日蓮正宗のススメ

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座禅や瞑想で悟りを開くことができないのはなぜ?:素潜り映画「グランブルー」に学ぶ独覚行者の彷徨

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禅定を得る方法は人それぞれ

昔、全世界で大ヒットした映画「グランブルー」、観たことがある人もおられるでしょう。

素潜りで何十メートルも潜る姿に、心惹かれた若者が続出しました。

あれも禅定の一種だと思うのです。

私が体感したことのある禅定は、「歩き禅定」「読み禅定」「書き禅定」「筋トレ禅定」くらいでしょうか。

うつ病の治療に、「歩き禅定」「筋トレ禅定」が応用されているという話を聞いたことがあります。

ふらつく心を穏やかにする禅定、禅宗や瞑想家は変性意識を体験すると言われていますが、なぜ、自己流の禅定では悟りを開くことができないのでしょうか?

私の考えを述べてみたいと思います。

目次

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素潜りの世界記録は128メートル?

ja.wikipedia.org

のめり込むと魔境に入ってしまう?

ジャック・マイヨールは伝説のフリーダイバーであり、リュック・ベッソン監督の映画『グラン・ブルー』のモデルにもなりました。彼はフリーダイビングにヨガや瞑想を取り入れ、1976年、49歳の時に水深100mに達する偉業を達成しました。

そもそもかつては、人間が息をこらえて潜る理論的な限界水深は30数メートル程度と言われていたのです。ところがジャックはその常識を軽々と覆した。さらに興味深いことにジャックがこの驚異的な数字を出して以来、フリーダイビングの記録というものはどんどん更新されており、ジャックが挑戦した競技「NLT(ノーリミッツ)」の現在の世界記録は、オーストラリア人のハーバート・ニッチの持つ214mへと大幅に塗り替えられています。 

これはどういうことでしょうか。技術や器具の進歩ももちろんあるでしょうが、私が思うに人間の集合意識が変わったのだと思います。集合意識、正確には[集合的無意識]とは、私たちの無意識の深層に存在し、国や民族を超えて人類全体に共通する意識としてユングが提唱した概念です。例えば、神話や宗教、芸術には、時代や地域を超えて共通するテーマ、イメージが多々あります。どの時代のどの民族も花を美しいと感じ、太陽を崇め、海を神格化します。人の意識は見えないところで繋がっているのです。

たとえジャックの成し得た偉業を知らずとも、「人はもっと深くまで潜ることができる」という意識が全人類に広がったのだと考えます。
ユングは私がとても影響を受けた一人で、この「集合的無意識」の見解にも非常に強いシンパシーを感じています。このジャックの例だけでなく、人間の運動能力や身体能力がどんどん塗り替えられていくのは、科学の進化とともにやはりこの集合的無意識の変化に起因しているように思います。 

映画を見ながら感じたもう一つの疑問は、なぜジャックが自然と一体化し、瞑想や禅の世界に通じていながらも、自殺という形で自らの人生の最期を迎えなければいけなかったのか、ということ。晩年はうつ病を患っていたようで、自らその生涯を閉じました。
潜水中、思考は酸素を消費してしまうので、なるべく息を長く持たせるためには雑念を捨てて「無」にならなければなりません。ジャックはそのために、ヨガや瞑想の訓練をしていたし、非常に高いレベルにあったと思うのです。

しかしドキュメンタリーを見ていると、ジャックは決して悟りを開いた聖人のようではなく、むしろものすごく人間臭い。自然の一部には違いありませんが、人間的なエゴも強く残っていたように感じました。
ここにヨガや瞑想の落とし穴がある気がしてなりません。近年、ヨガも瞑想も一般的に広く知られるようになり、日常的に取り入れる人もかなり増えました。しかし一部のヨガはファッションとなり、「瞑想」や「マインドフルネス」という言葉は一人歩きしている感も否めません。

ジャック自身はヨガの真髄を捉え、かなり深いところまで瞑想できていた人だと思うのですが、うつ病に効果があると言われる瞑想を続けていた彼がうつになってしまうなんて誰が想像できたでしょう。

スピリチュアル・リーダーの中には「瞑想は危険」という人も少なくありません。有意義な効果もあるでしょうが、使い方を誤ると、文字通り「魔がさす」ことがあるのだそう。

そして彼らの言う言葉は「無になるより、感謝することの方が大事」ということ。

ただ「在る」ことに感謝する。そう思えていたら、ジャックはもっと長く人生を生きられたかもしれません。 

意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)
 

変性意識の正体は?

