日蓮正宗のススメ

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1070夜:報恩抄 第2回

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引用元:日蓮正宗久道山開信寺 

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

  • 発売日: 2018/10/13
  • メディア: 単行本
 
日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

第11章 日本伝教大師の弘通

【又日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済〔くだら〕国より一切経・釈迦仏の像をわたす。】
また日本では、第30代欽明天皇の時代、13年10月13日に朝鮮半島百済の国よりすべての経と釈迦牟尼仏の仏像が渡って来ました。

【又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和気妹子〔わけのいもこ〕と申す臣下を漢土につかはして、】
また用明天皇の時代に聖徳太子が仏教を研究し、和気妹子と言う臣下を中国に遣〔つか〕わせて、

【先生〔せんじょう〕の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、】
先に持っていた法華経一巻の後の巻を取り寄せて、これを自らの根本の経法と定められました。

【其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗華厳宗法相宗倶舎宗成実宗わたる。】
その後、第37代孝徳天皇の時代に三論宗華厳宗法相宗倶舎宗成実宗が日本に渡って来ました。

【人王四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。】
第45第聖武天皇の時代には、律宗が渡って来て、これで日本では、六つの宗派となりました。

【孝徳より人王第五十代の桓武天王にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。】
第37代孝徳天皇より第50代桓武天王に至るまでの十四代一百二十余年の間は、天台宗真言宗の二宗はなかったのです。

桓武の御宇に最澄〔さいちょう〕と申す小僧〔しょうぞう〕あり。山階寺〔やましなでら〕の行表僧正〔ぎょうひょうそうじょう〕の御弟子なり。】
桓武天皇の時代になって最澄と言う僧侶が出て、山階寺の行表僧正の弟子となりました。

法相宗を始めとして六宗を習ひきわめぬ。而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに】
そして法相宗を始めとして日本に渡っていた六宗派を習い極めましたが、仏法を未だ極めたとも思えず、

華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論〔きしんろん〕の疏〔しょ〕を見給うに、天台大師の釈を引きのせたり。此の疏こそ子細ありげなれ。】
華厳宗の法蔵法師が著した起信論の疏〔しょ〕を見て、その中に天台大師の解釈が引用されていました。これこそ、正しいのではないか。

【此の国に渡りたるか、又いまだわた〔渡〕らざるかと不審ありしほどに、有る人にと〔問〕ひしかば、】
この解釈書は、日本に渡っているのか、未だに渡って来ていないのかと思って、ある人に質問したのですが、

【其の人の云はく、大唐の揚州〔ようしゅう〕竜興寺〔りゅうこうじ〕の僧鑑真〔がんじん〕和尚は天台の末学道暹律師〔どうせんりっし〕の弟子、】
その人は、答えて言うのには、大唐揚州の竜興寺の僧で鑑真和尚と言う者は、天台宗である道暹律師の弟子であり、

【天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、天台の御釈を持ち来たりながらひろめ給はず。】
天宝時代の末に日本に渡って来ていたが、小乗経の戒律を弘めたけれども、天台大師の解説書を持ちながら、それを日本で弘めなかったのである。

【人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかた〔語〕る。】
それは、第45第聖武天皇の時代の事ですと語ったのです。

【其の書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんありて生死の酔〔よ〕ひをさましつ。】
最澄は、その解説書を読もうと思い、それを即座に取り寄せて読んでみると、一時に生死の迷いがなくなり、

【此の書をもって六宗の心を尋ねあき〔明〕らめしかば、一々に邪見なる事あらはれぬ。】
この解説書を読んで、日本に渡って来ていた六宗派の理論を明らかにして、すべて邪見である事がわかったのです。

【忽〔たちま〕ちに願〔がん〕を発〔おこ〕して云はく、日本国の人皆謗法の者の檀越〔だんのつ〕たるが、】
すぐにそれを止めさせようと願って、日本の人々が間違った宗派を信じ、謗法の者となっているので、

【天下一定〔じょう〕乱れなんずとをぼして六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学〔せきがく〕蜂起〔ほうき〕して、】
天下は、いつも乱れているであると六宗派を破折すると、南都の七大寺の六宗派の学者の人々は、すぐに蜂起して、

【京中烏合〔うごう〕し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。】
都の中は、右往左往して、天下は騒然となり、七大寺の六宗派の人々は、みんな最澄を憎み、恨むこと尋常ではなかったのです。

【而るを去ぬる延暦〔えんりゃく〕二十一年正月十九日に天王高雄〔たかお〕寺に行幸〔みゆき〕あって、七寺の碩徳十四人、善議〔ぜんぎ〕・】
その後、延暦21年1月19日に桓武天皇は、高雄寺に行って七大寺の者、十四人、善議、

【勝猷〔しょうゆう〕・奉基〔ほうき〕・寵忍〔ちょうにん〕・賢玉〔けんぎょく〕・安福〔あんぷく〕・勤操〔ごんそう〕・修円〔しゅえん〕・】
勝猷、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、

【玄耀〔げんよう〕・歳光〔さいこう〕・道証〔どうしょう〕・光証〔こうしょう〕・観敏〔かんびん〕等十有余人を召し合はす。】
玄耀、歳光、道証、光証、観敏などを呼び出して、最澄と公〔おおやけ〕の場で対決させたのです。

【華厳・三論・法相等の人々、各々我が宗の元祖が義にたがはず。】
華厳宗三論宗法相宗の人々は、それぞれ自らの宗派の元祖の義が正しいと述べましたが、

最澄上人は六宗の人々の所立一々に牒〔ちょう〕を取りて、本経本論並びに諸経諸論に指し合はせてせ〔責〕めしかば一言も答えず、】
最澄は、六宗派の人々の言葉を一々に取り上げ、本経、本論、諸経、諸論に照らし合わせてその矛盾を責めると一言も答えられずに、

【口をして鼻のごとくになりぬ。】
口をつぐんで鼻と同様になり、何も言えなくなったのです。

天皇をどろき給ひて、委細〔いさい〕に御たづねありて、重ねて勅宣を下して十四人をせめ給ひしかば、承伏の謝表を奉りたり。】
桓武天皇は、この事に驚いて、最澄に詳しく話を聞き、重ねて命令を出して、この十四人を問いただすと自分の間違いをようやく認めたのでした。

【其の書に云はく「七箇の大寺、六宗の学匠、乃至初めて至極を悟る」等云云。】
その時の書類には、七箇の大寺、六宗派の学匠は、最澄の説によって初めて至極を悟ると書かれており、

【又云はく「聖徳の弘化〔ぐけ〕より以降〔このかた〕、今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。】
また、「聖徳太子の時代に仏法が弘められて以来、いままで二百年の間、講義されて来た経論は、数多くあり、

【彼此〔ひし〕理を争って其の疑ひ未だ解けず。而るに此の最妙の円宗猶〔なお〕未だ闡揚〔せんよう〕せず」等云云。】
それぞれの宗派が正しいと言って理論を争い、未だにそれが解決せず、この最も尊い完全な法華経の理論は広まっていない。」と言われているのです。

【又云はく「三論・法相、久年の諍〔あらそ〕ひ、渙焉〔かんえん〕として氷のごとく解け、昭然として既に明らかにして、】
また、「三論宗法相宗などが長く争っていたが、この最澄によって、氷が溶けて水になるように、太陽が昇って天地が明らかになるように、

【猶雲霧〔うんむ〕を披〔ひら〕いて三光を見るがごとし」云云。】
雲や霧が晴れて日、月、星の光が輝き始めるように解決したのである。」と言われているのです。

最澄和尚、十四人が義を判じて云はく「各〔おのおの〕一軸を講ずるに法鼓〔ほっく〕を深壑〔しんがく〕に振るひ、】
最澄は、十四人が邪義を批判して「各々が法華経の一軸を論議はしているが、すべて自らが正しいと思って自分勝手に理解している故に深い谷に堕ち、

