日蓮正宗のススメ

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【戦争と日蓮正宗(上)(下)】

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先の大東亜戦争では客殿焼失と日恭上人がお亡くなりになる

という前代未聞の不祥事が起きました。
(ちなみに“大東亜戦争”という言い方は、戦後GHQより禁止され“太平洋戦争”と改名させられました)
 

“戦争時の日蓮正宗のスタンスはどうであったのか”

 

もう少し歴史を掘り下げてみたいと思います。

ここに大橋慈譲師相模原市正継寺元住職)の手記がありますので紹介します。

『私は敗戦後一時、種々なる苦悩を持ち、還俗したいと、ふと考えたこともあった。
 

苦悩というのは何かと言うと、精神的、信仰的な悩みであった。それは
 

1、なぜ、神国日本といわれ、下種御本仏出生の国たる日本が戦争に負けたのか。
2、なぜ御本山の客殿は焼失したのか。
3、なぜ恩師・日恭上人が一緒に亡くなられたのか
4、なぜあんなに強盛な信仰家の父(出家して浄信と名乗る)が樺太で抑留されたのか
5、なぜ自分は肺結核で悩まなければならぬのか(当時の肺病は死刑宣告同然な不治の病であった)

 

このような精神的、肉体的悩みが一度に招来した。
 

その当時の日本人は有史以来の敗戦によって虚脱状態にあったが、

さらに私は以上のような苦悩が重なり日々考えあぐねた。
 

そして得た一つの考え方は、信仰によって人間万般の事象がどうにかなる、

という考え方は間違いである。
 

マルクスのいうように宗教は間違いである。
 

あるものは科学的因果律である。
 

いかに立派な霊場であろうと火をつければ焼けるものだ。
 

信仰によってどうこうなるというものではないだろう。
 

という冷厳なるものであった。
 

そうした考えに到達すると戦後の混乱と同時に出家の価値は無意味に思い、

縁あらば“還俗”もと考えるに到った。
 

肺病は一向に全快する事なく、毎日悶々として死を見つめて生活した。
 

以上、敗戦後の日蓮正宗僧侶の心情をうかがい知る貴重な手記です。

大橋慈譲師は若くして病魔に襲われながらも平成29年、

なんと91歳でお亡くなりになるまで僧道を全うなされました。
 

当時、91歳というのは宗内最高齢でした。
 

改めてご冥福をお祈りいたしましょう。 

 

   故 大橋慈譲師

さて、この中で「下種御本仏出生の国たる日本が戦争に負けるわけがない!」

とあるように、このころの宗内では戦争に負けるとは考えていなかったようです。
 

以前にも書きましたが牧口・戸田両会長も負けるとは考えていませんでした。
 

戸田会長にいたっては後年『この戦争は勝ちたかった』とも語っております。

日露戦争で勝利した日本は富国強兵政策のもと軍備も国力も増大させ、

やがて大東亜共栄圏を確立しアジアを支配し、
英仏米などの列強国にも劣らない大国となり世界の頂点に立つ。
 

そして同時に日蓮大聖人の仏法が世界に流布し広宣流布が達成される。
 

という構図を描いていたのです。
 

ではこのような考え方はいつごろから始まったのでしょうか?

ハッキリとした資料はありませんが、さかのぼること明治37年3月12、13日。
日応上人が主催されていた法道会(現・法道院の前身)にて『皇威宣揚征露戦勝大祈祷会』を挙行したとあります。
 

日露戦争はその前月の2月より勃発しましたからまさに開戦の火ぶたが切って落とされた直後です。
 

『皇威宣揚征露戦勝大祈祷会』とは簡単に言うと

天皇陛下の威光で日露戦争に勝つための大祈祷会」ということになります。
 

続いて18日には我が品川・妙光寺

21日は小梅・常泉寺

24日は下谷・常在寺と戦勝大祈祷会が執り行なわれますした。
 

そして「戦勝守護の本尊」を一万幅授与したとあります。
 

つまり相当な数の参拝者があったことが分かります。
 

また集まった御供養金の全ては“軍資金”として軍に献納したともあります。

 

