日蓮正宗のススメ

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宗教心と科学的認識の狭間で:科学の本質と限界を知り、折伏に説得力をつけるために

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宇宙を支配する「たった1つの数式」があるとか?

引用元:https://tetsugaku-life.com/

「科学とは何か」という問題について考えをまとめてみたいと思います。

というのも、この問題については僕もいろいろと思うところがあるからです。

折伏をすれば、必ず「そんなこと信じられません」「そんな非科学的なこと、お前が言うとはなあ」なんて言葉が返ってきます。

功徳で釣って勧誘するならいざ知らず、折伏を実行すれば現代の日本人は反発するものです。

なぜか?

それは、一応、科学教育っぽいものを聞きかじっているからです。

日本人は大抵がバカです。

高校や大学は卒業していても、実質的な知的水準は小学校の低学年くらいです。

かろうじて、読み書きそろばんができる程度です。

あとは、職業教育で専門分野の知識があるに過ぎません。

しかし、慢心しきった、お坊ちゃま・お嬢ちゃんは、いっぱしの口をきくんです。

大衆社会って、ほんと、面倒ですね。

転輪聖王による、哲人王政復古を激しく希望します。

今回は、科学とは何かについて考えてみたいと思います。

目次

科学の条件とは? 

折伏相手はよく「科学的に……」「証拠が……」云々ということを持ち出して、仏法の内容についてはなかなか認めてくれません。

彼らは「宗教の話は科学のふりをした〈疑似科学〉である」とよく言います。

つまり「もっともらしい根拠を並べているように見えても、実は〈科学〉の条件を満たしていないのだ」と仰るのです。

 

じゃあ、あんたたちの言う〈科学〉の条件って何じゃい!!

……と憤った僕は「科学哲学」関連の本をかなり読み漁りました(笑)

 

そういうわけで、現代の科学哲学で〈科学〉の条件として語られることが多いものを1つ1つ点検していきたいと思います。

もちろん、論じる人によって多少の違いはありますので、なるべく大体のコンセンサスがあるあたり、最大公約数的なものを抽出できればいいかなと考えています。

 

科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)

科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)

 

 

観察できるかどうか

1つの考え方として、「人間が観察できる対象を扱うのが科学だ」という意見があるように思います。

 

この考えによれば、「功徳なんて観察できない」「そんなものは存在するとは言えない」「非科学的だ」ということになるわけです。

 

僕は「功徳だってたくさん観察(目撃)されているじゃないか!」と言いたくなりますが、おそらく「万人が観察できる」という条件なのでしょう。

 

確かに功徳は万人に観察できるわけではありません。

この「万人が観察できること」ということ、確かに〈科学〉の条件として検討する価値はありそうです。 

しかしながら、もしこの「万人が観察できる対象」というものを「人間の目で見える対象」あるいは「人間が五感で知覚できる対象」と狭く限定するなら、直ちに不都合が生じます。

ミクロの素粒子、例えば電子や光子などはどうやっても五感では知覚できません。それでも立派に科学の対象になっています。 

当たり前ですが「五感で知覚できないから信じない」というのは不合理な態度です。唯物論者でも実際は五感で知覚できない多くのものを信じているはずです。 

唯物論者たちでも「五感で知覚できる・できない」を科学的探究の条件にしているわけではないとすると、「万人が観察できる」というのはどういう意味なのか? おそらく次のようなことです。

彼らが「万人が観察できる対象」という場合、そこには「数多くの実験や観察から間接的に(理論的に)存在が認められるもの」も含まれているのです。 

例えば、電子というものの存在を前提してこそ、いろいろな元素の特徴を説明でき、電気現象やミクロの世界の現象を説明できます。

目視することはできないにせよ、実験や観察に基づく理論的考察から電子の存在が確実視されると考えてよいわけです。 

もちろん、みんながみんな実験や観察をしたり、そこから理論的に電子の存在を導けるわけではありません。

でも、もし仮に大学等で物理学を学んで、先生の元で科学的トレーニングを積んで、さらに理論的な考察をすれば、おそらくみんな電子の存在を納得できるでしょう。

ここで「万人が」と言っているのはそういうことです。

※実は電子が直接は観察できないことを理由にその存在を疑う人々もたまにいて、科学哲学的には議論が続いているようです。この電子の非実在論は「直接に知覚可能なものしか信用できない」という考えを突き詰めた立場と言えるでしょう。 