哲学者の井筒俊彦は、その主著「意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)」のなかで、禅を修行するものの観る世界について、独特の見解を披露しています。

本質脱落とか、言語脱落という表現で、意識になんらかの変性が生じ、本質直観機能が失われた世界を観ると述べています。

有名なサルトルの小説「嘔吐 新訳」の中の、マロニエの樹を見たロカンタンに起こる意識状態の表現を、西洋人が体験した「無」本質世界の表現として、最高のものであると激賞しています。

「実存はふいにヴェールを剥がれた。それは、抽象的範疇に属する無害な様態を失った。実存とは、事物の捏粉そのものであって、この樹の根は実存の中で捏ねられていた。というか、あるいはむしろ、根も、公園の柵も、ベンチも、芝生の貧弱な芝生も、すべてが消え失せた。事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆が怪物染みた、軟らかくて無秩序の塊が―怖ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」

「私たちは誰もかれも、そこにいることの理由を少しも持たなかった。それぞれ実存するものは、恐縮し、なんとなく不安で、互いに他のものとの関係において余計なものである、ということを実感していた。<余計なもの>、それだけがこれらの樹樹、これらの柵、これらの小石の間に私が樹てることのできた唯一の関係だった。」 

「この<私もまた余計なものだった>。」

「私は永久に余計な存在だった。」 

「<不条理性(アプシュルディテ)>という言葉がいま私のペンの下で生まれる。(略)不条理、それは私の頭の中の一個の概念でも、声の中の一呼気でもなかった。それは、私の足下にあった死んだ長い蛇、あの木の蛇だった。」 

「肝要なこと、それは偶然性である。定義を下せば、実存とは必然ではないという意味でもある。実存するとは、ただ単に<そこに在る>ということである。実存するものは出現し、偶然の<出合>にまかせるが、実存するものを<演繹>することは絶対にできない。」

「<それらは実存したいという欲望を持っていなかった。>ただ実存することをやめることができなかった、というだけである。」

「世界はいたるところ、前にも後にも存在していた。世界<以前>にはなにもなかった。なにひとつなかった。

それが実存しないことがありえた瞬間はなかった。私をいらだたせたのは確かにそのことである。」

「無とは私の頭の中のひとつの観念にすぎなかった。それは、この広大無辺な拡がりの中に漂う実存する観念だった。この無も実存<以前>にやってきたのではなかった。それはほかのものと同じ実存であり、他の多くのものの後に出現したのだった。私は叫んだ。「なんて汚いんだ、なんて汚いんだ。」 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 

僕たちが見ている世界は、実は、言語の意味分節機能によって物を見た瞬間に、意味のある形に切り分けられているというのです。禅者はそれを意識的に修行によって引きはがし、「無」本質世界を観るのだとか。

ロカンタンは、彼の無気力な性格や生活態度から、不意にその境地に没入してしまって、吐き気に襲われたというのが、井筒俊彦の見立てです。

カミュの「異邦人 (新潮文庫)」の主人公、ムルソーもよく似た境地だったのかも知れないなって、僕は思うのです。

ムルソーは、太陽がまぶしかったから人を殺したと証言して、自ら死刑になるように振舞います。それは、一種のうつ症状にも似た心の彷徨が描かれているようでもあります。

的のない瞑想は危険

日蓮正宗と言えば唱題行が有名ですが、祈祷をしているのではありません。

実は禅定(観心)修行をしているのです。

総本山第二十六世・日寛上人が、

「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染(し)み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや」(法華取要抄文段)

と明確に御教示のごとく、御本尊様は「仏界」であり、私たち衆生は迷いの「九界(くかい)」なのです。その九界の我々が、仏界の御本尊を「仏様の御当体」と信じて南無妙法蓮華経と唱えるところに、仏界即九界、九界即仏界、十界互具となり、境智冥合となるのです。 

ただし、他門・異流儀の御本尊では境智冥合にはなりません。

日蓮正宗寺院で御受戒を受け、御下付いただくか、寺院に持参した自宅本尊を供養していただき、血脈を通わせていただかなくては修行の対境になり得ません。

私自身、自宅の御本尊様は日蓮正宗から下付していただいた御本尊様でした。

しかし、創価・顕正のときは功徳を積むことが出来ず、禅定にもならず悲惨な人生を歩んでいました。

勧誡式(かんかいしき)*1で、御住職様が本物かどうか見定められ、「拝んであげますから」と、寺院の御宝前で読経・唱題してくださり、我々も再び御授戒を賜り三誓*2して、頭に御本尊様を頂戴し、再度、御本尊様をお貸し下げしていただきました。

