日蓮正宗のススメ

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創価ダメ出しさんに学ぶ:巧於難問答の行者って、こういうことだったのかぁ。九界即仏界、仏界即九界、境智冥合の意味が分かりました。

一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。(日興遺誡置文1883㌻)

 

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イヤミ課長の論破に説得力は感じませんが・・・

いつも勉強させていただいている創価ダメ出しさんのブログですが、今回の記事には「なるほど!」を通り越して感激すら覚えました。

寂滅道場の砌には十方の諸仏示現し、一切の大菩薩集会し給ひ、梵・帝・四天は衣をひるがへし、竜神八部は掌を合はせ、凡夫大根性の者は耳をそばだて、生身得忍の諸菩薩・解脱月等請をなし給ひしかども、世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず。此等は偏にこれ機は有りしかども時の来たらざればのべさせ給はず。経に云はく「説時未だ至らざるが故なり」等云云。霊山会上の砌には閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達多には天王如来と名をさづけ、五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。決定性の成仏は燋れる種の花さき果なり、久遠実成は百歳の叟二十五の子となれるかとうたがふ。一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず。されば此の経の一字は如意宝珠なり。(撰時抄834㌻)

九界即仏界、仏界即九界という言葉、皆さんも聞いたことがありますよね。

そして、境智冥合という言葉も。。。

問ふ、如来の在世に誰か当体蓮華を証得せるや。答ふ、四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界、帯権の円の菩薩並びに教主乃至法華迹門の教主、総じて本門寿量の教主を除くの外は、本門の当体蓮華の名をも聞かず、何に況んや証得せんをや。開三顕一の無上菩提の蓮華、尚四十余年には之を顕はさず。故に無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」とて、迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずとなり、何に況んや開近顕遠、本地難思の境智冥合、本有無作の当体蓮華をば迹化の弥勤等之を知るべけんや。(当体義抄699㌻)

普門品五箇の大事
第一 無尽意菩薩の事
御義口伝に云はく、無尽意とは円融の三諦なり。無とは空諦、尽とは仮諦、意とは中道なり。観世音とは、観は空諦、世は仮諦、音は中道なり。妙法蓮華経とは、妙は空諦、法蓮華は仮諦、経は中道なり。三諦法性の妙理を、三諦の観世音と三諦の無尽意に対して説き玉ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は末法の無尽意なり。所詮無とは我等が死の相、尽とは我等が生の相、意とは我等が命根なり。然る間一切の法門、境智冥合等の法門、意の一字に之を摂入す。此の意とは中道法性なり。法性とは南無妙法蓮華経なり。(就註法華経口伝1788㌻)

ボヤっと理解していたこれらの言葉の意味が、今回の創価ダメ出しさんの記事を読んで、スーッと腑に落ちました。

ブログ訪問者との問答によって、その深い意味が明るみの中へ導き出されてきます。まずは、以下の引用をじっくりお読みください。

観心本尊文段の解説(サカイさんから質問への回答)

サカイさんとの対話の中で、日寛上人の観心本尊抄文段の下記のご指南について解釈の質問がありましたので今日はそれについて書きたいと思います。質問があった御文は、

我等この本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば我が身即ち一念三千の本尊連祖聖人なり

の御文です。この御文は観心本尊抄文段の一番最後部分で結論の部分になります。この少し前に
◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。
とのご指南がありそれを受けての上記のご指南がサカイさんの引用した部分です。さてこのご指南ですが、観心本尊抄文段の上巻に、
◇我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。
とのご指南があります。通釈すると我々が「この御本尊」を信じた時にはご本尊全体が自分の己心になる。信じて唱題すれば我らの一身全体が「本尊」になるということで、サカイさんの引用したご指南はこれと同じことを言っています。「ご本尊」はいうまでもなく「仏界」ですから「この御本尊」を信じる時には仏界に我々凡夫(九界)が冥合してご本尊は仏界即九界となりご本尊を信じて唱題すれば我が身に仏界が顕れ我が身が九界即仏界となるということです。この二つが揃って真の十界互具が顕れる故に真の一念三千(事の一念三千)が成立するということです。創価民は唱題に力があると勘違いしますが、唱題だけでは仏界即九界がないので一念三千となりません。また創価民の己心本尊論ですがこれは九界即仏界だけを説明しているだけでありこれまた仏界即九界が欠けているので、一念三千でなく一念2700になります。ここに本尊の重要性があるのです。ご本尊は己心を映す鏡ではありません。ご本尊は「仏界」の当体なのです。そのことを【一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。】とご指南されてます。これは一念三千即自受用身ということで、ご本尊が人法一箇であることを示すとともに、ご本尊というのは宇宙の法則を具現化したのではなく日蓮大聖人そのものだという事です。冒頭のご指南はこのことを述べています。さて、問題はここからです。冒頭のご指南の「この本尊」とは「どの本尊なのか」というのが重要なポイントでそれついて同じ観心本尊抄文段で日寛上人は、