【賓主〔ひんしゅ〕三乗の路〔みち〕に徘徊〔はいかい〕し、義旗〔ぎぎ〕を高峰に飛ばす。】
旅人が声聞、縁覚、菩薩の三乗の道を徘徊しながら、高い山の頂のある法華経という旗印を見ているのと同じなのです。

【長幼三有〔う〕の結を摧破〔さいは〕して、猶〔なお〕未だ歴劫〔りゃっこう〕の轍〔てつ〕を改めず、白牛〔びゃくご〕を門外に混ず。】
そうやって幼稚な三界の六道の者を論破するのは良いが、それでは未だに歴劫修行をしなければならず、一仏乗をそれと同じに扱っているのです。

【豈〔あに〕善〔よ〕く初発〔しょほつ〕の位に昇り、阿荼〔あだ〕を宅内〔たくない〕に悟らんや」等云云。】
それではどうやって始めて仏教を志す者が妙覚の位の者となって火宅の中で悟る事が出来るでしょうか。」と言われています。

【弘世〔ひろよ〕・真綱〔まつな〕二人の臣下云はく「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台に闢〔ひら〕く。】
この議論を見ていた和気〔わけ〕の弘世と真綱の二人の兄弟は、「霊鷲山で説法の妙法を南岳大師が聞き、総持の妙悟を天台大師によって開かれた。

【一乗の権滞〔ごんたい〕を慨〔なげ〕き、三諦の未顕を悲しむ」等云云。】
その一仏乗であると思っていた仏教が権経であったことを嘆き、三諦円融では、なかった事を深く悲しむものである。」と言っているのです。

【又十四人の云はく「善議等牽〔ひ〕かれて休運に逢〔あ〕ひ、乃〔すなわ〕ち奇詞〔きし〕を閲〔けみ〕す。】
また六宗派の十四人は「善議などは、幸いにも運に恵まれて最澄の素晴らしい奥義を聞く事が出来た。

【深期〔じんご〕に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云。】
これは、過去世からの深い因縁でなければ、どうしてこの正しい事に巡り逢う事が出来るでしょうか。」と言いました。

【此の十四人は華厳宗の法蔵・審祥〔しんじょう〕、三論宗の嘉祥〔かじょう〕・観勒〔かんろく〕、法相宗の慈恩・道昭、】
この14人は、華厳宗の法蔵、審祥、三論宗の嘉祥、観勒、法相宗の慈恩・道昭、

律宗道宣・鑑真等の漢土日本の元祖等の法門、】
律宗道宣、鑑真などの中国と日本におけるそれぞれの宗派の元祖の法門を伝えて来た事は、

【瓶〔かめ〕はか〔替〕はれども水は一つなり。】
瓶〔びん〕は変わっても中の水は変わらず一つであるように、人は変わっても中身はまったく同じなのです。

【而るに十四人、彼の邪義をすてゝ伝教の法華経に帰伏しぬる上は、】
この14人は、それぞれの宗派の邪義を捨てて、伝教の法華経に帰依しているのに

【誰の末代の人か、華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。】
その後に誰が、華厳経般若経、深密経は、法華経より優れていると言うのでしょうか。

【小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。】
当然、小乗経の成実宗倶舎宗律宗の三宗は、この人々が学んで来たものであり、

【大乗の三宗破れぬる上は、沙汰〔さた〕のかぎりにあらず。】
この大乗経の華厳経般若経、深密経が法華経に敗れた以上は、それらも当然、敗れているのです。

【而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。】
しかし、現在においてもそれを知らない者は、六宗派は、未だ敗れていないと思っているのです。

【譬へば盲目〔めしい〕が天の日月を見ず、聾人〔みみしい〕が雷〔いかずち〕の音をきかざるがゆへに、】
それは、目の見えない者が空の日月を見ずに、また、耳が聞こえない者が雷の音を聞かずに、

【天には日月なし、空に声なしとをも〔思〕うがごとし。】
空に日月もなく、空に音が鳴っていないと思っているのと同じなのです。

第12章 伝教大師真言破折

真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正〔げんしょう〕天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。】
真言宗と言うのは、日本の第44代元正天皇の時代に善無畏三蔵が中国から来て大日経を渡して、それを弘通せることなく中国へ戻ったのです。

【又玄昉〔げんぼう〕等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清〔とくしょう〕大徳わたす。】
また、玄昉などの僧侶が唐に行って大日経義釈14巻を日本に伝え、また、東大寺の得清大徳という僧侶も真言を日本に伝えました。

【此等を伝教大師御らんありてありしかども大日経法華経の勝劣いかんがとをぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、】
これらを伝教大師は見て、はたして大日経法華経に優れているのだろうかと不審に思い、

【去ぬる延暦〔えんりゃく〕二十三年七月御入唐〔にっとう〕、】
去る延暦23年7月に唐に行き、

西明寺の道邃〔どうずい〕和尚、仏瀧〔ぶつろう〕寺の行満等に値ひ奉りて止観円頓の大戒を伝受し、】
西明寺の道邃和尚や仏瀧寺の行満などに会って法華経の摩訶止観の法門と円頓の大戒を伝受して、

【霊感寺の順暁〔じゅんぎょう〕和尚に値ひ奉りて真言相伝し、同じき延暦二十四年六月に帰朝し、】
さらに霊感寺の順暁和尚に会って真言相伝し、同じく延暦24年6月に日本に帰って来て、

桓武天王に御対面、宣旨〔せんじ〕を下して六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。】
桓武天王に対面し、天皇の命令によって六宗派の学生達に法華経の摩訶止観と真言を教え、これを七大寺に置いたのです。

真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多くの子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とか〔書〕きたれども、】
真言と摩訶止観の二宗派の優劣は、中国においても多くの議論があり、大日経義釈にも一念三千について理同事勝と書かれているけれども、

伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経法華経には劣りたりと知ろしめして、八宗とはせさせ給はず。】
伝教大師は、これらは、すべて善無畏三蔵の誤りであって、大日経は、法華経に劣っており、真言宗を入れて七宗派から八宗派にはしなかったのです。

真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。】
このように真言宗の名を削って天台宗を六宗派に入れて七宗派とし、大日経をこの天台宗の証明とし、華厳、大品般若、涅槃等と同列に扱ったのです。

【而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を、我が国に立てう立てじの諍論〔じょうろん〕がわづらはしきに依りてや、】
しかし、当時は、大事な円頓の大乗別受戒の大戒壇を日本に建てるか建てないかという議論があった為か、

真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをし〔教〕え給はざりけるか。】
同じく一念三千を説く真言宗天台宗の優劣については、それほど明確にはそれを教える事がなかったのです。

【但し依憑集〔えひょうしゅう〕と申す文〔ふみ〕に、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸〔ぬす〕みとりて、大日経に入れて理同とせり。】
ただし、依憑集の中の文章に、正しくは、真言宗は、天台宗の一念三千の正義を盗み、大日経に入れて理同と言っているのであると書かれています。

【されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。】
そうであれば当然、真言宗は、天台宗に敗れているのです。

【いわ〔況〕うや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に値ひ奉りし時、】
いわんや不空三蔵は、善無畏、金剛智の入滅の後にインドに行き、竜智菩薩に会った時に、

月氏には仏意〔ぶっち〕をあきらめたる論釈なし。】
インドには、釈迦牟尼仏の本意をあらわした経論や解釈書がない。

【漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび、偏円をあきらめたる文〔ふみ〕にては候なれ。】
中国には、天台大師と言う優れた人がいて、その解釈書こそ正邪をわきまえ、まったく矛盾がない文章であると告げて、

【あなかしこ、あなかしこ、月氏へ渡し給へとねんごろにあつら〔誂〕へし事を、】
竜智菩薩は、それを聞いて、願わくばそれをインドに持って来て欲しいと必死に頼んだのを、

【不空の弟子含光〔がんこう〕といゐし者が妙楽大師にかた〔語〕れるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。】
不空の弟子である含光と言う者が、妙楽大師に語った事が法華文句記十巻の末にあり、それをこの依憑集に記載されているのです。

法華経大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然〔けんねん〕なり。】
このように大日経法華経に劣るという伝教大師の意志が明らかなのです。

【されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には、】
そうであればこそ、釈迦如来、天台大師、妙楽大師、伝教大師の意志は、同じであり、大日経などの一切経の中で、

法華経はすぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心もかくのごとし。】
法華経が最も優れている事は分明なのです。それはまた真言宗の元祖というべき竜樹菩薩の意志もまた同じなのです。

大智度論を能〔よ〕く能く尋ぬるならば、此の事分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて、此の事に迷惑せるか。】
大智度論を読んでみると、この事は明らかなのに、不空の間違った菩提心論に人々はすっかりばかされて、この事に未だに迷い惑い続けているのです。

第13章 弘法の真言伝弘

【又石淵〔いわぶち〕の勤操僧正〔ごんそうそうじょう〕の御弟子に空海と云ふ人あり。後には弘法大師とがう〔号〕す。】
大和国奈良県)石淵寺の勤操僧正の弟子に空海と言う者が居ました。後には、弘法大師と名乗ります。

【去ぬる延暦廿三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子、】
去る延暦23年5月12日に唐に渡り、中国においては金剛智三蔵、善無畏三蔵の第三代目の弟子、

【恵果〔けいか〕和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城〔へいぜい〕天王の御宇なり。】
恵果和尚に金剛界胎蔵界両界曼荼羅を伝受され、大同2年10月22日に日本へ帰って来ました。平城天皇の時代の事です。

桓武〔かんむ〕天王は御ほうぎょ〔崩御〕、平城天王に見参〔げんざん〕し御用ひありて御帰依他にこと〔異〕なりしかども、】
その時には、すでに桓武天皇は、亡くなっており、平城天皇に会い、天皇も深く弘法を信用して帰依され、しばらくは何事もなかったようですが、

【平城ほどもなく嵯峨〔さが〕に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れて有りし程に、】
その平城天皇も退位され、嵯峨天皇が即位しましたが、やはり弘法を深く信じ、

伝教大師は嵯峨の天王、弘仁〔こうにん〕十三年六月四日御入滅、】
伝教大師嵯峨天皇の時代、弘仁13年6月4日に入滅しました。

【同じき弘仁〔こうにん〕十四年より、弘法大師、王の御師となり、真言宗を立てゝ東寺を給ひ、真言和尚とがう〔号〕し、此より八宗始まる。】
同じく弘仁14年より、弘法大師は、嵯峨天皇の師となり、真言宗を立てて東寺をもらい、真言和尚と名乗って、これから八宗派が始まるのです。

【一代の勝劣を判じて云はく、第一真大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。】
そして釈迦牟尼仏一代の経の優劣を第一は真言大日経、第二は華厳経、第三は法華経や涅槃経などとしました。

法華経阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経大日経に望むれば戯論〔けろん〕の法なり。】
法華経は、阿含経や方等経、般若経などに対すれば真実の経であるけれども、華厳経大日経に対しては、まったく、つまらない理論の法である。

【教主釈尊は仏なれども、大日如来に向かふれば無明〔むみょう〕の辺域〔へんいき〕と申して、皇帝と俘囚〔えびす〕とのごとし。】
教主釈尊は、仏ではるけれども大日如来に対しては、無明の辺域と言って皇帝と捕虜のような関係であるとしました。

【天台大師は盜人なり、真言の醍醐〔だいご〕を盜んで、法華経を醍醐というなんどか〔書〕ゝれしかば、】
さらに天台大師は、盜人〔ぬすっと〕であり真言の奥義を盜んで法華経の奥義と言っていると書きつらね、

法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。】
法華経は、優れていると言いながら、弘法に会うと法華経も物の数にもあらずと言っているのです。

【天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が、法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、】
インドの外道はさておいて、中国の南三北七が法華経は、涅槃経に対すれば邪見の経だと言ったことよりも大きな間違いであり、

華厳宗が、法華経華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。】
華厳宗法華経は、華厳経に対すれば枝葉末節の経であるとした事よりも甚だしい間違いであるのです。

【例へば彼の月氏の大慢〔だいまん〕婆羅門〔ばらもん〕が大自在天〔だいじざいてん〕・那羅延天〔ならえんてん〕・婆薮天〔ばそてん〕・】
たとえばインドの大慢バラモン大自在天那羅延天、婆薮天、

【教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。】
さらに教主釈尊の四人の像を高座の足として、その上に昇って邪法を弘めたのと同じなのです。

伝教大師御存生〔ぞんしょう〕ならば、一言は出〔い〕だされべかりける事なり。】
もし、伝教大師さえ生きていたならば、必ず一言のもとに破折されたのに違いないのです。

【又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。】
また、伝教大師の弟子である義真や円澄、慈覚、智証なども、どうしてこれを不審に思い破折しなかったのでしょうか。

【天下第一の大凶なり。】
これこそ世の中で最大の災いであり、間違いではないでしょうか。

第14章 慈覚の真言転落

【慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐〔にっとう〕、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をならう。】
慈覚大師は、去る承和5年に中国の唐に入って、そこに十年の間、留学して天台と真言の二つの宗派を学びました。

【法華・大日経の勝劣を習ひしに、法全〔はっせん〕・元政〔げんせい〕等の八人の真言師には、】
法華経大日経の優劣について法全や元政などの八人の真言師に尋ねたところ、

法華経大日経は理同事勝等云云。】
法華経大日経とでは、理論は同じであるけれど、事実上の本尊においては、真言が優れていると言われたのです。

天台宗の志遠〔しおん〕・広修〔こうしゅ〕・維□〔ゆいけん〕等に習ひしには、大日経は方等部の摂〔しょう〕等云云。】
また、天台宗の志遠や広修、維□などに尋ねると、大日経は、釈迦一代の説教の中で第三の方等部の部類で法華経に劣ると言われたのです。

【同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨〔せんじ〕下る。】
こうやって同じく承和13年9月10日に日本に帰って、嘉祥元年6月14日に真言灌頂〔かんちょう〕の天皇の命令が出たのです。

【法華・大日経等の勝劣は、漢土にしてし〔知〕りがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏〔しょ〕七巻、】
法華経大日経の優劣について中国に行ったもののそれが未だにわからずに、金剛頂経の疏七巻、

【蘇悉地〔そしっじ〕経の疏七巻、已上十四巻。】
蘇悉地経の疏七巻の十四巻を書いて、それを天皇に奏上〔そうじょう〕したのです。

【此の疏の心は、大日経金剛頂経蘇悉地経の義と、法華経の義は、其の所詮の理は一同なれども、】
その疏の意味するところは、大日経金剛頂経蘇悉地経の意義と、法華経の意義は、理論は、同じであるが、

【事相の印と真言とは、真言の三部経すぐれたりと云云。】
事実上の姿である、印と真言において、真言の三部経の方が優れている事なのです。

【此は偏〔ひとえ〕に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。】
これは、ひとえに善無畏、金剛智、不空三蔵の言っていた事であり、大日経の疏の意味するところだったのです。

【然れども、我が心に猶〔なお〕不審やのこりけん。】
しかしながら、慈覚大師も心になお不審が残っていたのか、

【又心にはと〔解〕けてんけれども、人の不審をは〔晴〕らさんとやをぼしけん。】
また心では、そのように決心していたけれども、他人の不審を晴らそうとしたのか、

【此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて、御祈請〔きしょう〕ありき。】
この十四巻の解釈書を本尊の前に置いて、どちらが優れているか教えて欲しいと祈祷したのです。

【かくは造りて候へども仏意計りがたし。】
このように十四巻の解釈書を作ったけれども仏の心は、理解しがたいと言うのです。

【大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされると御祈念有りしかば、五日と申す五更〔ごこう〕に忽〔たちま〕ちに夢想あり。】
大日経が優れているのか法華経がすぐれているのかと必死に祈念していると、五日後の午前四時頃に夢を見たのです。

【青天に大日輪か〔懸〕ゝり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛んで天〔そら〕にのぼり、日輪の中に立ちぬ。】
それは、青い空に大きな太陽があって弓矢でそれを射ると矢は空を飛んで太陽に突き刺さったと言うのです。