それ以来、御題目を御本尊様に向かって唱えれば、心が落ち着き晴れ晴れとするようになりました。

入信から10年で本人である私自身も、家族も平和で幸福な境涯へと変貌を遂げることが叶いました。

末法に生まれた求道の人々に

仏の言説を学ぶものを声聞といい、哲学や技芸、職業的な達観などによって一定の安らぎや、独自の悟りを得る人を縁覚または独覚といいます。

第七に声聞道とは、此の界の因果をば阿含小乗十二年の経に分明に之を明かせり。諸大乗経に於ても大に対せんが為に亦之を明かせり。声聞に於て四種有り。一には優婆塞、俗男なり。五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し、自調自度の心強くして敢へて化他の意無く、見思を断尽して阿羅漢と成る。此くの如くする時自然に髪を剃るに自ら落つ。二には優婆夷、俗女なり。五戒を持し髪を剃るに自ら落つること男の如し。三には比丘僧なり、二百五十戒 具足戒なり を持して苦・空・無常・無我の観を修し、見思を断じて阿羅漢と成る。此くの如くするの時、髪を剃らざれども生ぜず。四には比丘尼なり。五百戒を持す、余は比丘の如し。一代諸経に列座せる舎利弗・目連等の如き声聞是なり。永く六道に生ぜず、亦仏・菩薩とも成らず、灰身滅智し決定して仏に成らざるなり。小乗戒の手本たる尽形寿の戒は、一度依身を壊れば永く戒の功徳無し。上品を持すれば二乗と成り、中下を持すれば人天に生じて民と為る。之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり。安然和尚の広釈に云はく「三善の世戒は因生じて果を感じ業尽きて悪に堕す。譬へば楊葉の秋至れば金に似たれども、秋去れば地に落つるが如し。二乗の小戒は持する時は果拙く破する時は永く捨つ。譬へば瓦器の完くして用ふるに卑しく、若し破れば永く失するが如し」文。
  第八に縁覚道とは、二有り。一には部行独覚、仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習ひ、小乗の戒を持し、見思を断じて永不成仏の者と成る。二には麟喩独覚、無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し、見思を断じて永不成仏の身と成る。戒も亦声聞の如し。此の声聞縁覚を二乗とは云ふなり。(十法界明因果抄212㌻)

又華厳・阿含・方等・般若等の経々の間に六道を出づる人あり。是は彼々の経々の力には非ず。過去に法華経の種を殖えたりし人、現在に法華経を待たずして機すゝむ故に、爾前の経々を縁として、過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり。例せは縁覚の無仏の世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し、孝養父母の者の梵天に生まるゝが如し。飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねども、かれを縁として過去の修因を引きおこし、彼の天に生じ独覚の菩提を証す。而るに尚過去に小乗の三賢四善根にも入らず、有漏の禅定をも修せざる者は、月を観じ花を詠じ孝養父母の善を修すれども、独覚ともならず色天にも生ぜず。過去に法華経の種を殖えざる人は、華厳経の席に侍りしかども初地初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず、観経等にても九品の往生をもとげず、但大小の賢位のみに入って聖位にはのぼらずして、法華経に来たって始めて仏種を心田に下して、一生に初地初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり。(小乗大乗分別抄708㌻)

縁覚も独覚もともに、成仏には程遠い存在です。心田という言葉を使うのですが、これはおそらく人界の心のことではないかと思うのです。

人の心の特性は「空性」で平らかなるをもって、その基本属性となします。

個々人の心の奥深く(第9識)には仏性が存在しますが、この仏性も人界と同じく「空性」ではないかと。。。

「空」とは変化させる大元の力といいますか、根源といいますか、言葉で表現するのは難しいですが「無」ではありません。

御題目を唱えることで、人界部分に穴が開き風通しがよくなり、対境の御本尊様の仏界と個人の仏性が結ばれる。。。そんな風にイメージしています。

つまり、

又云はく「第一に妙経の大意を明かさば、諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し、一切衆生悉有仏性と説く。聞法・観行皆当に作仏すべし」と。
  抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたまふや。天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云はく「如来五種の過失を除き、五種の功徳を生ずるが為の故に、一切衆生悉有仏性と説きたまふ。謂はく、五種の過失とは、一には下劣心、二には高慢心、三には虚妄執、四には真法を謗じ、五には我執を起こす。五種の功徳とは、一に正勤、二には恭敬、三には般若、四には闍那、五には大悲なり。 (爾前二乗菩薩不作仏事182㌻)

