日蓮正宗のススメ

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創価学会・会長考(終)

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国立戒壇論」

 

国立戒壇」という呼称は古来正宗にはありません。

 

明治35年、これを唱え出したのは(前出の)身延派から出て在家教団(国柱会)を組織した田中智学です。

 

国粋主義者だった彼の考えが国体主義とあいまって一世を風靡し、日蓮門下に多大の影響を与えました。

 

当然、日蓮正宗にも影響が及びます。


なぜなら三大秘法のうち、本門の本尊、本門の題目は大聖人様がお顕しになりましたが、本門の戒壇だけは未完成であり、それは未来に託したからです。

つまり御遺命の「戒壇」なのです。

三大秘法抄、一期弘法書付属に御教示のとおり、広宣流布の暁に→「国主此法をたてらるれば」→「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とお示しのように、大聖人様が残されたミッションなのです。

 

本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇がそろってはじめて

『三大秘法』が整足するのです。

 

近年、この解釈によって宗門は揺れに揺れました。

日達上人代に正本堂を以て、現時点における本門事の戒壇であるから、戒壇論の論議を今後一切禁止する」旨、訓諭が出されました。

現在、その正本堂も存在しませんので、この先の論議は控えますが、当時はこの「国立戒壇」を巡って論議が盛んでした。

古来から日蓮正宗のビジョンは「国立戒壇論」だと私は考えています。

 


大聖人様は時の幕府に対して「立正安国論」を提出し国家諫暁をしました。

それに習い、古くは日目上人が天皇家への42度の上奏などは「天皇家への折伏」は「国立戒壇建立」が最終目的のように思われます。

日応上人の項でも書きましたが、近年でも皇軍(日本軍)が世界を制覇し→日蓮大聖人の仏法が広宣流布され→国立戒壇が建立される。

と云う青写真がありました。

ところが、戦前・牧口、戸田氏の入信段階で、宗門内に「国立戒壇」を否定していた僧侶がいました。

その僧侶は佐藤慈豊師であります。

三谷素啓氏と藤本秀之助氏は佐藤師の教えを受けておりますので、当然「国立戒壇」否定派でした。

一方の牧口氏は以前に田中智学の教えを受けており、こちらは「国立戒壇」肯定派だったのです。

この「国立戒壇」論を巡りぶつかり、袂を分かつ事に鳴ります。

三谷氏達はそのまま佐藤慈豊師につき、牧口・戸田らは堀米泰栄師(後の日淳上人)につくことになります。

 


【中央、堀米師 左、牧口氏 右、戸田城外】


しかし、ここで三谷氏は尿毒症であっけなく亡くなってしまいます。

三谷氏が亡くなった後、牧口・戸田らは直達講の実権を握ろうと画策しましたが、藤本秀之助などの講員たちはそれに抵抗し、講を解散したのでした。

その後、直達講の有志により目白グループができました。


ところがここでもまた牧口氏の誤算が起きます。

堀米師は考え方が目白グループに近かったため、ここでも牧口氏は堀米師と対立し、理境坊へと移ります。

頑なに「国立戒壇論」を唱える牧口氏とベクトルが合わなかったのでしょうか。

最後に牧口氏は

『貴僧の指導は受けん!』と席を立ったそうです。

(後年、戸田先生はこの時の事を詫び、堀米日淳上人との関係は良好に戻りました)

 

その後、牧口・戸田氏らは住職の能勢師の紹介で堀慈琳師(後の日亨上人)と知り合い、更に「国立戒壇建立」へと傾倒していきます。

 

日本が大東亜戦争に突入すると、牧口氏は治安維持法不敬罪で逮捕され、巣鴨東京拘置所にて栄養失調及び老衰のため死去します。

(当ブログ“狸祭り事件”参照)

 

 

 

小説家は芥川賞直木賞を受賞を目指し、文壇に颯爽とデビューする事を願い、科学者はノーベル賞を受賞し、科学の世界でスポットライトを浴び歴史に名を残したい、と考えているでしょう。

 

牧口氏もカント哲学の「真・善・美」を改変したような「利・善・美」という論法を展開するところを考えると、教育界で冷や飯を食わされていた氏がなんとか注目され、教育界で脚光を浴びたい、という強い願望を持っていたかも知れません。

 

と同時に「国立戒壇論者」として日蓮正宗門下でも「一旗上げ」て田中智学のように“注目の存在”として名を残したかったのかも知れません。

 

その思いが達成されず「拘置所内にて死去」とはあまりにも悲しい最後だったのではないでしょうか。

 

~ 了 ~

国立戒壇放棄・正本堂の意義付け。

この問題の惹起したのが1970年(昭和45年)。

今年は、ちょうど50年の節目であった。

国立戒壇と言えば、顕正会の邪義みたいなきめ付けがまかり通っている昨今。

確かに国立戒壇というジャーゴン (業界専門用語)は、田中の造語だったのだろう。

それを破折しても、日蓮正宗国立戒壇放棄批判は破折できていないことに、賢明な日蓮正宗僧俗は知っているか、薄々勘付いているはず。

だって、独一本門戒壇の会通語として使用していたんだから、これを放棄するってことは戒壇建立をうやむやにしてしまうことになるだろう。。。

その危惧は杞憂とならずに、現在の日蓮正宗では戒壇大御本尊の御前が、本門事の戒壇であるという法体に約した戒壇の事義立て分けのみが強調され、事相の辺はうやむやになってしまった。

国立戒壇放棄から7年の節目に、昭和52年路線の謗法が現証となって顕れた。

昭和52年路線以後、創価には罰の現証が顕在化し、池田大作の次男は昭和59年に胃穿孔で死去。7年の節目であった。

正本堂建立から7年の節目に、創価学会4代会長の北条浩、日蓮正宗第66代猊下の日達上人様が、相次いで急死したのは、偶然と言い張るのだろうか?

私は国立戒壇放棄から50年の節目には、何かとんでもないことが起きるであろうと想像していたが、まさかのコロナ禍による世界的混乱、オリンピックの延期が起きた。

世界の広宣流布が目標だというのは分かる。

しかし、日蓮大聖人様の本国・生国たる日本国の広宣流布、独一本門戒壇建立を訴えることなく半世紀が過ぎたことを、末恐ろしく思う。

公明党が選挙に負けるから国立戒壇言わないって、創価が言ってきちゃってさ。。」当時を知る僧侶から直接話を聴いたことのある私は、やはり、ここに諸問題の淵源があるように思われてならないのだ。

(ポリ銀)