【日輪動転してすでに地に落ちんとすとをも〔思〕ひて、う〔打〕ちさ〔覚〕めぬ。
そしてその太陽がまさに地面に落ちようとする時に夢から覚めたのでした。

【悦んで云はく、「我に吉夢あり。法華経真言勝れたりと造りつるふみ〔文〕は仏意に叶ひけり」と悦ばせ給ひて、】
それによって「良い夢を見た。法華経よりも真言が優れているという解釈書が、ようやく仏の意志にかなったことがわかった。」と喜んで、

【宣旨を申し下して日本国に弘通あり。】
天皇の許可をもらい、それが日本中に広がったのでした。

【而も宣旨の心に云はく「遂に知んぬ、天台の止観〔しかん〕と真言の法義とは理冥〔みょう〕に符〔あ〕へり」等云云。】
しかし、その許可の言葉の意味するところは、「天台の摩訶止観と真言の法の意義は、理論においては符合する。」と言うものであり、

【祈請のごときんば、大日経法華経は劣なるやうなり。宣旨を申し下すには法華経大日経とは同じ等云云。】
慈覚大師の言っている意味は、大日経法華経は劣ると言っているのです。しかし、天皇の許可は、法華経大日経は同じであると言っているのです。

第15章 智証の真言転落

【智証大師は本朝にしては、義真〔ぎしん〕和尚・円澄〔えんちょう〕大師〔たいし〕・別当〔べっとう〕・慈覚〔じかく〕等の弟子なり。】
智証大師は、日本の義真和尚や円澄大師、別当の光定、慈覚大師などの弟子です。

【顕密の二道は、大体此の国にして学し給ひけり。】
そうであるから、当然、顕教密教に二つの違いについては、だいたい日本にいる間に学んでいた事でしょう。

【天台・真言の二宗の勝劣の御不審に、漢土へは渡り給ひけるか。】
しかし、天台と真言の宗派の優劣については、未だに不明で中国へ渡ったのでしょうか。

【去ぬる仁寿〔にんじゅ〕二年に御入唐、漢土にしては、真言宗は法全〔ほっせん〕・元政〔げんせい〕等にならはせ給ひ、】
去る仁寿2年に中国に着いて、そこでは、真言宗の法全や元政などに学び、

【大体大日経法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。】
やはり大日経法華経とは、理論は同じであるが事実の上においては、真言が上であると思ったのは慈覚大師と同じでした。

天台宗は良□〔りょうしょ〕和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ばず等云云。】
天台宗では、良□〔りょうしょ〕和尚に学びました。そこでは、大日経は、華厳経法華経には及ばずと言われたのです。

【七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日御帰朝。】
七年間、中国に留学し、去る貞観元年5月17日に日本に帰って来ました。

大日経の旨帰〔しき〕に云はく「法華尚及ばず、況んや自余の教をや」等云云。】
大日経についての帰国の報告に「法華経ですら大日経にはかなわない。ましてや他の経など問題ではない。」などと言っているのです。

【此の釈は法華経大日経には劣る等云云。】
この意味するところは、法華経大日経に劣ると言うものです。

【又授決集に云はく「真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門〔しょういんもん〕なり」等云云。】
また、授決集には、「真言宗禅宗は、華厳経法華経、涅槃経を理解する為のものである。」などとも述べています。

【普賢経の記・論の記に云はく「同じ」等云云。】
同時に智証大師が著した普賢経の記や論の記にも、それと同じ事が書かれています。

貞観八年丙戌四月廿九日壬申、勅宣を申し下して云はく】
貞観8年4月29日に天皇の命令に答えて

【「如聞〔きくならく〕、真言・止観両教の宗、同じく醍醐と号し、倶〔とも〕に深祕〔じんぴ〕と称す」等云云。】
「いわゆる真言と摩訶止観の両宗派は、同じく仏教の真髄であり、ともに仏教における深秘の法門である。」と述べています。

【又六月三日の勅宣に云はく「先師既に両業を開いて以て我が道と為〔な〕す。】
さらに6月3日の命令には、「伝教大師は、既にこの止観業と遮那〔しゃな〕業の両業を開いて、天台宗の修行と定めております。

【代々の座主〔ざす〕相承〔そうじょう〕して兼ね伝へざること莫〔な〕し。在後の輩、豈〔あに〕旧迹〔きゅうせき〕に乖〔そむ〕かんや。】
それを代々の座主が相承しており、それ以外を伝えて来なかったと言う事はないのですから、その後の者が、それをとやかく言う事は出来ないのです。

【如聞、山上の僧等、専ら先師の義に違いて偏執〔へんしゅう〕の心を成す。】
聞くところによると、比叡山の僧は、天台大師のこの言葉に背いて勝手な事を言っているようですが、

【殆〔ほとん〕ど余風を扇揚〔せんよう〕し、旧業を興隆するを顧みざるに似たり。】
それは、ほとんど真言宗を宣伝し、天台宗のかつての興隆を顧みない態度と言わざるを得ないのです。

【凡〔およ〕そ厥師資〔そのしし〕の道、一を欠〔か〕くも不可なり。伝弘の勤め寧〔むし〕ろ兼備せざらんや。】
およそ、師から伝わって来た止観業と遮那業の両業の道の一つでも欠いてはいけないのであり、それを両方とも間違いなく伝える事が大事なのです。

【今より以後、宣しく両教に通達〔つうだつ〕するの人を以て延暦寺の座主と為し、立てゝ恒例と為すべし」云云。】
これからは、顕教である摩訶止観と密教である真言、遮那業の両方に秀でた者を延暦寺に座主として両業を立てる事とすると言ってるのです。

第16章 慈覚智証を破責す

【されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値〔あ〕ひて有りしかども、】
もともと、慈覚と智証の二人は、伝教大師、義真の弟子であり、ともに中国に渡って天台、真言を学んでいるにもかかわらず、

【二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、】
天台と真言の二宗派の優劣については、理解が及ばずに、ある時は、真言が優れていると言い、ある時は、法華経が優れていると言い、

【或は理同事勝等云云。】
また、ある時は、理論は同じだけれども、事実の上では真言が優れているなどと言っているのです。

【宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は、違勅の者といましめられたり。】
そして、天皇がこのように決めているのに未だに二宗派の優劣を論ずる者は、天皇の命令にそむく者であると言う始末なのです。

【此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用いじと見へて候。】
これらは、すべて自語相違であって他宗派の者から見れば、まったく信用出来ない滅茶苦茶な話なのです。

【但し二宗の斉等とは、先師伝教大師の御義と、宣旨に引き載せられたり。】
さらに、この二宗派が共に正しいと言う事は、師である伝教大師の意志であり、天皇の命令に依ると慈覚と智証が、みんなに言っているのですが、

【抑〔そもそも〕伝教大師何〔いず〕れの書にかゝれて候ぞや、此の事よくよく尋ぬべし。】
そもそも、それが伝教大師の意志であると、どの文書に書かれているのでしょうか。この事は、よくよく調べてみなければなりません。

【慈覚・智証と日蓮とが、伝教大師の御事を不審申すは、】
この慈覚、智証に対して日蓮がこの伝教大師の意志について疑問を呈〔てい〕することは、

【親に値〔あ〕ふての年あらそひ、日天に値ひ奉りての目くらべにては候へども、】
子と親の年齢をどちらが多いのかを言い争い、どちらが太陽を長く目で見つめる事が出来るのかを争う事に近いけれども、

【慈覚・智証の御かたふど〔方人〕をせさせ給はん人々は、分明なる証文をかまへさせ給ふべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。】
やはり、慈覚、智証の言い分を通す人々は、明らかなる証拠を見せ、それが十分に信用に足る事と証明すべきなのです。

玄奘〔げんじょう〕三蔵は月氏の婆沙論〔ばしゃろん〕を見たりし人ぞかし。】
玄奘三蔵は、インドの婆沙論を実際に読んで、それを翻訳した人なのに、

【天竺〔てんじく〕にわたらざりし宝法師〔ほうほっし〕にせめられにき。】
インドに行った事がないことで自分の弟子である宝法師に、ほんとうに読んだのかと疑われました。