この考え方をまとめると、「人間が直接に知覚できるもの」および「実験や観察から導かれ、理論的に存在が確かなもの」が「万人が観察できるもの」として科学の対象であるということになるでしょう。

そして、これに当てはまらないものを研究しているのは「非科学」「疑似科学」であると言いたいわけです。 

さて、ではこの基準で「科学」と「非科学」を区別できるのでしょうか?

結論を言えば、やはり問題があります。 

このように理論的(間接的)な意味で観察可能な対象まで含めると、物理学者が「何を存在すると見なすか」は、歴史的にどんどん変動しているのです。

かつて理論的に存在するとされた「フロギストン」や「エーテル」といった物質は、その後の研究で否定されるようになりました。

それとは反対に、昔はまったく知られていなかった「ダークマター」や「ダークエネルギー」の存在が近年は認められるようになっています。

こうしたものが知られていなかった時代においては、これらは「非科学的」だったのでしょうか? その考え方はやはり問題があるように思えます。 

こう言うと、「ダークマターダークエネルギーも昔は『非科学的』だったのだ」という反論が出るかもしれません。

つまり「自分たちが『非科学的』という言葉を使ったからといって『存在しない』と断言しているわけではない。その時代の科学の水準で捉えられない謎が多いものを『非科学的』と言っているだけであって表現の問題だ」というわけです。 

なるほど、そう仰るのであれば確かに「表現の問題」と言えるのかもしれません。

しかしそれならば「非科学的」という表現に「くだらない」「一蹴すべき」「まともに取り合うべきではない」というニュアンスを込めてはいけないと思います。

そういうものを研究しようとすると白眼視されたり不利な扱いを受けたりといったことがないようにしなければなりません。 

「非科学」「疑似科学」という表現をよく使う人で、「それは単なる表現の問題で差別しているわけではない」と言う人がもしいたとしても、それは言い訳でしょう。

多くの場合、彼らが否定してしまいたい分野について「非科学的」「疑似科学的」というレッテルを貼っているだけのはずです。 

もしどうしても、十分に理論的に確立された分野とそうでない分野を区別したいならば、後者には例えば「未知科学」などニュートラルな表現を使うべきではないでしょうか。「非科学」という差別的ニュアンスのある言葉は避けるべきでしょう。

当然ながら、大学の研究室で大っぴらにバンバン研究してもいいわけです。 

少し脱線してしまいましたが、まとめます。 

もし「非科学」という言葉に「研究に値しない」「否定すべき」という含意があるという前提で言うと……

この「実験や観察に基づいて理論的に存在が確実視できるか」という条件は、「科学」と「非科学」を区別する基準にはなりません。

繰り返しになりますが、「理論的に存在が確実視できるもの」は科学の歴史においてどんどん変動するからです。 

結局、「その時点において理論的に不確かなものでも単純に否定してはいけない」ということですね。

こう言うと、ごくごく当然なことの気がします(笑) 

さて、未知の現象を否定しようとする人たちが提示してくる〈科学〉の条件はまだまだたくさんあります。

 

