エセー Les Essais

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1004夜:観心の法門とは?

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家の御本尊様への御供養に買ってきました。

創価ダメ出しさんのブログに、観心の法門について分かりやすい喩えがありました。

「観心の法門」とは自宅の御本尊にお菓子をお供えしたいと思い自分でお店に行き自分のお金で買って供える。というものです。自分で店に行く。自分のお金で買う。その時間や道のりに真心があるんです。そこが重要なんですね。この真心・誠心を「観心の法門」といい「志ざし」といい凡夫が成仏する要です。(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 創価教学じゃない御書講義(2021年3月座談会御書・乙御前御消息)

それで、いつもは妻が買ってきてくれるお供え物を自分で買ってきたというわけです。

記事を書いているのは、4月1日なので朔日もちというオチ。

今年の桜も見納めかなって思って、近所を散歩してきました。

砂の影響も少なくていい景色でした。

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ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば観心の法門なり(白米一俵御書)

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そういえば、僕はまだ桜が満開の大石寺を参詣したことがないな。

今生人界の思い出に、一度でいいから快晴の桜の季節に御登山したい。

そうそう、御開扉の目的は戒壇の大御本尊様にお目通りを願うことだよね。

その御本尊様への邪難は創価も平気に口にするようになったね。

創価ダメ出しさんが、いい記事を書いてたので引用させてもらいます。

出世の本懐の件(アメリさんの質問への回答)

アメリさんが以下のような質問が来ましたので今日はそれにお答えしたと思います。(太字はアメリさんのコメントです)
創価男子部から以下の阿仏房御書に『出世の本懐』とあるので、日蓮正宗がいうところの出世の本懐=弘安二年の御本尊とは言えないのでは、と質問されました。(あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。)
まず創価男子部君、ダボハゼみたいに御書の切文に飛びつくのはダメですよ。まずは「出世の本懐」の意味とは【仏がこの世に生まれてくる理由】です。それは
◆諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生悉有仏性と説き聞法観行皆当に作仏すべし(爾前二乗菩薩不作仏事)
ということで全ての仏は「一大事因縁」の出世の本懐を持ってこの世に生まれてきます。この「一大事」の「一」とは「唯一」という意味です。つまり「たった一つしか存在しない」という事です。そこで大聖人の「出世の本懐」とは、
◆但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり(御講聞書)
◆蓮祖出世の本懐は但三箇の秘法に在り。(日寛上人開目抄文段)

その上で阿仏房御書に御文を読むとこの御文の意は、大聖人の「出世の本懐」とは「御本尊に尽きる」という意味です。一部創価がいうような「口唱題目」の流布が本懐ではなくあくまでも「御本尊」が本懐です。さて、その上で阿仏房に与えられた御本尊も総じていえば大聖人の出世の本懐で間違いありません。しかし別して言えば日寛上人が観心本尊抄文段で
◆就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。
と仰せの如く弘安二年の戒壇大御本尊なのです。文証としては
◆仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり(聖人御難事)
と明確ですが最近の創価民はこの「27年」とは難を受けた年数だと屁理屈を言ってきます。それなら御文中の「出世の本懐」の言葉は不要なんですけどね。普通の人間ならこの御文を読めば「27年」とは「出世の本懐」を遂げた時と読みますが創価民は普通でありません。そこで現証としては言えるのは御本尊の相貌です。阿仏房が御本尊を下付されたのは「文永」時代。実は「文永期」の御本尊と戒壇の大御本尊の相貌は全く違うのです。果たしてアメリさんと話した創価男子部君はそれを知っているのでしょうか?まづはソコが問題です。さて、日寛上人は観心本尊抄文段の中でこのことについて
◆「問う、文永・健治の御本尊を究尽するや。答う、文永・健治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。此れに相伝有り。或は仍文上を帯するか云云」
とご指南されています。つまり阿仏房へ与えられた文永期の御本尊はいまだ完全なる出世の本懐の御本尊ではありません。しかしこの御本尊はアメリさんのいうように阿仏房の篤信に対する大聖人から褒章ですから一機一縁の御本尊で正しい御本尊です。ただ仏の出世の本懐とは先に書いたように一切衆生に授与されるべきご本尊であり特定の信者専用の一機一縁の御本尊ではありません。一機一縁の御本尊は数多ありますが、一大事因縁の出世の本懐の御本尊とは「唯一ひとつだけ」であり、その一切衆生に与えれた御本尊は弘安二年ご建立の「本門戒壇の大御本尊」以外ありません。「出世の本懐」とは御本尊のことですが、この御本尊にも総別があるのです。不相伝創価にはそれが分からないのです。阿仏房への御本尊は別体の御本尊なのです。
◆本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり(日寛上人・観心本尊抄文段)
さて、創価男子部君が「阿仏房御書」を切文してきて「出世の本懐」=「弘安二年の大御本尊」とは言えないというなら、
①阿仏房御書では出世の本懐=御本尊としているが、大御本尊が出世の本懐でないならどの御本尊が出世の本懐なのか?
②全部の御本尊が出世の本懐ならば、なぜ御本尊の相貌が違うのか?
③一機一縁の御本尊も出世の本懐ならば自宅も「本門の事の戒壇」になるのか?
④子供でなければ譲ってはいけないはずの大切な御本尊。創価日顕上人の御本尊を一体も正宗に返納していないがそれはどうなったのか?
等々、いいたいことは山ほどありますね。そしてアメリさんが創価男子部に言った、
●これは阿仏房の信心を褒められて、御本尊を下附された御書であり、御本尊が何より大切であることを表現されるうえで、出世の本懐、というお言葉を使われたのであり、いくら阿仏房が強信とはいえ、大聖人の出世の本懐が一信徒に授けられた御本尊でないことは明らかでしょ?聖人御難事の御金言と血脈を受けられた日興上人に授けられたという事実が弘安二年の御本尊が出世の本懐であることを示してるでしょ。
この言葉は非常に的を射たいい回答だと思います。

個人的な意見だけど、創価民や顕正民から対論を吹っ掛けられたらさ、まともにとりあわなくていいんだよ。

法華講員はまじめな人が多いから、相手の出す変な要求にも耳を貸しちゃう。

答えに窮したら、「さあ、おいらは知らねえなぁ。」でいいのさ。

それで相手に勝利宣言されたってさ、信教の自由があるんだから気にする必要はないよ。

「私はあなた方の質問に答える力はありませんが、日蓮正宗が正統な大聖人様の門下だと思っています。」って、にっこり微笑んであげな。

それこそが、衣座室の三軌の一つ、如来の衣は「柔和忍辱の心」ということです。

柔和とは、仏の教えに随って純真な気持ちを持つことです。忍辱とは、正しい法を弘める時、毀られたり、辱しめられたりすることがあります。そのような苦悩や迫害、侮辱にあったときにも動揺せず、堪え忍ぶ心を持つことです。釈尊は『法華経』の「法師品第十」に、
「猶多怨嫉。況滅度後(猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや。)」(法華経326)
末法時代に正しい法を弘める時には、怨嫉が多いことを説かれており、その時に纏う大事な衣が、如来の衣であります。
 また、忍辱は生きていく上で四苦八苦を忍ぶための大切な衣と鎧にもなります。 

気持ちはわかるけど、声を荒げてはなりませぬ。僕もね。