【法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、嘱累〔ぞくるい〕の先後をば漢土の人み〔見〕ねども、】
法護三蔵は、インドで法華経を見て、それを正法華経として翻訳したけれども、それには嘱累品が最後で後はなく、

【誤りといゐしぞかし。】
鳩摩羅什三蔵の翻訳した妙法蓮華経では、第22品としてあり、中国の人々は、それで妙法蓮華経を間違いだと言いました。

【設ひ慈覚の伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証大師は義真和尚に口決〔くけつ〕せりといふとも、】
たとえ慈覚が伝教大師に会って、それを学び伝えたとしても、また、いくら智証大師が義真和尚にそれを教えたと言っても、

【伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。】
伝教大師や義真の書いた文章と違っていれば、それは、まったく信用出来ないでしょう。

伝教大師の依憑集〔えひょうしゅう〕と申す文〔ふみ〕は大師第一の祕書なり。】
伝教大師の著〔あらわ〕した依憑集と言う文章は、伝教大師の第一の重要な文書であり、

【彼の書の序に云はく「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯〔ほろ〕ぼし、】
この書物の序分には、「新しく来た真言師は、真言よりも天台が優れているとした大日経疏に書いてある内容を無視して、

【旧到〔くとう〕の華厳家は則ち影響〔ようごう〕の軌範を隠し、】
旧来の華厳宗は、天台が極めて優れているので、その影響を受け、それを模範〔もはん〕とした事実を隠して、

【沈空の三論宗は弾呵〔だんか〕の屈恥〔くっち〕を忘れて】
円融三諦を知らずに空理に執着した三論宗の嘉祥は、天台宗の17歳の法盛に、それを論破された屈辱を忘れ、

【称心〔しょうしん〕の酔ひを覆〔おお〕ふ。】
さらに称心に住んでいた章安大師の講義に感激した事をひた隠し、

【著有〔じゃくう〕の法相は濮陽〔ぼくよう〕の帰依を非〔なみ〕し、】
万法唯識、境無心有、五性各別を説く法相宗は、濮陽に住んでいた法相宗の智周が天台宗に帰依した事実を否定し、

青竜の判経を払〔はら〕ふ等。】
法相宗青竜寺の良□〔せき〕が仁王経の解釈をする時に、従来の法相宗の教義に従わずに天台宗の経論に頼った事を忘れているのです。

【乃至、謹んで依憑集一巻を著〔あら〕はして同我の後哲〔こうてつ〕に贈る。】
この事実を、謹んでこの依憑集一巻に著し、私と同じく天台宗を学ぶ者に贈ります。

【其〔それ〕時〔とき〕興〔おこ〕ること、日本第五十二葉〔よう〕弘仁の七丙申〔ひのえさる〕の歳なり」云云。】
日本国の第52代の弘仁7年に執筆。」と書かれているのです。

【次下〔つぎしも〕の正宗に云はく「天竺の名僧、大唐〔だいとう〕天台の教迹最も邪正を簡〔えら〕ぶに堪〔た〕へたりと聞いて、】
その次の本文には、「インドの名僧が言うのには中国の天台大師の教相判釈が最も正邪を決するには優れていると伝え聞いて、

【渇仰〔かつごう〕して訪問す」云云。】
それを是非、学びたいと思って訪問した。」と書いてあります。

【次下に云はく「豈中国に法を失って之を四維〔しい〕に求むるに非ずや。】
またその次には「仏法の中心の国であるはずのインドでは、その仏法が失われて、その仏法を四方の国々である中国に求めなければならない。

【而も此の方に識〔し〕ること有る者少なし。魯人〔ろひと〕の如きのみ」等云云。】
しかも、この事を知る中国の人々は、少ないのです。まるで魯の国の人が自分の国の孔子を知らないようなものなのです。」と書かれています。

【此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり。】
この依憑集という書物は、法相宗三論宗華厳宗真言宗の四宗派を破折している文章なのです。

【天台・真言の二宗同一味ならば、いかでかせめ候べき。】
もし、天台宗真言宗の二宗派がどちらも正しいのであるならば、どうして、このように破折する必要があるのでしょうか。

【而も不空〔ふくう〕三蔵等をば、魯人のごとしなんどかゝれて候。】
しかも不空三蔵を、孔子の偉大さがわからなかった無知な魯の国の人とまで書かれているのです。

【善無畏〔ぜんむい〕・金剛智〔こんごうち〕・不空の真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口〔あっく〕あるべき。】
善無畏、金剛智、不空三蔵の真言宗が優れているのなら、どうして無知な魯の国の人と悪く言われる必要があるのでしょうか。

【又天竺の真言天台宗に同じきも、又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空にあつらへ、】
また、インドの真言が、天台宗と同じか優れているのならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に天台宗を調査させて、

【中国に正法なしとはいうべき。】
仏法の中心の国であるインドに正法がないなどと言うでしょうか。

【それはいかにもあれ、慈覚〔じかく〕・智証〔ちしょう〕の二人は、言〔ことば〕は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、】
いずれにしても慈覚、智証の二人は、表面では、伝教大師の弟子と名乗ってはいますが、

【心は御弟子にあらず。】
その心は、まったく伝教大師の意志に従ってはいないのです。

【其の故は此の書に云はく「謹んで依憑集一巻を著〔あら〕はして、同我の後哲に贈る」等云云。】
それは、この依憑集に「この依憑集一巻を謹んで著し、私と同じく天台宗を学ぶ者に贈る。」と書いてあるからなのです。

【同我の二字は、真言宗天台宗に劣るとならひてこそ同我にてはあるべけれ。】
この私と同じくの文字は、真言宗は、天台宗に劣ると学んでこそ私と同じくと言えるのです。

【我と申し下さるゝ宣旨に云はく「専ら先師の義に違ひ偏執の心を成す」等云云。】
慈覚大師に下〔くだ〕された天皇の文書には「もっぱら先師の意志に違背し間違った心をなす」と言われているのです。

【又云はく「凡〔およ〕そ厥〔その〕師資の道、一を欠けても不可なり」等云云。】
また「およそ子弟の道と言うものは、一つ欠けても成り立たない」とも言われているのです。

【此の宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ。】
この天皇の文書が正しいのならば、慈覚や智証こそ、師である伝教大師に背く者と言えるのです。

【か〔斯〕うせ〔責〕め候もをそ〔恐〕れにては候へども、此をせめずば大日経法華経の勝劣やぶれなんと存じて、】
このように責める事は、まことに恐れ多い事ではあるけれども、これを責めなければ大日経法華経の優劣が間違って伝えられると思って

【いのちをまと〔的〕にかけてせめ候なり。】
命を懸けて法華経が優れていると大日経を責めているのです。

【此の二人の人々の、弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候ひけるなり。】
このように伝教大師に背いた慈覚、智証の二人が、弘法大師の邪義を責めなかったのは、まことに当然の事なのです。

【されば粮米〔ろうまい〕をつくし、人をわづ〔煩〕らはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、】
そうであれば、多くの費用を使って、人々が苦労して、この二人が中国へ渡って留学するよりも、

【本師伝教大師の御義をよくよくつ〔尽〕くさせ給ふべかりけるにや。】
自分の師である伝教大師の書かれた事を比叡山で徹底して学ぶ事の方が重要であったのです。

【されば叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。】
そうであれば比叡山の仏法は、ただ伝教大師、義真和尚、円澄大師の三代の時代までで、その後の天台の座主は、みんな真言となってしまったのです。

【名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。】
ただ名前と所領は、天台宗のものであり、その主は、真言師であり、慈覚、智証は、前代未聞の経文である法華経を破壊した者であり、

【已今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。】
このような釈迦牟尼仏一代聖教の前代未聞の経文である法華経を破壊した者は、まさに釈迦、多宝、十方の諸仏の怨敵であるのです。

