に差別がないのです。

【過去と未来と現在とは三つなりと雖も、一念の心中の理なれば無分別なり。】
過去、現在、未来と三つに分かれているけれども、一念の心の中の道理であれば差別がないのです。

第9章 譬喩で爾前と法華の関係を明かす

一切経の語は夢中の語とは、譬〔たと〕へば扇〔おうぎ〕と樹との如し。】
一切経の言葉は、たとえれば扇と樹であり、夢の中の言葉のようなものなのです。

法華経の寤〔うつつ〕の心を顕はす言〔ことば〕とは譬へば月と風との如し。】
法華経の言葉は、たとえれば月と風であり、現実の心を現わすようなものなのです。

【故に本覚の寤の心の月輪の光は無明〔むみょう〕の闇を照し、実相般若〔じっそうはんにゃ〕の智慧の風は妄想〔もうぞう〕の塵〔ちり〕を払ふ。】
それ故に本覚の現実の心の月の光は、無明の闇を照し、実相般若の智慧の風は、妄想の塵を払うのです。

【故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ。是の故に夢の余波〔なごり〕を散じて寤の本心に帰せしむるなり。】
それによって夢の言葉の扇と樹をもって現実の心の月と風とを知らしめ、それによって夢の続きを見る事を止めさせて現実の本心に戻らせるのです。

【故に止観〔しかん〕に云はく「月、重山〔じゅうざん〕に隠〔かく〕るれば扇を挙げて之に類し、】
そうであるから魔訶止観には「月が山に重なって隠れてしまえば、扇を挙げて月が出ている場所を教え、

【風、大虚〔たいこ〕に息〔や〕みぬれば樹を動かして之を訓〔おし〕ふるが如し」文。】
大空の風が止まってしまえば、樹を動かして風が吹く様子を教えるようなものである」と書かれているのです。

【弘決〔ぐけつ〕に云はく「真常性〔しんじょうしょう〕の月煩悩〔ぼんのう〕の山に隠る。煩悩は一に非ず故に名づけて重と為す。】
止観輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決には「真実である常住の月は、煩悩の山に重なって見えない。煩悩は、一つではないので重なると言うのである。

【円音〔えんのん〕の教風は化を息めて寂に帰す。】
そして、円音教である法華経の教化である風を止めて、寂滅に帰すのである。

【寂理無碍〔じゃくりむげ〕なること猶〔なお〕大虚の如し。】
寂滅の論理を妨げる事がない無碍の姿そのものが、大空が無風であるようなものなのです。

【四依〔しえ〕の弘教は扇と樹との如し。乃至月と風とを知らしむるなり」(已上)。】
四依の菩薩の弘教は、扇と樹のようなもので、月と風とを教えるようなものなのです。」と書かれています。

【夢中の煩悩の雲重畳〔ちょうじょう〕せること山の如し。】
夢の中の煩悩の雲が重さなって、真実である月が見えない山のようなものなのです。

【其の数八万四千の塵労〔じんろう〕にして、心性本覚の月輪を隠す。】
八万四千の塵〔ちり〕によって、心の働きである本覚の月を隠しているのです。

【扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て、月と風との如くなる本覚の理を覚知〔かくち〕せしむる聖教なり。】
扇と樹とのような経論の文字や言語の教えでもって、月と風のような本覚の論理を理解させようとしている聖教なのである。

【故に文と語とは扇と樹との如し文。上の釈は一往の釈とて実義に非ざるなり。】
そうであるから文章と言葉は、扇と樹のようなものである。」と書かれています。しかし、この解釈は、一往の解釈であって本当の説明ではないのです。

【月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我が心の般若〔はんにゃ〕の慧解〔えげ〕とを訓へ知らしむるを妙法蓮華経と名づく。】
月のような妙法の心の動きである悟りと、風のような自身の心の般若の慧解とを、教え知らしめるものを妙法蓮華経と名づけたのです。

【故に釈籖〔しゃくせん〕に云はく「声色〔しょうしき〕の近名〔ごんみょう〕を尋ねて無相の極理〔ごくり〕に至る」(已上)。】
それ故に法華玄義釈籖には「仏の声や姿を説いた法を聞いて無相の極理を知る」と書かれているのです。

【声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切の経論の言説なり。】
仏の現実の声や姿を説いた法を聞いてとは、扇と樹のように夢の中のすべての経論の言葉や説法なのです。

【無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。】
無相の極理とは、月と風のように現実の自身の心の動きであり、寂光の極楽のことなのです。