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

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再現性とは

「再現性」とは要するに「観察や実験を何度やっても同じ現象が確認できる」ということです。

そして、ある現象に「再現性があるかどうか」が「それが科学的であるかどうか」の条件であると説く人たちがいるわけです。 

科学とは自然法則を研究するものです。

そして「いつでもどこでも成り立っているのが自然法則だ」というなら、確かにその法則を確認する実験や観察は何度やっても同じ結果になるでしょう。

だから一見、「再現性」を〈科学〉の条件として挙げる考え方にも正当性があるように思えます。 

ちなみに、この「自然はいつも同じ法則に従っている」という考え方を「自然の斉一性」と言います。「斉一性」は「一様性」と言う場合もあります。

しかし科学の実態を見てみれば、一定以上に「再現性」を強調しすぎるのはおかしいのです。

例えば単純な話で恐縮ですが……

宇宙の始まりとされる「インフレーション」も「ビッグバン」も再現できるわけではないですよね。

一定のプロセスに従い、一定の順序で実験を行えば、何度でも宇宙創造を再現できるわけではありません。

それでもこれを「非科学」「疑似科学」と言う人はいません。

そもそも、その現象や対象の研究がそれほど十分に進んでいない段階で「再現性」を云々するのは問題が多いのです。

なぜなら、そのテーマについての研究が進んでこそ「それを再現するための条件」も分かってくるはずだからです。それまでは再現できたりできなかったりの繰り返しではないでしょうか。

したがって「再現性」に関して、ある研究を〈科学〉に含めるための「必要条件」だと考えるのは無理があります。

それを必要条件にしてしまうと、最初から再現できるものしか科学ではないことにされてしまい、ほとんどの研究が「非科学的」と言われてしまうことになります。

その意味で、僕はSTAP細胞の件についても「再現性」を金科玉条のごとく持ち出して断罪していた人たちには強い違和感を覚えました。

STAP細胞そのものの真偽について云々することは避けますが、少なくとも一般論として、新しく研究されている現象について「再現できたりできなかったり」というのはむしろ当然ではないでしょうか?

小保方さんは「私がやればできる」「コツがある」などと語っていましたが、生物学・生命科学のような分野なら、彼女しか知らない細かい再現条件があったとしても不思議ではないと思います。

※小保方さん本人による再現実験も失敗したと言われていますが、本人の自由にならない厳しい条件下で行われたようなので、あまり参考になりません。

もちろん僕としても、ある現象を科学として確定していく過程で、再現性の条件が次第に満たされていくことは望ましいと考えています。

つまり僕としては「再現性を満たさないからという理由で〈科学〉から排除するのはおかしい。ただし再現性を満たしているなら〈科学〉と認定するのに十分である」と考えています。

ちょっと難しく言えば「再現性は科学の必要条件ではないが十分条件ではある」ということです。

結局、ある現象に未知の要素が多い段階において「再現性がないこと」を理由にそれを斬って捨てるという姿勢は大いに問題なのです。

そんなことをしていたら、そもそも新しい科学的研究はできなくなります。

そもそも論ですが、世間で認められている〈科学〉には1回限りの現象を扱うような分野(天文学・地質学・火山学・考古学など)もあるでしょう。それでも立派に科学として通用しているのです。

これだけをとって考えても、再現性が科学の必要条件ではないことが分かるでしょう。科学であるための条件として再現性を加えると、現時点で〈科学〉として認められているものすら多く排除してしまうことになります。

結論としては、再現性という条件は科学のごく一部のジャンル(例えば理論物理学など)で、しかもすでに十分に確立した理論について当てはまるというだけです。

 

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数量化できるか

ついでに「数量化」ということにも少し触れておきましょう。 

科学哲学の本などを読んでいると、ときどき「科学は数量化できる自然現象を対象とする」「科学は数量化という方法で自然現象を扱う」という考え方に出くわします。 

確かに近代の物理学は、自然の中から数値化して表現できるもの(長さ・質量・位置の変化など)を切り取って成立したとも言えます。

自然から数値化できるものを抽出して、そうした要素を「数学」という手段を使って表すことで近代科学は大発展を遂げました。これはデカルトガリレオといった偉人たちの功績だとされています。