弘法大師こそ第一の謗法の人とをも〔思〕うに、これはそれにはに〔似〕るべくもなき僻事〔ひがごと〕なり。】
弘法大師こそが最大の謗法の者と思っていたのは、これは間違いであって、慈覚、智証こそ、それ以上の大僻見〔だいびゃっけん〕の者であるのです。

【其の故は、水火天地なる事は僻事なれども人用ふる事なければ、其の僻事成ずる事なし。】
なぜかと言うと、水と火、天と地などは、まったく違うので、たとえ、これを同じであると主張する者がいても、誰も信じずに何の問題もないのです。

弘法大師の御義はあまり僻事なれば、弟子等も用ふる事なし。】
弘法大師が主張している事は、あまり馬鹿げている事なので、弘法の弟子でさえも誰も信じなかったのです。

【事相計〔ばか〕りは其の門家なれども、】
しかし、真言宗の祈祷などの行事で使う、印や真言などは、弘法大師の法義に乗っ取って行い、

【其の教相の法門は、弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり。】
その教義についての法門は、弘法の間違いに従う事が出来ずに、善無畏、金剛智、不空、慈覚、智証の言葉を用いているのです。

【慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう。】
つまり、天台宗の慈覚、智証が、真言と天台とは理論は同じなどと言うから、人々は、それを信じてしまったのです。

【か〔斯〕うをも〔思〕うゆへに事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像〔えぞう〕木像の開眼〔かいげん〕の仏事をねらはんがために、】
このように人々が思った故に、天台宗の人々さえ、行事に優れているという弘法大師の印と真言を用いて、画像、木像の開眼の仏事を行ったのです。

【日本一同に真言宗にを〔堕〕ちて、天台宗は一人もなきなり。】
こうやって日本国がすべて真言宗に堕ちて、天台宗は、誰一人いなくなったのです。

【例せば法師と尼と、黒きと青きとはまが〔紛〕ひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。】
これは、髪を剃った法師と尼とを、黒と紺のように、暗い場所では見分けがつかず間違ってしまうのと同じなのです。

【僧と男と、白と赤とは目くらき人も迷はず、いわ〔況〕うや眼あきらかなる者をや。】
それでも髪を剃った僧と髪を伸ばした男は、白と赤と同じでいくら暗い場所でも迷うことなく、明るい場所では、絶対に間違えない事と同じなのです。

【慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒きと青きとがごとくなるゆへに、智人も迷ひ、愚人もあやまり候ひて、】
慈覚、智証の言い分は、法師と尼であり、黒と紺のようであるから、智慧が有る人も迷い、愚人は、なおさら間違って信じてしまうのです。

【此の四百余年が間は叡山〔えいざん〕・園城〔おんじょう〕・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州、皆謗法の者となりぬ。】
この四百余年の間に比叡山を筆頭に、園城寺、東寺は、もちろん、奈良、近畿、七道の諸寺も、日本全国すべてが謗法の真言の者となったのです。

第17章 法華最勝の経釈

【抑〔そもそも〕法華経の第五に「文殊師利〔もんじゅしり〕、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」云云。】
もともと、法華経の第五巻に「文殊師利菩薩よ、この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵であり、諸経の中で最もその上にあり。」と説かれているのです。

【此の経文のごとくならば、法華経大日経等の一切経の頂上に住し給ふ正法なり。】
この経文通りであれば法華経は、大日経などすべての経の最上位にある正しい経文であることは間違いない事なのです。

【さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかん〔如何〕が会通〔えつう〕せさせ給ふべき。】
そうであれば善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証などは、この経文をどうやって矛盾なく説明するのでしょうか。

法華経の第七に云はく「能〔よ〕く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是〔か〕くの如し。】
法華経の第七巻には、「よく、この経典を受持することが出来る者も、またまた、これと同じである。

【一切衆生の中に於て亦為〔こ〕れ第一なり」等云云。】
一切衆生の中において、またこれ第一の人である。」と説かれているのです。

【此の経文のごとくならば、法華経の行者は川流〔せんる〕江河の中の大海、衆山の中の須弥山〔しゅみせん〕、衆星の中の月天、】
この経文の通りであれば法華経の行者は、川が流れ下る大海、山の中の須弥山、星の中の月、

【衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。】
明かりの中の太陽、諸王の中の梵天王であると言えるのです。

伝教大師の秀句〔しゅうく〕と申す書に云はく「此の経も亦復是くの如し。乃至、諸の経法の中に最も為れ第一なり。】
伝教大師の法華秀句と言う書物には「この経も、またまた、これと同じなのです。諸々の経文の中で最もこれが第一なのです。

【能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。】
また、法華経をよく受持する者は、またまた同じであるのです。

【一切衆生の中に於て、亦為れ第一なり」已上経文なりと引き入れさせ給ひて、次下に云はく「天台法華玄に云はく」等云云已上玄文と、】
すべての衆生の中で、この人は、第一の衆生である」という経文と言われ、さらに、その次には「天台法華玄にいわく」とその原文にはと、

【かゝせ給ひて、上の心を釈して云はく「当〔まさ〕に知るべし、他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。】
書かれていて、それには、「まさに知るべきである。他宗の経文は、未だ第一の経文ではない。

【其の能く経を持つ者も、亦未だ第一ならず。】
また、その経文を受持する者も未だ第一ではない。

天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。】
天台法華宗が所持する法華経が、最も第一である故に、この法華経を受持する者がまた、衆生の中の第一なのである。

【已に仏説〔ぶっせつ〕に拠〔よ〕る、豈〔あに〕自歎〔じたん〕ならんや」等云云。】
これは、仏の説であって、けっして自画自賛ではない。」と書かれているのです。

【次下に譲る釈に云はく「委曲の依憑〔えひょう〕、具〔つぶさ〕に別巻に有るなり」等云云。】
同じ法華秀句の巻末には、「各宗が拠りどころとする天台大師の法門の委細については、別巻につぶさに書いている」と書かれており、

【依憑集に云はく「今吾が天台大師、法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す。】
実際に依憑集には、「今、我が天台大師が法華経を説き、法華経を解釈することは、南三北七の僧達よりも、極めて優れ、中国随一である。

【明らかに知んぬ、如来の使ひなりと。讃〔ほ〕めん者は福を安明〔あんみょう〕に積み、】
この人こそ、まさに如来の使いであるのです。従って、この人を信じて学ぶ者は、幸〔さいわ〕いを須弥山のように高く積み、

【謗〔そし〕らん者は罪を無間〔むけん〕に開かん」等云云。】
謗って信じない者は、その罪によって無間地獄に堕ちる。」と書かれているのです。

第18章 法華経の三国三師

法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。】
法華経が天台大師、妙楽大師、伝教大師が解釈した通りの心であれば、今、日本には、法華経の行者は、誰一人いないことになります。

月氏には教主釈尊、宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、】
インドには、教主釈尊がいて、その宝塔品の時にすべての仏を集めて大地の上に座らせて、

大日如来計り宝塔の中の南の下座にす〔居〕へ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。】
大日如来だけが、宝塔の中の南の下座に座って、教主釈尊は、北の上座に座られたのです。

【此の大日如来大日経胎蔵界〔たいぞうかい〕の大日・金剛頂経金剛界の大日の主君なり。】
この大日如来は、大日経で説かれた胎蔵界大日如来金剛頂経で説かれた金剛界大日如来の主君であるのです。

【両部の大日如来を郎従〔ろうじゅう〕等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。】
この両界の大日如来を家来とする大日如来を多宝仏と呼んで下座に置き、、その上座に教主釈尊が座られるのです。

【此即ち法華経の行者なり。天竺かくのごとし。】
これは、すなわち、法華経の行者の事なのです。釈迦牟尼仏法華経を説かれたインドであっても、このようであるのです。

【漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて、現身に大師となる。】
中国では、陳帝の時代に天台大師が南三北七に法論に勝って現実に大師となりました。