また東京のみならず仙台・仏眼寺にても3月13日、

同様な戦勝大祈祷会が行われ、伊達家お預かりの御本尊「飛び曼荼羅を開扉し、

陸軍第二師団長、19総隊長、4総隊長、仙台市長、警察署長まで参拝し、

参加者1000名以上を数えたと言います。


また4月25日、伊那の信盛寺においても天皇陛下の写真を安置し読経唱題をし、

申状まで奉読して戦勝祈祷会を挙行したとあります。


法道会、妙光寺常泉寺、常在寺は日応上人が直々にお出ましになり演説法話したとありますが、

その内容までは記録がありませんのでどのような内容だったかうかがい知ることができません。
 

ただこの大祈祷会の主旨としては

 

皇軍が向かうところ連戦連勝しないわけはなく、

御陵威(みいつ:天皇、神の威光)は絶対であり
我が日本国民はより一層、尽忠報国の道を進むことが本分である。
よって鳳詔(ほうしょう:仏の命令)を胸に刻み、

大聖人の金誡(広宣流布)に照らし大祈祷会を挙行する(主意)』
 

とあることからやはり日本の戦争勝利→世界の覇者となる→日蓮大聖人の仏法を広宣流布する。
 

というビジョンがあったと思われます。


信盛寺で行われた演説会でも『宗教家の国家に対する義務を説く』とありますから

同様の考え方が正宗の方向性だったのでしょう。

そしてなんと日応上人自らが東京の繁華街に立ち、

街頭演説(街頭折伏)する、ということが行われました。


現在、各支部にて街頭折伏を行っていると思いますが、

住職さんはおろか所化さんですら街頭折伏に立つ、なんてことがない現在からみると、

日応上人のバイタリティーあふれた東京での折伏正機精神』『一人たつ精神』

近代の日蓮正宗の基盤を作っていきます。

 

          総本山56世 日応上人

明治37年3月『皇威宣揚征露戦勝大祈祷会』を挙行した翌月、

日応上人は徒弟の山本説道師土屋慈観師(後の第58世・日柱上人)
を伴って街頭折伏に打って出ます。

時は4月ですから桜の花も満開を向かえ東京も暖かくなってきた頃です。

「晴天の毎に東京市内の最も繁華なる場所に押出し」とありますから、

晴れている日は毎日繁華街に出向いて街頭折伏を行ったのです。

当時の繁華街ですから、今のような渋谷、新宿ではなく法道会の立地から考えると

浅草、上野が中心だったと思われます。
(当時の法道会は現在の池袋ではなく、旧深川区東元町:

現在江東区・都営新宿線森下駅付近にありました)

 

(明治~大正期の浅草 このような辻に立って説法なさったのでしょう)

その時のご様子は、日応上人の“熱心な説法”のため、

通行人は足を止め、また近隣の者はうわさを聞きつけ、
それがまた言い伝えられ傍聴に集まる人々の活気がますます盛んになり

「法道会に入会したい!(つまり日蓮正宗に入信したい)
という申込者の増加の一途をたどった。とあります。

凄いですね〜 法主上人が自ら東京の繁華街で“辻説法”を決行していたのです。

このころ日応上人が詠んだ有名な句がありますのでご紹介します。

『深川や蛸一匹の浮き沈み』

なんと意味深い俳句でしょう。

この深川の地は彼の松尾芭蕉の草庵からわずか数百メートル北側にありました。
そうです『古池や、かわず飛び込む水の音』で有名な松尾芭蕉です。
この句に返されたのでしょうか。

疲弊した大石寺を下りられて、東京大折伏戦に打って出た御法主上人の非常なほどのご苦心が感じられます。
そして、この日応上人の“一人立つ”精神の大折伏戦が近代日蓮正宗の興隆を築きます。

この頃、三谷素啓という教員が入信します。
この三谷氏こそが牧口常三郎折伏し、今の創価学会が生まれるのです。

つまり日応上人の東京大折伏戦がなかったら今の創価学会は存在しないのです。
日応上人こそが創価学会の生みの親なのだ!