こうした事情があるため、自然科学を典型とする近代的な学問の特徴として「数量化できること」「数学的に表現できること」を挙げたくなる気持ちは分かります。 

しかし一考して明らかですが、「数量化できる」ということは、理論物理学など「科学」の中でもごくごく一部にしか当てはまらない基準です。

上に挙げたような1回限りの現象を扱う科学の知見が、数学的に表現できる場合などむしろ稀でしょう。したがって、これも「科学」「非科学」を分ける基準にすることはできません。 

 

 一口に「証明」と言っても……

僕は「証明」という言葉は曖昧で多義的だと思っています。 

例えば、数学や論理学といったジャンルなら「証明」の意味も分かりやすいかもしれません。

中学や高校で数学の証明問題をよくやらされましたが、ああいうやつですね。確かにあれは誰が見ても確実な証明と言えるでしょう。 

しかしこれが自然現象を相手にする科学となると、「証明」ということの意味は途端に曖昧になるのです。

理論物理学の一部など、小さな範囲では数学に近い証明ができるものもあるかもしれませんが、それは自然科学全体のごくごく一部に過ぎないでしょう。

例えば、宇宙の始まりにあったと言われている「ビッグバン」……。

これがあったことって〈証明〉されているのでしょうか? 

少なくとも、ビッグバンを直接見た人はいません。

でもビッグバンが起きたことは、その痕跡とも言われる電磁波(宇宙背景放射)の存在など、いくつかの間接的な証拠から「最も合理的な推論」として導き出されているようです。

もちろんそれを「証明」と呼ぶならそう呼んでも構わないと思いますが、頑固な人がいて「ビデオカメラでその事実を録画して全員で確認しなければ〈証明〉とは呼べん!」と言うなら証明ではないでしょう。 

科学なら実験や観察によって証明できるのではないかと思われるかもしれませんが、実はそれほど単純な話でもないようです。

科学史を振り返ると、同じ実験結果を前にしても「その実験結果からどんな事実が証明されたと考えるか」が人によって異なるということがザラにあるのです。 

単純な例を挙げます。

望遠鏡で月の表面を見ると凸凹が見えます。この「凸凹が見える」というのが実験結果ですね。

現代の僕たちなら、この実験結果から「月の表面は実際に凸凹している」と解釈し、そのことが証明されたと考えるでしょう。

しかし「月は完璧に美しい天体だ」という強い信念を持っている人が望遠鏡で月の凸凹を見ると、「望遠鏡は月に向けると正しく機能しない道具である」などとまったく別の解釈をしたりするのです(昔、実際にあった話です)。 

背景としてどんな知識・理論・信念を持っているかによって、同じ実験結果を前にしても「どんな事実が証明された」と解釈するかは異なってくるというわけです。これを専門用語で「理論負荷性」と言います。

上の例は現代では極端に聞こえるでしょうが、本質的にこれに似た話は科学の歴史でよく出てくるのです。

 

科学哲学講義 (ちくま新書)

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「証明」も程度の問題

確かに、その他の理論や実験も踏まえて総合的に考えるなら、「誰がどう考えてもこのようにしか解釈できない」というものもあるでしょう。そのレベルになれば物理法則として確立されていくのだと思います。

ただし、ニュートン物理学が相対性理論に置き換えられたように、どれほど確かに思える法則でも覆されたり大幅に修正されたりする可能性は常にあります。 

一方、まだまだ人によって解釈が異なるグレーゾーンもあるはずです。そのグレーゾーンの中でも、「かなり多くの科学者に支持されている解釈」とか「評価が分かれている解釈」など確実性に程度の差があるでしょう。 

つまり「証明された」「証明されていない」の二分法ではなく、かなり確かなものからグレーなものまで証明の程度はグラデーションになっているのです。 

そして、確実性のグラデーションの下の方にある学説、つまりまだ異論が多くて議論が続いているような学説であってもそれを直ちに排除していては科学になりません。

例えば、超ひも理論、タイムトラベル説、異次元世界の理論、マルチバース理論、ダークマターダークエネルギーの“正体”についての様々な説……。現代の物理学ならこれらの説がそれに当たるでしょう。