【「群に特秀し唐に独歩す」というこれなり。】
南三北七の僧達よりも、極めて優れ、中国随一であるとは、このことです。

【日本国には伝教大師六宗にせめかちて、日本の始め第一の根本大師となり給ふ。】
日本では、伝教大師が六宗に法論で勝って日本において最初の根本大師となったのです。

月氏・漢土・日本に但三人計りこそ「一切衆生の中に於て亦為〔こ〕れ第一」にては候へ。】
インド、中国、日本の中でこの三人だけが法華経で言うところの「すべての衆生の中においてこれ第一」なのです。

【されば秀句に云はく「浅きは易く深きは難しとは、釈迦の所判なり。】
そうであれば、法華秀句に「浅い教えは、理解し易く、深い教えは、理解し難いとは、釈迦牟尼仏の説いた事です。

【浅きを去って深きに就くは、丈夫〔じょうぶ〕の心なり。】
そうであるならば、浅い教えを去って、深い教えに向かうのが、本当の求道者の心なのです。

【天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦〔しんだん〕に敷揚〔ふよう〕し、叡山の一家は天台に相承して、】
天台大師は、釈迦牟尼仏を信じ従って、法華宗の解釈書を作って中国に広げ、比叡山伝教大師の門弟は、天台大師の後を継いで、

法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。】
法華宗を理解して日本に弘通した。」と伝教大師は、書かれています。

【仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊を加へ奉りて已上三人なり。】
仏滅後一千八百余年の間に法華経の行者は、漢土に一人、日本に一人の二人であり、それに釈尊牟尼仏を加えて以上三人だけなのです。

外典に云はく「聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ。】
外典には、「聖人は、一千年に一度だけ出で、賢人は、五百年に一度だけ出る。

黄河は涇渭〔けいい〕ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年には共に清〔す〕む」と申すは一定にて候ひけり。】
黄河は、涇河〔けいが〕、渭河〔いが〕と流れを別にしているが五百年に一度は片方が澄み、千年に一度は両方が澄む」とされているのです。

第19章 日本に謗者のみあるを明かす

【然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時法華経の行者ましましけり。】
しかるに日本国では、比叡山伝教大師がおられた時代にしか法華経の行者はいませんでした。

【義真〔ぎしん〕・円澄〔えんちょう〕は第一第二の座主なり。】
義真は、その比叡山の第一代の座主で、円澄は、第二代の座主なのですが、

【第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半ばは伝教の御弟子、半ばは弘法の弟子なり。】
義真は、伝教大師の弟子であったが、円澄は、なかば伝教の弟子で、なかばは弘法の弟子なのです。

【第三の慈覚〔じかく〕大師は、始めは伝教大師の御弟子ににたり。】
第三代の慈覚大師になると始めは伝教大師の弟子であったが、

【御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其の跡をばつ〔継〕がせ給へども、法門は全く御弟子にはあらず。】
御年四十歳で中国に渡ってからは、名は伝教の弟子としてその跡を継いだけれども法門は全く弟子とは言えなかったのです。

【而れども円頓〔えんどん〕の戒計りは、又御弟子ににたり。蝙蝠〔へんぷく〕鳥のごとし。】
しかし、まだ円頓戒ばかりは、伝教大師の弟子とも言えました。このように、まるでその姿は、蝙蝠〔こうもり〕のようであったのです。

【鳥にもあらず、ねずみにもあらず、梟鳥禽〔きょうちょうきん〕・破鏡獣〔はけいじゅう〕のごとし。】
それは、蝙蝠〔こうもり〕が鳥でもなくネズミでもなく、まるで母を食らう梟〔ふくろう〕か父を噛んで殺すムジナのようであると言う事なのです。

法華経の父を食らひ、持者の母をか〔噛〕めるなり。】
慈覚大師こそ法華経の師である伝教大師の功績を食らい、その家来である伝教の弟子に噛みつく者なのです。

【日をい〔射〕るとゆめ〔夢〕にみ〔見〕しこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。】
太陽を射ると夢に見るとは、この事であり、そうであれば慈覚大師が死んだ後は、比叡山は、まことに無残な姿であったのです。

【智証〔ちしょう〕の門家園城寺〔おんじょうじ〕と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。】
その後は、智証の門家である園城寺と慈覚の門家である比叡山とが修羅と悪竜のように争いを繰り返し、園城寺を焼き、比叡山を焼いたのです。

【智証大師の本尊慈氏〔じし〕菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかん〔感〕ぜり。】
智証大師の本尊である慈氏菩薩も焼けて、慈覚大師の本尊や大講堂も焼けてしまい、その姿は、まるで無間地獄を現じたようでした。

【但中堂〔ちゅうどう〕計りのこれり。弘法大師も又跡なし。】
この間に唯一、伝教大師が建立された根本中堂だけが残ったのです。また、弘法大師も跡形もなかったのです。

弘法大師の云はく「東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず」等、御いましめの状あり。】
弘法大師が「東大寺において真言密教の受戒をしない者は、東寺の責任者とはしない」と言い残した書状があるのに、

【しかれども寛平〔かんぴょう〕の法王は仁和寺〔にんなじ〕を建立して東寺の法師をうつして、】
第19代宇多天皇が位を譲って寛平法王となって仁和寺を建立し、そこに東寺の真言師を移して、

【我が寺には叡山の円頓戒を持たざらん者をば住せしむべからずと、宣旨〔せんじ〕分明〔ふんみょう〕なり。】
我が仁和寺には、比叡山の円頓戒を受持しない者以外は、住まわせないと厳しい命令を出したのです。

【されば今の東寺の法師は、鑑真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず、戒は伝教の御弟子なり。】
そうであれば、現在の東寺の真言師は、東大寺の鑑真の弟子でもなく、真言密教の弘法の弟子でもなく、比叡山の円頓戒の伝教の弟子なのでしょうか。

【又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。】
いやいや、伝教の弟子でもなく、結局は、伝教大師法華経を破壊しているのです。

【去ぬる承和二年三月廿一日に死去ありしかば、公家〔くげ〕より遺体をばほ〔葬〕らせ給ひ、其の後誑惑〔おうわく〕の弟子等集りて御入定と云云。】
去る承和2年3月21日に弘法が死去すると、公家により遺体を葬〔ほおむ〕ったが、その後、狂った弟子達が集まって生きていると言い出したのです。

【或はかみ〔髪〕をそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷〔さんこ〕をかんど〔漢土〕よりなげたりといゐ、】
そして、あるいは、その遺体の髪を剃ったとか、あるいは、弘法が中国から投げた法具が日本の高野山にあったとか、

【或は日輪夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となり給ふといゐ、】
あるいは、弘法が祈祷したら太陽が夜中に出たとか、あるいは、弘法は、大日如来の化身であるとか、

【或は伝教大師に十八道ををし〔教〕えまいらせたりといゐて師の徳をあげて智慧にかへ、】
あるいは、弘法が伝教大師密教の修行法を教えたのだとか、とにかく狂った弟子達は、弘法を持ち上げる嘘を考えついて、

【我が師の邪義を扶〔たす〕けて王臣を誑惑するなり。】
自分達の師である弘法の邪義を弘め、天皇やその家臣を騙して取り込もうと必死だったのです。

【又高野山に本寺・伝法院といゝし二つの寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。】
また、真言宗高野山には、本寺と伝法院と言う二つの寺があり、本寺は、弘法の建てた大塔の大日如来を本尊としているのです。

【伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。此の本末の二寺昼夜に合戦あり。】
伝法院と言うのは、正覚房が建てた、金剛界大日如来であり、この本末の二寺が常日頃、争い合っているのです。

【例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二つの禍〔わざわい〕の出現せるか。】
それはまるで比叡山園城寺の姿とまったく同じで、長年の間違いが積もりに積もってこのような二つの災いとなって現れたのでしょうか。

【糞〔ふん〕を集めて栴檀〔せんだん〕となせども、焼く時は但糞のか〔香〕なり。大妄語を集めて仏とがう〔号〕すれども、但無間大城なり。】
いくら、糞を集めて香木であると言っても結局はただの糞の臭いしかせず、嘘を集めて仏法と名乗っても、所詮、行きつく先は無間地獄なのです。