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり

明確に戒壇大御本尊が「この本尊」であることを示されています。つまり冒頭のご指南は「我らが子の戒壇大御本尊を信受して南無妙法蓮華経ととなえれば大御本尊全体に我が己心が冥合しまた我が己心に真実の一念三千即ご本仏日蓮大聖人の仏界が顕れる」ということなのです。創価民は仏界は自分の中から湧現するといいますが大御本尊がと境智冥合しなければ仏界など湧現しないのです。創価は大御本尊を捨てたのだけはなく受持しないだけと屁理屈を言いますが、「受持」とは「信受」のことですから「この御本尊」を信受せずに南無妙法蓮華経とただ唱えているだけですから己心の仏界など湧現しないのです。つまり大御本尊を捨てた創価の本尊・題目では不成仏が確定なのです。今の創価は同じ文段で日寛上人が、
◇本尊に迷う故に、また我が色心に迷うなり。我が色心に迷う故に生死を離れず
とご指摘している「本尊に迷った衆生」なのです。かつて池田センセは
▼本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人がおっしゃっているんだ。
などといって日寛上人を愚弄した発言をしていますが。日蓮大聖人がいつご本尊を「一応のただのモノ」と言ったのか?いつ大聖人がご本尊を「幸福製造機」などと言ったのか?センセ、適当な事をいって会員を騙してはいけません。大聖人は
日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ(経王殿御返事)
といっているのにかかわらずこのような指導をする人を師匠を仰ぐ創価民は考え直した方がいいと思います。何が「日蓮直結」「御書根本」ですか。ましてや現在の創価本尊は日寛上人のお筆のご本尊をコピーしたものではないですか。日寛上人のご指南・お心に反した気持ちで日寛上人のご本尊に題目あげて一体何の功徳があるというのでしょう。「偽本尊」云々の前に「ニゼ題目」なんです。日寛上人の正しいご本尊というならば、正しく日寛上人のご指南を受けてこそ正しい題目になり功徳が出るのです。

◆だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし(四条金吾殿御返事)

二には事じの一念三千を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは末法弘通ぐつうの始めなり。「観心本尊」とは即ち所しょ弘ぐの事の一念三千なり。謂く「観心」の二字は即ち是れ我等衆生の能信能唱の故に九界なり。「本尊」の二字は一念三千即そく自受用身の仏界なり。我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己こ心しんなり。故に仏界即九界なり。我等一向いっこうに南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。故に九界即仏界なり。故に「観心本尊」の四字は即ち十界互ご具ぐ・百界ひゃっかい千如せんにょの事の一念三千なり。故に「如来滅後後五五百歳に始む観心の本尊抄」とは、亦是れ「末法弘通ぐつうの事の一念三千抄」なり。(観心本尊抄文段:上205㌻)

日寛上人様の御文は非常に論理的です。非礼を怖れながらも分析的に要素分解してみれば、非常に明解な文章であることが理解できます。

  1. 「観心本尊」とは即ち所しょ弘ぐの事の一念三千なり=一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず。(撰時抄834㌻)
  2.  「観心」の二字は即ち是れ我等衆生の能信能唱(信じてお題目を唱える)の故に九界なり。
  3. 「本尊」の二字は一念三千即そく自受用身の仏界なり。
  4. 我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己こ心しんなり。故に仏界即九界なり。
  5. 我等一向いっこうに南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。
  6. 故に「観心本尊」の四字は即ち十界互ご具ぐ・百界ひゃっかい千如せんにょの事の一念三千なり。

仏界即九界があっての九界即仏界だとの御指南ですね。これが境智冥合の法門=一念三千であると。。なるほど、大御本尊への信心口唱があって、境智冥合するから一念三千が事(事相・事実)となるんですね。ふむふむ。

それで、創価ダメ出しさんの説明となるのです。

  • 「ご本尊」はいうまでもなく「仏界」ですから「この御本尊」を信じる時には仏界に我々凡夫(九界)が冥合してご本尊は仏界即九界となりご本尊を信じて唱題すれば我が身に仏界が顕れ我が身が九界即仏界となるということです。
  • 創価民は唱題に力があると勘違いしますが、唱題だけでは仏界即九界がないので一念三千となりません。また創価民の己心本尊論ですがこれは九界即仏界だけを説明しているだけでありこれまた仏界即九界が欠けているので、一念三千でなく一念2700になります。ここに本尊の重要性があるのです。ご本尊は己心を映す鏡ではありません。ご本尊は「仏界」の当体なのです。

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勉強になります

日寛上人様の偉大なる御書文段・六巻抄も、一知半解の会通では誤解から邪義を生んでしまうんですね。あらおそろしや。

自分が仏とか、創価学会仏とか。。。異流儀は修羅ですから慢心を本尊にして、信心と取り違えてしまうのですね。

最後に身の程知らずの創価民のために、日蓮正宗の真似事・誹謗の姿を御書の御金言から、自身の姿を反省する材料として。。。御贈りいたします。

  • 提婆には三十相あり。二相かけたり。所謂白毫と千輻輪となり。仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思ひぬべしとて、蛍火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ、千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼けて大事になり、結句死せんとせしかば仏に申す。仏御手を以てなで給ひしかば苦痛さりき。こゝにて改悔あるべきかと思ひしに、さはなくして瞿曇が習ふ医師はこざかしかりけり、又術にて有るなど云ひしなり。かゝる敵にも仏は怨をなし給はず。何に況んや仏を一度も信じ奉る者をば争でか捨て給ふべきや。(法蓮抄813㌻)
  • 仏には三十二相そなはり給ふ。一々の相皆百福荘厳なり。肉髻・白毫なんど申すは菓の如し。因位の華の功徳等と成りて三十二相を備へ給ふ。乃至無見頂相と申すは、釈迦仏の御身は丈六なり。竹杖外道は釈尊の御長をはからず、御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず。応持菩薩も御頂を見たてまつらず。大梵天王も御頂を見たてまつらず。これはいかなるゆへぞとたづぬれば、父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬し奉りしゆへに此の相を感得せり。(四条金吾殿御返事621㌻)
  • 当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは、糞犬(やせいぬ)が師子王をほへ、癡猿(こざる)が帝釈を笑ふに似たり。(善無畏三蔵抄446㌻)

 

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 

 

 

六巻抄

六巻抄