第10章 仏の内証の悟りの相を明かす

【此の極楽とは十方法界の正報〔しょうほう〕の有情と、十方法界の依報〔えほう〕の国土と和合して一体三身即一なり。】
この極楽とは、十方法界の正報の有情と、十方法界の依報の国土が和合した一体の三身即一の心を言うのです。

【四土〔しど〕不二にして法身の一仏なり。】
仏、菩薩、二乗が住む四土は、すべて同じであって法身の一仏なのです。

【十界を身と為〔な〕すは法身なり。十界を心と為すは報身なり。十界を形と為すは応身なり。十界の外に仏無し。】
十界を身とすれば法身であり、十界を心とすれば報身であり、十界を形とすれば応身となるのです。十界の外に仏などいないのです。

【仏の外に十界無く依正〔えしょう〕不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ。】
仏の外に十界は無く、依と正は、不二なのです。身と土は、不二なのです。一仏の身体である事をもって寂光土と言うのです。

【是の故に無相の極理と云ふなり。生滅無常の相を離るゝが故に無相と云ふなり。法性の淵底〔えんでい〕玄宗の極地なり。故に極理と云ふ。】
この故に無相の極理と言うのです。生滅無常の相を離れるが故に無相と言うのです。法性の淵底玄宗の極地なのです。故に極理と言うのです。

【此の無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有って清浄無漏〔しょうじょうむろ〕なり。】
この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心の中にあって、清浄であって煩悩など、まったくないのです。

【之を名づけて妙法の心蓮台〔しんれんだい〕と云ふなり。是の故に心外無別法〔しんげむべつほう〕と云ふ。】
これを妙法蓮華三昧秘密三摩耶経にある妙法の心蓮台と言うのです。この故に心外無別法と言うのです。

【此を一切の法は皆是仏法なりと通達解了〔つうだつげりょう〕すと云ふなり。】
これを一切法は、すべて、これ仏法であると完全に理解できたというのです。

【生と死と二つの理は生死の夢の理なり。妄想なり□倒〔てんどう〕なり。】
生と死と二つの論理は、生死の夢の論理であり、妄想であり、現実と夢がひっくり返ったものなのです。

【本覚の寤を以て我が心性を糾〔ただ〕さば、生ずべき始めも無きが故に、死すべき終はりも無し。】
本覚の現実をもって自身の心を追求すれば、生ずべき始めもないので、死すべき終はりもないのです。

【既に生死を離れたる心法に非ずや。】
そうであれば、まさに生死を離れた心の動きを理解する法門ではないでしょうか。

【劫火〔ごうか〕にも焼けず、水災にも朽〔く〕ちず、剣刀にも切られず、弓箭〔きゅうせん〕にも射〔い〕られず。】
猛火によっても焼けず、水害によっても朽ちず、刀剣でも切れず、弓矢でも射られないのです。

【芥子〔けし〕の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず。】
小さい芥子粒の中に入れても、その小さい芥子であっても広がらず、心法も芥子に入れるには大きすぎると言うことはない。

【虚空〔こくう〕の中に満〔み〕つれども虚空も広からず、心法も狭〔せま〕からず。】
大空に満たしても、その大きい空でさえ広すぎるということはなく、心法が大空に入れるには大きすぎると言うことはない。

【善に背〔そむ〕くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るゝを無記と云ふなり。】
善に背くことを悪と言い、悪に背くことを善と言うのです。故に心の外に善はなく悪はないのです。この善と悪から離れる事を無記と言うのです。

【善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。】
善悪無記〔ぜんなくむき〕、これ以外には心はなく、心の外には、法は、ないのです。

【故に善悪も浄穢〔じょうえ〕も凡夫聖人も天地も大小も東西も南北も四維〔しい〕も上下も】
それ故に、善も悪も、浄いという事も穢れという事も、凡夫も聖人も、天も地も、大も小も、東も西も、南も北も、その間の方向も、上も下も、

【言語道断〔ごんごどうだん〕し心行所滅〔しんぎょうしょめつ〕す。】
言語で言い現わされず、心がまったく動くことが出来ず、いくら頭で考えても理解できないのです。

【心に分別して思ひ、言ひ顕はす言語なれば、心の外に分別も無し。】
心によって物事を理解するしかないので、それを言い現わす言語がなければ、その心以外で理解しようとしても、それは、どうしようもないのです。

【分別も無ければ言〔ことば〕と云ふは心の思ひを響かして声に顕はすを云ふなり。】
言葉でしか言い現わすことが出来ないのであれば、言葉は、心の思いを響かせて声に現わすことを言うのです。

【凡夫は我が心に迷ふて知らず覚らざるなり。仏は之を悟り顕はして神通と名づくるなり。】
凡夫は、自身の心に迷って、それを知らず、覚らないのです。仏は、これを悟って、現わし、神通力と名前を付けたのです。