末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。
  問うて曰く、十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今の時之を信ぜずば必ず一闡提と成らん。願はくは大慈悲を起こして之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまへ。答へて曰く、汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば、釈尊より已下の四依の菩薩並びに末代理即の我等、如何が汝が不信を救護せんや。然りと雖も試みに之を云はん、仏に値ひたてまつりて覚らざる者、阿難等の辺にして得道する者之有ればなり。其れ機に二有り。一には仏を見たてまつりて法華にして得道す、二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上仏教已前は漢土の道士・月支の外道は、儒教・四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之有り。又利根の菩薩凡夫等の、華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々なり。例せば独覚の飛花落葉の如し、教外の得道是なり。過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は、設ひ法華経に値ひ奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為るが故に、還って法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳・大日経等に同じ、或は之を下す。此等の諸師は儒家・外道の賢聖より劣れる者なり。此等は且く之を置く。十界互具之を立つるは石中の火、木中の花、信じ難けれども縁に値ひて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も竜火は水より出で竜水は火より生ず、心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用ひざらん。尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る、悉逹太子は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ずべきなり。

観心本尊抄648㌻)

人間には仏の性質は潜在していますが、末法衆生には薫じるための種子(しゅうじ)が八識(阿頼耶識)に蔵されていません。

阿頼耶識は瀑布の如しと言われる、超高速スロットマシンのような存在で、外の世界の縁に触発されて、八界の中の何かが飛び出してきます。

現代日本では怒りっぽい人や、妬み深い人、弱い者いじめする人、思い上がる人が多いのは、蔵識と呼ばれる心の蔵に、四悪趣の種子ばかりが圧倒的な比率で押し込められているということでしょうか。

これを俗にいう、業が深いとか因業な。。。ということでしょうかね。

種子は花が開き種を散乱させます。

悪い因縁の種子は、その種をどんどん増やしていきます。

これを吸い上げ浄化させるには、仏界に縁して善種子に変換しなければなりません。

それを日寛上人様は、「本尊即ち我が心に染(し)み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。」と表現されたかと拝察しているのですが。。。

一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。(崇峻天皇御書1174㌻)

なんで人の振る舞いが大事なのか?

長年、分かりませんでした。

でも、独善の修行では、やはりダメなのです。

悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。此の十四の誹謗は在家出家に亘るべし。恐るべし恐るべし。過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。何に況んや持てる在家出家の者をや。(松野殿御返事1047㌻)

十四誹謗は憍慢から始まっています。

独自の禅定修行は、修羅になるのでしょう。

創価が良い例だと思います。御本尊様を願いを叶えるための幸福製造機などと言っておりました。

そして今では、恨善、善を恨むという最終地点に来ています。顕正会の浅井センセーも恨み節ばかりです。

「グラン・ブルー 完全版 -デジタル・レストア・バージョン-(字幕版)」の主人公も最後はおかしくなっていきました。

イルカにあこがれ、深海の静寂に魅入られ、帰らぬ人になってしまいました。

十境の中の魔境とは此なり。魔の習ひは善を障へて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候。強ひて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ。又二乗の行をなす物をばあながちに怨をなして善をすゝむるなり。 (常忍抄1285㌻)

魔境に入ってしまうと、勘違いの善を精進してしまい見当違いの方向へ驀進してしまい、遂には地獄に堕とされてしまうのです。

博学奇才の井筒先生も、脳のスペックをオーバーヒートさせてしまったのでしょうか、就寝中に脳内出血でお亡くなりになっています。

先生の構想されていた、東洋哲学共時的構造化理論は完成を待たず、未完の大構想に終わってしまったのです。

私は井筒先生は、現代哲学版教相判釈を目指していたのではないかと思っております。

 

 

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

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イスラーム哲学の原像 (岩波新書)

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*1:日蓮正宗に入信しながら、創価学会などの邪義に惑(まど)わされて正しい信心を見失った人が、日蓮正宗の信徒としての再出発するために行われる儀式です。ここでは、再入信に当たって、二度と謗法を犯すことなく、信行に精進することを御本尊にお誓いします。

*2:「今身こんじんより仏身ぶっしんに至いたるまで爾に前ぜん迹しゃく門もんの邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持たもち奉たてまつるや否いなや」「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」「今身より仏身に至るまで爾前迹門の不ふ妄もう語ご戒かいを捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」「持ち奉るべし南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経