スマートフォンと禅天魔:我々は天魔に魅入られている
今ではお馴染みのアイコン。
私が初めてこの画期的なシステムに出会ったのは、1995年(平成7年)でした。Windows95が発売された年。
それまで、ワープロしか縁がなく、パソコンが何をするためのものか、全く知識がありませんでした。
この時から時代が動き始めましたね。
インターネット普及のきっかけでもありました。
でも、もともと、このアイコンをクリックしてアプリを起動するという、誰にでも使いやすくわかりやすい手法、誰が思いついたのでしょうか?
95年の当時から、IT界のトップに君臨し始めていた、Microsoftのビル・ゲイツさんかと思っていたら、実は、スティーブ・ジョブズさんの発案だったのだそうです。
アップルのmacパソコンの方が先行で、Windowsのほうが模倣追随だそうです。
スティーブ・ジョブズさんのお人柄は、型破りな天才というイメージ。
2011年にお亡くなりになっています。
もう、9年も経つんですね。
彼が禅に傾倒していたのは有名な話です。
奇抜な発想や、シンプルスタイルの製品群は禅の影響とも言われています。
56歳という若さで鬼籍に入られました。
科学と資本主義経済が高度に発展した、この現代の象徴的存在が、なぜ禅から生まれたのか?禅から生まれたツールは、我々の幸福に寄与するのか?疑問は尽きません。
日蓮大聖人様の四箇格言(しかかくげん)を御存じでしょうか?
の四つです。有名ですね。
その中の禅天魔。
禅は天魔の所為だそうです。
なぜでしょうか?
禅宗をば又は仏心宗と云ふ、我が心、仏なるが故なり。或は教外別伝とも云ふ、一代聖教の外に伝ふと習ふ法門なり。(中略)今別伝は一代聖教の外に有りて、速やかに生死を出でて至極甚深の法門なり。(中略)但し教外別伝と云ふ事証拠なき事なり。所以に一代聖教を離れて別に仏法有りとは何れの経論に見えたるや。また経論に依らずして師の言に依るべきか。祖師(達磨)と仏と何れを信ずべきや。若し祖師を信ぜば、其の祖師の善・不善何に依りてか別つべき。悟・不悟亦争でか知るべき。若し仏を信ぜば教外別伝と云ふべからず。仏全く教外に別伝ありとは仰せられず。若しありといはゞ外道の法なるべし。天魔の所説、正法破滅の源なり。(禅宗天台勝劣抄333㌻)
日蓮大聖人様は、禅を外道とも天魔とも呼ばれ、正法破滅の根源だと破折されています。
それは、「我が心、仏なるが故なり」 「教外別伝」という、慢心と邪見が宗旨だからです。今の創価学会もよく似たことを言っていますね。
己心のヒラメキと、商売の成功により大衆の心を魅了することに長けていて、物事の正邪の判断や価値観の高低は後回しになるからです。
これは、戦争に関連する企業によって科学技術が進歩するのとよく似ています。
核テクノロジー、ドローン、バイオテクノロジー、宇宙開発技術、戦争と無縁の科学技術を探すほうが困難なほどですね。
私は、恒久世界平和が達成されている世界では、これほど急激なテクノロジーの進歩はないと思っています。平和というのは心の禅定のことですから、世界の人々の心が安穏であれば、物欲・色欲・金銭欲に踊らされて愚行を繰り返すこともないでしょう。
西洋では東洋思想というと、老子のタオと禅だというほど広まっています。瞑想だけというシンプルさがウケているのでしょう。
しかし、瞑想は遊び半分では効果がなく、のめり込めば精神障害を惹起するなどの弊害が指摘されています。
それは、汚れたまま、迷いのままの凡夫の心から仏性を取り出そうとしても、泥の貯まった沼地を掘り起こすようなもので、底に沈みこんだ仏性には至りつくせないからです。
蔵識にため込まれた過去の業因を観て、変性意識状態になるだけで解脱などとは真逆の、魔境に入り込んでしまうのでしょう。
日寛上人様は、我々日蓮正宗信徒の唱える御題目こそが、本当の禅定を得る修行法だとおっしゃっています。
法華取要抄文段 三七 本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止(ただ)唱題のみならんや
第六 本門の題目を明かす
夫れ本門の題目とは即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊、唯此の事に在り。豈池に臨んで魚を観、肯て網を結ばず、糧を裹みて足を束ね、安座して行かざるべけんや。故に宜しく妙行を励むべき者なり。
当に知るべし、行に始終有り。謂く、信心は是れ唱題の始めなり。唱題は是れ信心の終りなり。是れ則ち刹那の始終、一念の因果なり。
妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。亦云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首」等云云。譬喩を以て之を言わば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光に趣くなり。天台云く「智目行足をもって清涼池に到る」等云云。
当体義抄に云く「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。
此の一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。
当流深秘の血脈抄に云く「宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由って口唱に本果の究竟を得」等云云。
甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止唱題のみならんや。若し他流の輩は口に妙法を唱うと雖も只是れ宝山の空手なり。是れ即ち本門の本尊を信ぜざるが故なり。
法蓮抄に云く「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し」等云云。何に況んや本迹一致の大僻見、蓮師違背の大罪をや。何ぞ無間を免れん。悲しむべし、悲しむべし。
また、その前段では、
法華取要抄文段 三五 富士山に本門の戒壇を建立する五つの所以
第五 本門の戒壇を明かす
凡そ本門の戒壇とは、一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり。云う所の「戒」とは防止を義と為す。謂く、無始の罪障を防ぎ、三業の悪を止むる故なり。宗祖云く「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」云云。豈非を防ぎ悪を止むるに非ずや。
当に知るべし、本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂く、義理なり。是れ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。
初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当るなり。経に云く「当に知るべし、此の処は即ち是れ道場」とは是れなり。天台云く「仏其の中に住す、即ち是れ塔の義」等云云。故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦復当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。
正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証を濫さん」等云云。今日本国中の諸宗諸門の徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。
宗祖云く「根深ければ枝繁く源遠ければ流れ長し」(取意)等云云。凡そ此の本尊は久遠元初の自受用の当体なり。豈根深く、源遠きに非ずや。故に天台云く「本極法身は微妙深遠」等云云。
次に正しく事の戒壇とは、秘法抄十五・三十一に云く「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり」等云云。
と、法体と事相の立て分けをもって、本門の戒壇について御指南されています。
戒壇の大御本尊様=事の戒壇=日蓮大聖人様=無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ずる道場なのです。そして、所作の究竟として御題目を唱えるのです。
これは、戒・定・慧の三学に通じ、このことを三大秘法として整えられたのです。
胡坐かいて目を閉じても覚りなど開く道理はないのです。
スマホ中毒になっている人は、天魔に魅入られていると自覚し、御本尊様の前に座って勤行唱題に励みましょう。
心が禅定になりすっきりした時、スマホに夢中になっていた自分、ゲームに熱中していた自分は、全く幸せではなかったと気づくでしょう。