【尼□〔にけん〕が塔は、数年が間利生〔りしょう〕広大〔こうだい〕なりしかども、馬鳴〔めみょう〕菩薩の礼をうけて忽〔たちま〕ちにくづれぬ。】
外道の尼□塔は、数年間は利益も多く出たが馬鳴菩薩の礼拝をされたとたん崩れてしまった。

【鬼弁〔きべん〕婆羅門〔ばらもん〕がとばり〔帷〕は、多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙〔あすばくしゃ〕菩薩にせめられてやぶれぬ。】
鬼弁婆羅門の教えを書いた旗は、長く人を騙してきたけれども馬鳴菩薩に簡単に破折されてしまった。

【□留〔くる〕外道〔げどう〕は石となって八百年、陳那〔ちんな〕菩薩にせめられて水となりぬ。】
□留外道は、死ぬのを怖れて八百年の間、化石となったが、陳那菩薩に仏法の文章を書かれると、それが粉々になってしまった。

【道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰〔まとう〕・竺蘭〔じくらん〕にせめられて仙経もやけぬ。】
道士は、数百年の間、中国の人々を騙して、中インドの摩騰迦、竺法蘭に破折されて道教に力がない事がばれてしまった。

【趙高〔ちょうこう〕が国をとりし、王莽〔おうもう〕が位をうばいしがごとく、法華経の位をと〔奪〕て大日経の所領とせり。】
趙高が国を盗み取り、王莽が王位を奪い取ったように、法華経の地位を奪って大日経の所領としたのです。

【法王すでに国に失せぬ、人王あに安穏ならんや。】
法華経が所領を失っているのに、人々の王が安穏でいられるでしょうか。

第20章 日蓮大聖人の国家諌暁

【日本国は慈覚・智証・弘法の流れなり、一人として謗法ならざる人はなし。】
このように日本国は、慈覚、智証、弘法の流派となり、一人として謗法でない者はいなくなったのです。

【但し事の心を案ずるに、大荘厳〔しょうごん〕仏の末、一切明王仏の末法のごとし。】
このような日本の人々の法華誹謗の心を心配してみると、その姿は、過去世の大荘厳仏の末法、一切明王仏の末法と同じような有様なのです。

【威音王仏〔いおんのうぶつ〕の末法には改悔〔かいげ〕ありしすら猶〔なお〕千劫阿鼻地獄に堕〔お〕つ。】
威音王仏の末法には、法華誹謗の者達は、後悔し懺悔〔ざんげ〕したにも関わらず、千劫という長い間、無間地獄に堕ちたのです。

【いかにいわ〔況〕うや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心〔えしん〕なし。】
まして、日本の真言師、禅宗、念仏者などは、まったく反省などしていないのです。

【「如是展転〔てんでん〕、至無数劫〔しむしゅこう〕」疑ひなきものか。かゝる謗法の国なれば天もすてぬ。】
法華経にあるように、無数劫という長い間、地獄にいる事は、まったく疑いがなく、このような謗法の国であれば諸天も見捨ててしまうのです。

【天すつればふるき守護の善神もほこら〔祠〕をや〔焼〕ひて寂光の都へかへり給ひぬ。】
このように諸天が捨ててしまえば、守護の善神もその住処〔すみか〕を焼き払って、寂光の都へ帰ってしまうのです。

【但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだ〔怨〕み数百人の民に或は罵詈〔めり〕、或は悪口〔あっく〕、】
ただ日蓮だけが、ここに留まって、それを教えると、国主は、これに怒り、数百人の民衆が罵倒し、悪口を言うのです。

【或は杖木〔じょうもく〕、或は刀剣、或は宅々ごとにせ〔塞〕き、或は家々ごとにを〔追〕う。】
そして、杖木で叩き、刀剣で斬りつけ、家々ごとに門を閉じ、または、追い払ったのです。

【それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり。去ぬる文永八年九月の十二日には頸を切らんとす。】
それでも、言うのを止めないと、法華誹謗の者達は、自ら手を下して日蓮を二度も流罪にし、去る文永8年9月12日には、首を討とうとしたのです。

【最勝王経に云はく「悪人を愛敬〔あいぎょう〕し善人を治罰〔じばつ〕するに由るが故に、】
金光明最勝王経には、「法華誹謗の悪人を褒めて、法華経を持〔たも〕つ善人を罰する故に、

【他方の怨賊〔おんぞく〕来たって国人喪乱〔そうらん〕に遭〔あ〕ふ」等云云。】
他国の野蛮な者達が攻めて来て、国の人々は、騒乱に遭うのである。」と説かれています。

【大集経に云はく「若しは復諸〔もろもろ〕の刹利〔せつり〕国王諸の非法を作〔な〕し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、】
大集経には、「もし、バラモン教の武士階級の国王が不条理にも釈迦牟尼仏の弟子である声聞を迫害し、

【若しは以て毀罵〔きめ〕し、刀杖もって打斫〔ちょうしゃく〕し、及び衣鉢〔えはつ〕種々の資具〔しぐ〕を奪ひ、】
あるいは、ののしり、刀や杖〔つえ〕もって打ちすえ、持ち物を奪い取り、

【若しは他の給施に留難〔るなん〕を作す者有らば、我等彼をして自然〔じねん〕に卒〔にわ〕かに他方の怨敵を起こさしめん。】
あるいは、布施をする人々に言いがかりをつける者がいれば、諸天は、しぜんに他国の野蛮な者達に攻めさせるのです。

【及び自界の国土にも亦〔また〕兵起こり、病疫飢饉〔ききん〕し、非時に風雨し闘諍〔とうじょう〕言訟〔ごんしょう〕せしめん。】
さらに自国の中でも反乱が起こり、病疫や飢饉が蔓延〔まんえん〕し、急な風雨にさらされ、諍〔いさか〕いや訴訟〔そしょう〕が続くのです。

【又其の王をして久〔ひさ〕しからずして復当〔まさ〕に已〔おの〕が国を亡失せしむべし」等云云。】
そのバラモン教を信じる王は、久しからずして、自分の国を滅亡させてしまうのです。」と説かれているのです。

【此等の文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人、阿鼻地獄はいかで脱〔のが〕れ給ふべき。】
これらの文章は、日蓮がこの国にいないならば、釈迦牟尼仏は、大嘘つきであり、無間地獄を、どうして免〔まぬが〕れる事が出来るでしょうか。

【去ぬる文永八年九月十二日に、平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日本国のはしら〔柱〕なり。】
去る文永8年9月12日に平左衛門とその家来、数百人の者に向かって、日蓮は、日本国の柱である。

日蓮を失ふほどならば、日本国のはしら〔柱〕をたを〔倒〕すになりぬ等云云。】
日蓮を失うならば、日本国の柱を倒すのと同じなのであると告げたのです。

【此の経文に智人を国主等、若しは悪僧等がざんげん〔讒言〕により、若しは諸人の悪口によ〔依〕て失〔とが〕にあ〔当〕つるならば、】
この経文には、法華経を受持する智者に対して国主が悪僧の讒言を信じたり、人々の悪口を依りどころにして、罪を被せて、迫害するならば、

【には〔俄〕かにいくさ〔軍〕を〔起〕こり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。】
たちまち、戦争が起こり、また、大風が吹きよせ、あるいは、他国から攻められると説かれています。

【去ぬる文永九年二月のどし〔同士〕いくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来たりしは、偏〔ひとえ〕に日蓮がゆへにあらずや。】
去る文永9年2月の北条時宗と時輔の内乱、同じく11年の4月の大風、同じく10月の蒙古の来襲は、日蓮を迫害した事によるのです。

【いわ〔況〕うや前よりこれをかんが〔勘〕へたり。誰の人か疑ふべき。】
これらは、前々から、世間に対して公言していた事であり、誰がこれを疑うのでしょうか。

日蓮正宗聖典

日蓮正宗聖典

  • 作者:堀米日淳
  • 発売日: 2021/02/16
  • メディア: 新書