日蓮正宗のススメ

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創価ダメ出しさんに学ぶ:六巻抄の読み方

六巻抄拝読の為の基礎知識⑤(三重秘伝抄④)

今日は、【一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈めたまえり、竜樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ此れを懐けり等云云。】の文の10の義の続きで今日で三重秘伝抄は終わりです。

第八に事理の三千を示すとは
前回までは一念三千の法門にも、権実・本迹・種脱の三重の秘伝があることを明かしていますが、ここでは今までと少し違う観点で「理」と「事」の一念三千の違いを明かしています。一般的には諸法実相を明かした迹門を「理の一念三千」、本因・本果・本国土の三妙を明かした本門を「事の一念三千」と定義します。何故三妙を明かした本門を「事の一念三千」というかというと、事実として仏身に約して三妙を説かれているからです。これは基礎中の基礎教学なのですがこれが分かっていないのが創価民です。何が分かっていないかというと、「事の一念三千」というのは仏身を離れて存在しないということです。これは大聖人仏法はもとより法華経の真髄でもあるわけです。「宇宙の法則を具現化したのが本尊」という考えは法華経すら理解できていない考えです。「宇宙の法則」では「理」なのです。これについては文底秘沈抄でもう一度書きます。さて日寛上人は法華経の一念三千は迹門の理と本門の事があるとされているが、これらは文底即ち大聖人仏法に対すれば法華迹門・本門ともに「理の一念三千」であるとご指南されています。その理由として【一代応仏の域を引かえたる方は理の上の法相なれば一部倶に理の一念三千なり】との本因妙抄の御文を引用しています。「応仏」とは「応仏昇進の自受用身」であり法華本門の久遠実成の釈迦仏のことです。これは久遠元初自受用身と対比される仏です。すごく簡単にいうと「応仏」とは法を修行して成仏した仏であり随他意の仏です。対して久遠元初自受用身とは、最初から法と一体の仏で随自意の仏です。ですから「応仏」は本仏からみれば迹仏です。その迹仏が説いた文上法華経における「理事」は本仏からみればどちらも「理」となるわけです。本章の最後に【応に知るべし、一代の諸経は但是れ四重なり、所謂爾前・迹門・本門・文底なり。此の四重に就いて三重の秘伝あるなり(中略)此れは是れ種脱相対第三の法門なり。学者若し此の旨を得ば釈尊一代五十年の勝劣、蓮祖の諸抄四十巻の元意、掌中の菓の如く了々分明ならん。】とあるように種脱相対・事の一念三千とは日蓮大聖人の仏身に備わるということが分からないと御書の元意は理解できないのです。今の創価民が御書を理解できない理由はここにあります。

第九に正像未弘の所以を示すとは、
ここからは、冒頭の開目抄の御文。【文に云わく、龍樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ之れを懐けり】の「結」部分のご指南です。最初に通結として【龍樹・天親は知って而も弘めたまわず】と龍樹・天親は「知っていたけど言わなかった」と言われています。これを「内鑑冷然・外適時宜」といいます。これは龍樹・天親は正法時代だったので権大乗教を表に立てたからです。別結として【但我が天台智者のみ之れを懐けり】と述べています。天台は権実と本迹を述べたけど第3の種脱相対は言わずに懐いていたという意味です。天台は像法の人師なので迹門を表に立てた弘教だったわけです。そして次に龍樹・天親・天台が第3の種脱の一念三千の法門を説かなかった理由を①末法の弘教に自身が耐えられないから②正像二時の衆生は脱益の機根の衆生であるから③天台等には文底事の一念三千を広めるという相承が仏より与えられていないから④末法の時がまだ到来していないから。と4つ挙げられています。これを「正像未弘の四故(しこ)」といいます。

第十に末法流布の大白法を示すとは
三重秘伝抄の最後は、正法・像法に弘通されなかった末法流布の大白法を示して結ばれています。最初に前章にあげた「正像未弘の四故」に対し文底の妙法が末法に広まるべき四故をあげています。即ち①「自身能堪の故」②「所被の機縁のよる故」③「仏より譲り与うる故」④「時已に来るが故」というわけす。それについて詳しくご指南なされています。後半は【迹化他方を止めて但本化を召す所以如何】仏が他方仏と迹仏への弘教を制止し本化地涌の菩薩に末法の弘教を託した理由をそれぞれ前三後三の理由を述べてご指南されています。前三とは他方仏・迹仏の弘教を制止した理由3つで後三とは本化地涌末法弘教を託した理由3つのことで、他方と本化・迹仏を本化についてそれぞれ書いているので、2つの前三後三で全部で12個のご指南が書かれています。本文を読むと分かりますが、この章では「末法流布の四故」のなかでも③の付属についてのご指南に多くを割いています。これはひとえに仏法において「付属」といことがいかに重要なことであるかということの証左です。大聖人仏法における「付属」とは唯授一人血脈相承によりなされます。いくら創価が「大聖人直結」などと自称しようとも創価や顕正には大聖人からの付属など何もないのです。大聖人からの付属が無い者には末法広宣流布は出来なことは本章を読んでも明らかなのです。日寛上人のご指南に反する謗法団体が日寛上人の御本尊を無断コピーして使用しているのは言語道断といえますね。
というわけで、三重秘伝抄はここまでです。次回の文底秘沈抄では三重秘伝抄で明かさなかった正像未弘即ち末法流布の文底の妙法の名目を具体的に明らかにされます。次回は来年1月に執筆予定です。

創価ダメ出しさんの六巻抄講義です。

毎回、分かりやすく、深くお話を読ませていただいて 、感謝しています。

最近の宗門では、あまり、六巻抄の拝読を勧奨しておりません。

それは、事の戒壇の定義が事相に限定されているからでしょう。

僕は、それも日寛上人様の御配慮だったのではないかと思っております。

広宣流布の暁に独一本門事の戒壇を建立することが、日蓮正宗僧俗の悲願です。

それが、正本堂問題以降、いついかなる時も戒壇の大御本尊様の御前が事の戒壇であるという会通が強調され、法体に約しての会通しか耳にしません。

しかし、実際に御開扉を受けてみれば分かるように、御受戒の場ではないのです。

日蓮正宗各末寺(義の戒壇)で御受戒を受けた信徒が、内拝を願い出て広布以前のお目通りを日蓮大聖人様から賜っております。

日寛上人様は後世の弟子旦那が、法門義を誤解することに細心であられました。

故に畢生の書として遺された「六巻抄」は、古来より教学の柱として研鑽されてきたのですが。。。

根源の御本尊様は大石寺戒壇の大御本尊様であります。

その他の御本尊様は、全て分身散影(ふんじんさんよう)として拝して参りました。

私はその解釈で十分だと思っております。

事の戒壇が存在しないならば、2.5大秘法になってしまうという珍妙な意見も存在しますが、それは牽強付会の議論だと思っています。

末法事の戒は大御本尊建立時から存在するのは当然です。一大秘法の御本尊様ですから。

ただ、国主が日蓮正宗に入信し、御開扉ではなく本堂の御本尊様として公開され、毎朝夕の修行の場として事相に顕れる時をこそ待つべきでありましょう。

国立戒壇放棄から折伏が停止され、50年が過ぎました。

事相は将来に属するから議論をしてはならない。

そんなことを言ってしまって、この国も亡国寸前の体たらくになっております。

来年は、日蓮大聖人様御生誕800年の砌。

大きな節目であります。

祖道の恢復。。。期待しております。

 

六巻抄

六巻抄