【神通とは神〔たましい〕の一切の法に通じて碍〔さわ〕り無きなり。】
神通力とは、魂〔たましい〕が、すべて法に通じていて、そう考えても、まったく問題がないことを言うのです。

【此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。】
この自由自在の神通力は、すべての生きている者の心に有るのです。

【故に狐狸〔こり〕も分々に通を現ずること、皆心の神の分々の悟りなり。】
それ故にキツネやタヌキにも、少しは、それを現じることができるのは、すべては、心の中の魂〔たましい〕を少しは悟っているからなのです。

【此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云ふなり。】
この心の一つの法門より、国土世間も現れるのです。一代聖教とは、この事を説いているのです。これを八万四千の法蔵と言うのです。

【是皆悉〔ことごと〕く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。】
これらは、みんな、ことごとく一人の身体の中の法門であるのです。そうであれば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記であり文書なのです。

【此の八万の法蔵を我が心中に孕〔はら〕み持ち懐〔いだ〕き持ちたり。】
この八万の法蔵を我が心の中に生じさせ懐〔いだ〕き続けているのです。

【我が身中の心を以て仏と法と浄土とを、我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。】
我が身体の中の心にある仏と法と浄土を、我が身体の外にあると思い願い求める事を迷いと言うのです。

【此の心が善悪の縁に値ひて善悪の法をば造り出だせるなり。】
この心が善悪の縁にあって善悪の法を作り出すのです。

【華厳〔けごん〕経に云はく「心は工〔たく〕みなる画師〔えし〕の種々の五陰〔ごおん〕を造るが如く、一切世間の中に法として造らざること無し。】
華厳経に「心は、巧みな絵師が数々の五陰を作るように、すべての世間の中の法として作らないことなどないのです。

【心の如く仏も亦爾〔しか〕なり。仏の如く衆生も然〔しか〕なり。三界唯一心なり。心の外に別の法無し。】
心も仏も同じなのです。衆生もまた同じなのです。三界は、すべて、ただ一人の心であるのです。心の外に別に法などないのです。

【心仏及び衆生是の三差別無し」(已上)。】
心と仏と衆生の三つは、まったく差別がないのです。」と説かれているのです。

【無量義〔むりょうぎ〕経に云はく「無相不相〔むそうふそう〕の一法より無量義を出生す」(已上)。】
無量義経には「無相、不相の一法より無量義が出ている」と説かれています。

【無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり。】
無相、不相の一法とは、すべての衆生の一念の心なのです。

【文句〔もんぐ〕に釈して云はく「生滅〔しょうめつ〕無常〔むじょう〕の相無きが故に無相と云ふなり。】
法華文句に「生滅、無常の相が無い故に無相と言うのです。

【二乗の有余〔うよ〕・無余〔むよ〕の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云ふなり」云云。】
二乗の身体を残した有余涅槃と灰身滅智した無余涅槃の二つの涅槃の相を離れるゆえに不相と言うのです。」と解釈されています。

【心の不思議を以て経論の詮要〔せんよう〕と為〔す〕るなり。此の心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。】
この心の不思議をもって経論の肝要とするのです。この心を悟り理解することを如来と言うのです。

【之を悟り知って後は十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。】
これを悟り理解した後は、十界は、我が身であり、我が心であり、我が姿なのです。本覚の如来は、我が身心であるからなのです。

【之を知らざる時を名づけて無明〔むみょう〕と為〔な〕す。無明は明〔あき〕らかなること無しと読むなり。】
これを理解できない時を名づけて無明と言うのです。無明とは、明らかなること無しと読むのです。

【我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性〔ほっしょう〕と云ふ。】
我が心の有り様を正しく理解できないのです。これを悟り理解した時を名づけて法性と言うのです。

【故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言は二なりと雖も心は只一つ心なり。】
それ故に無明と法性とは、一人の心の異名なのです。名前と言葉は、二つなのですが、その心は、ただ一つの心なのです。

【斯〔こ〕れに由りて無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば寤〔うつつ〕の心を失ふべきが故に。】
こういう事で無明を断じてはいけないのです。夢の心が無明であると断じてしまえば、現実の心まで失ってしまうからなのです。

【総じて円教の意は一毫〔いちごう〕の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是仏法なりと云ふなり。】
総じて完全な教えという意味は、少しの煩悩さえ断じてはいけないという意味なのです。それ故にすべての法は、全部、仏法であると言っているのです。

日蓮正宗聖典

日蓮正宗聖典

  • 作者:堀米日淳
  • 発売日: 2021/02/16
  • メディア: 新書