これらの中には、将来の研究によって確実性が上がってくるものもあれば、反対に下がっていくものもあるかもしれません。しかし、そういうプロセスを経て科学は発展していくはずです。 

超常現象の多くについては、学校で習う物理法則と比べると確かに「まだまだ証明の程度が低い」ということは僕も認めます。

しかしそれは「程度の差」であって、これからの研究の進展によっては確実性が上がってくることもあり得るのです。 

つまり「ここから上は〈科学〉だ」「ここから下は〈疑似科学〉だ」と言ってきれいに線引きできるものではありません。

どこかで勝手に線引きしたとしても、研究の進展によってその線をまたいで上下することもあり得るのですから、その恣意的な線引きに大して意味はないでしょう。 

超常現象などの研究を「科学とは何か本質的に異なるもの」と考えて拒否しようとする姿勢がアンフェアである理由もここにあります。

「学校で習うような物理法則ほどにはまだ十分に裏付けされているわけではないが、研究の余地のあるもの」として態度保留すればいいだけなのに、どうして最初から排除しようとするのか、僕は理解に苦しむのです。

なかなか「絶対的な証明」はない

一口に「科学的な証明」と言っても、その内実はまちまちです。

「証明された」「証明されていない」の2分法というわけではなく、その証明をどのくらい信頼してよいかは「程度の問題」なのです。

ここまでは前回の記事でも述べました。

 

それでも、証拠や理論などを総合的に考えるならば「かなり強固に証明されたと見なしてよい理論」というのもあります。

例えば、19世紀までならばニュートン物理学などがその例でしょう。

人類はこの理論のおかげで物体や天体の動きを正確に記述したり予測したりできるようになりました。ロケットを飛ばせるのもニュートンのおかげです。 

しかし、です。 

このニュートン物理学も万能ではなかったことが明らかになり、20世紀にアインシュタイン相対性理論に置き換えられました。

例えば、運動する物体が光の速度に近くなるとニュートン物理学が当てはまらなくなります。それをうまく説明するには相対性理論が必要になります。

それまでの人類は「光速に近いスピード」なんて考えなくてもよかったので、ニュートン物理学の不備に気づかなかったわけです。

ニュートン物理学は「光よりも十分に遅い物体を対象にする」という「条件つき」で成り立つ理論だったわけです。

このように、かなりの精度で理論が「証明された」と思われても、その後、その理論が破棄されたり大幅修正されたりすることがあり得るのです。

これは現時点の僕たちにも当てはまる教訓でしょう。

相対性理論を含めてですが、現在は支配的であるような理論でも、将来的に破棄・大幅修正される可能性は否定できないのです。

一番あり得るのは、(ニュートン物理学のように)「これまでの理論は実は●●の条件を満たす場合にだけ当てはまるものだった」ということが分かり、もっと普遍的に当てはまる理論に統合されるというケースでしょう。

 

 

ポパーの「反証可能性」とは

ある科学理論が正しいことを完全に証明し尽くすことはできない。

それなら、「科学の条件」として「証明」云々を言っても仕方ないのではないか?

科学であれ非科学であれ、何かを完全に「証明する」ことはできないのだから……。 

そう考えたのが、オーストリア出身ですがイギリスで活躍したカール・ポパー(Karl Popper / 1902-94)という哲学者です。

しかしポパーも、由緒正しい「科学」と怪しげな「非科学」「疑似科学」を一緒にはしたくない。何か「証明」とは別に2つを分ける基準はないか?

