日霑上人に就いて文久3年まで6年間宗学を学びます。
その頃の日本は黒船の来航により尊王、攘夷、勤皇、左幕とケンケンガクガクの論争になり、
250年間太平の世だった江戸時代も上へ下への大騒ぎになります。
笑っちゃうのは“いざ鎌倉”であるべき武士たちは長い間武芸を忘れ、
茶の湯などを嗜んでいたため、肝心の鎧の付け方もままならない
というありさまです。
大江戸博物館に行った時、「鎧装束の付け方」なる当時の巻物が展示されておりました。
これにはさすがにビックリでした(笑)
さて安政5年から文久3年の6年間に起きた日本の代表的な出来事は、
安政6年…吉田松陰死刑(安政の大獄)
万延元年…桜田門外の変
文久元年…水戸藩士らイギリス公館を襲撃・武智半平太、土佐勤皇党を結成
文久2年…生麦事件
そして文久3年には高杉晋作が奇兵隊を結成し、生麦事件から薩英戦争が勃発、
京都では新撰組が旗揚げするのです。
このころ慈含師(日応上人)は15才。
今のように新聞やTV、インターネットが無い時代とはいえ、
このような大事件は当然耳に入ってきたでしょう。
何と言ってもあの“蒙古襲来”以来、500年以上にわたり外国が攻めて来る、
などという事がなかった日本です。
なにか感じるものはあったはずです。
慈含師はそれから慶応3年までの4年間、さらに細草檀林にて研鑽を積みます。
この4年間に起きた有名な事件は、あの新撰組が一躍有名となった「池田屋事件」を皮切りに、
長州藩が御所を攻撃した禁門の変。
それに伴う幕府による第一次、第二次長州征伐。
そしてアメリカなどの4国の連合艦隊が長州藩の下関砲台を占拠(上陸)というショッキングな事件が次々と起きます。
そして慶応3年10月にはとうとう徳川慶喜は朝廷に大政奉還をし、
260年続いた徳川幕府の時代が終わったのです。
(その翌月には坂本竜馬が暗殺されます)
慈含師は徳川幕府終焉とともになにか大きな変換期がくるな、という予兆は感じられていたでしょう。
そして慶応3年、坂本竜馬暗殺の翌月の12月27日。
若干二十歳にして三春の法華寺(福島県三春町)の住職に任命されました。
この時、姓名を改め大石慈感坊といいました。
そして慶応4年の年明け早々、鳥羽伏見の戦いが勃発。
9月には明治と改元し会津藩(幕府軍)が降伏します。
同じ福島県ですので、おそらく敗走する幕府軍などを見たことでしょう。
徳川幕府の終焉をむかえた、ということはそれまで厳しく制限されていた
折伏活動が再開できる可能性が出てきました。
明治5年には新政府が新たな戸籍制度を設けます。
それが壬申戸籍です。
(壬申戸籍:江戸時代の宗門人別改帳に代わって、明治4年の戸籍法に基づいて、
翌明治5年に編製された戸籍。身分などが明記されているため現在は閲覧できない)
これによって今までの寺請制度が廃止になり、自由に改宗できるようになりました。
(寺請制度:庶民がどこかのお寺の檀家にならなければならない制度。
邪宗門とされたキリスト教や不受不施派への改宗が監視され、
当然その他の宗派への改宗も御法度になった)
これより慈感師(日応上人)は福島、二本松、郡山などに精力的に布教に歩きます。
この頃の日本は明治政府が樹立されたとはいえ、
佐賀の乱、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして西南戦争勃発など、
まだまだ内乱が続いていました。
しかし慈感師の折伏弘教は止むことなく、明治14年には杜の都、
仙台仏眼寺の住職に栄転となり、この時から甲斐阿闍梨法道院日応と名乗ります。
さらに布教活動に拍車がかかり、福島県の広布寺や郡山教会(現:寿海寺)を開基します。
そして明治16年、日応師が華々しく宗門内にデビューする時がやってきます。
〜 以下、次号に続く 〜
【あとがき】
明治維新の立役者たち、たとえば坂本竜馬や中岡真一、近藤勇や土方歳三、
いずれも皆30代前半の若き血潮がみなぎる熱血漢ばかりです。
ジジイなどは一人もいません(^_^;)
この時代の日応上人も20代の青年僧侶でした。
やはり時代を変えるのはジジイではなく使命感に燃えている若者なのです。