声高に叫んでも過言ではないでしょう。
(学会員の折伏の決めゼリフにお使いください▼☆▼)

ちょっと話がそれてしまいました、、
もう一つ日応上人が東京大折伏戦に出た理由は(先のメルマガにも書きましたが)

戦争という国難こそが大法弘通の「BIGチャンス!」感じられたのでしょう。

その年の12月には戦争で負傷した兵士が収容されている

静岡の病院(第34総隊)へお見舞いにも行かれます。
そこで葉書やタバコなどを寄贈します。

(タバコがお見舞い品!?今では考えられない見舞い品ですね(^_^;)

続いて名古屋師団にも慰問せられ、葉書6千枚を寄贈し

収容中の兵隊からは厳粛なる敬礼をお受けになったとあります。

そして東京にお戻りになり近衛第一師団ほか都内の各病院(渋谷、戸山、氷川、広尾、千駄ヶ谷など)

を見舞われ将校以下1万数千名の傷病兵を慰問します。
“各院室”とありますから各部屋をお回りになったのでしょう。
すごい数です。

またそのご決意を文章をもって述べられておりますので、

ここに掲載いたします。(長文ですので主意のみ)

『然ればこの妙法の五字の大法は法華経薬王品に説かれた

“後五百歳の中に広宣流布して閻浮堤に於て断絶せしむること無けん”
との釈尊の御金言のごとく、この日本に流布するのみならず、

全世界に広宣流布して断絶することはない、と確信するものである。
この妙法がわれ等日本より東洋を始め西洋にまで流布することは、

涅槃経にある仙予国王が悪僧と戦ったごとく、有徳王が覚徳比丘を
守るために戦い、暴悪なる国々を征服しこの正法を広めた例のごとく、

暴悪のロシアを始めとする欧米諸国をも併合し我が日本の属国となし、

天皇陛下をもって世界の大帝王と仰ぐ時、

一人の聖人が出現してこの大法を世界に広宣流布するのである。
今、まさにその時が来たことは経文に明確にお示しである。(中略)

よって我が皇民たるものは益々、国家に尽くす精神を鍛錬し、
天皇陛下の宸襟(しんきん:天皇の心)を安じ万民の和合をはかり、

国を豊かにし兵を強くすることに力を尽くそうではないか!』

今は「主権在民」ですから、このような説法を聞くと違和感があると思いますが、この頃の主権は「天皇」です。
(なので大聖人様御在世当時から「申し状」を天皇家に奏上しているのです)

このように法華経や涅槃経の故事を引き、広宣流布への並々ならない御決意を述べられているのです。
この一例をもって見ても日応上人が“時まさに来れり!”と確信していたことが分かります。

*この「申し状奏上」は第9世日有上人まで行われておりましたがその後はなぜか絶えました。
そして日応上人の師匠である第52世日霑上人から再開され、

日盛上人、日胤上人と3代続きましたが現在もまた途絶えております。

また御師範の日霑上人も凄いのです。
水道橋(文京区:BIGエッグがある辺り)にて寺社奉行の青山さんの登城中(つまり出勤途中)を待ち伏せし直訴したのです。
そして御奉行様直々のお調べとなり(なんか時代劇の一場面が想像されますね、、)

日霑上人は申し状を演説し、奉行留役(書記)の滝沢さんは厚く理解を示したと記録にあります。
昔の御法主上人の行動力は凄いですね〜

いまこそアベノミクスなどと言うまやかしのペテン政策を粉砕すべく

日蓮本仏論を奏上する時ではないか!?
と筆者は考えます!

〜 戦争と日蓮正宗 了 〜

【あとがき】

筆者は十数年前、日応上人がお住まいになっていた旧深川区東元町:現在の都営新宿線森下駅付近を散策したことがあります。
深川の地は東西に小名木川が流れておりますが、この河を毎日渡って折伏に東奔西走され、

ここが東京大折伏戦の出発点となったのか、と思うと感慨深いものがあります。

森下商店街はいわゆる“下町”でアサリ売りのおじさんがいるのんびりした街でした。
またその近くにはあの鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵の屋敷跡もあります。
 

鬼平には小梅・常泉寺も出てきますね。
お時間があるときに是非みなさんも散策されてみてはいかがでしょうか。

次回からはもう少し日応上人の御事跡をたずねてみたいと思います。

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