そこでポパーが持ち出したのが「反証可能性」という概念です。彼は「証明できること」ではなく「反証できること」が科学の条件だと言ったのです。これを「反証主義」と言います。

????……という感じだと思いますので、もう少し解説を。

反証主義を別の言い方にすると「不利な証拠が出た時にきちんと反証される(間違いを認める)理論が科学だ」という考え方だと言えるでしょう。

つまり「観察や実験でどんな結果が出ても絶対に反証できない理論」というのは「ああ言えばこう言う」というタイプの理論、何とでも言い訳できる理論であり、ポパーはこれこそが疑似科学の特徴だとしたのです。

このように言い訳で切り抜けることを、よく「アド・ホックな解決」と言います。その場を切り抜けるためだけの都合のよい解決法というイメージですね。

分かりやすい例としては「占い」なんかはそうかもしれません。

例えば占い師さんがある人に「あなたは半年後にこうなります」と予言したのにそれが外れたとします。

それでもその占い師さんは自分の占い理論の間違いを認めるのではなく、「あなたの行動が原因で予定が変わった」云々と言って、失敗をつくろおうとするでしょう。

こういう風に「アド・ホックな解決」をして理論そのものは守ろうとするのが普通だと思います(ちなみに僕は占いを完全否定しているわけではありません。一般的にはそういう例も多いだろうという話です)。

ポパーはこれこそが「疑似科学」「非科学」の特徴だというのです。「ああ言えばこう言う」式で切り抜けられてしまうようなフワフワしたものは科学ではないというわけです。

それに対して科学理論は、それにとって不利な証拠が出てきたときには潔く反証される(間違いを認める)というのです。

「どういう証拠が出てきたらその科学理論は反証されたことになるのか」(反証条件)も明確だというのです。

例えば光の速度は「秒速約30万キロメートル」ということになっています。

しかし改めて測定してみて、もし何度やってもそれと違った値になるのであれば「光速度は秒速約30万キロメートルである」という理論は反証されます。

このように、「どういう証拠や実験結果が出たらその理論が間違っていたことになるのか」が明確であり、ハッキリ白黒つけながら修正してゆけるのが科学であるというのがポパー反証主義です。

なかなかユニークでそれなりに説得力のある考え方だなあ……と僕なんかは感心してしまいます。

このポパー反証主義について面白い話があります。

ポパーの(かなり年上の)友人に有名な心理学者のアドラー(Alfred Adler / 1870-1937)がいました。

フロイトの弟子に当たる人ですが、アドラーもまた彼独自の心理学理論を構築しています。最近、日本でも関連書籍が出るなど人気がありますね。

あるとき、ポパーは「アドラー心理学の理論に合致しないと思える人の事例」をいくつか挙げ、それについてどう思うかアドラー本人に問い合わせてみました。

すると、アドラーはいろいろと理由をつけて、それらの事例をアドラー理論に合うように実に見事に説明してしまったというのです。

これを目の当たりにしたとき、ポパーは「アドラー心理学はすごい!」とはなりませんでした(笑)

ポパーは反対に「アドラーさんの心理学は、それを使って『何とでも言える』理論ではないのか」「これを科学とは言えないのではないか」と考えたのです。

 

哲学的な何か、あと科学とか (二見文庫)

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末法の阿呆を救うには?

リアリティをもって、正確に世の中の有様を観ることができるのは、仏様だけです。

如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実。非虚。非如。非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬。

如来如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。(妙法蓮華経如来寿量品第十六)

ですから、賢そうな科学者とやらも、大したことはありません。 

諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。

仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生舎利弗如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。

仏、舎利弗に告げたまわく、 諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二若しは三あることなし。(妙法蓮華経方便品第二)

仏様の悟りにすがる他ないのです。

が。

バカは信じない。

ループが繰り返されて800年です。

もちろん、仏の悟りは科学の範疇外です。

証明も再現も反証もできません。

しかし、我々には宗教心、信仰心があるのです。

私は、転輪王の呵責が一番だと思っています。

日本が妙国なのは、御上への従順さが半端ない、同調圧力が世界一のナチュラルボーンファシストだからです。

戦前の国家神道体制を思い起こしてみてください。

神風を信じ、万歳アタックで特攻しました。

仏様は御存じなのです。

全てを。

さあ、正しい信仰に帰依したまえ!

www.nichirenshoshu.or.jp