日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

育成について思う:新しく法華講に入った方への私信

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先日、お寺に参詣したときに御僧侶が育成の大事を説いておられました。

「書類上の入信数を増やしただけでは意味がありません。」とのお言葉に、感銘を受けました。

来年は80万人体制構築の御命題達成の年。再来年は大聖人様御生誕800年の大佳節です。

この宗門史の意義深い時に、日蓮正宗に入信できたことは、人生最大の慶事だと思います。

日蓮正宗の信仰に巡りあわれた経緯は人それぞれでしょう。千差万別の育成方法は、教導される御住職様や先輩方のアドバイスに耳を傾けて欲しいと思います。

このブログは主に異流儀の方への啓蒙を目的に書いていますので、やはり、創価学会顕正会から入信してこられた方に向けてお話しようかと思います。まったくの無信仰から入ってこられた方には、少し難しいかもしれません。ご容赦ください。

1 仏にやすやすとなる事の候ぞ

大聖人様は御書のなかで修行の厳しさを説かれていますが、実は在家の私たちが在家であるがゆえに、意外と簡単に成仏させていただけることを御指南下さっております。

上野殿御返事
 鵞目一貫文送り給い了んぬ、御心ざしの候へば申し候ぞ・よくふかき御房とおぼしめす事なかれ。
 仏にやすやすとなる事の候ぞ・をしへまいらせ候はん、人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬりてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり、仏になりやすき事は別のやう候はず、旱魃にかわけるものに水をあたへ・寒冰にこごへたるものに火をあたふるがごとし、又二つなき物を人にあたへ・命のたゆるに人のせにあふがごとし。
 金色王と申せし王は其の国に十二年の大旱魃あつて万民飢え死ぬる事かずをしらず、河には死人をはしとし・陸にはがいこつをつかとせり、其の時・金色大王・大菩提心ををこしておほきに施をほどこし給いき、せすべき物みなつきて蔵の内に・ただ米五升ばかりのこれり、大王の一日の御くごなりと臣下申せしかば・大王五升の米をとり出だして・一切の飢えたるものに或は一りう・二りう・或は三りう・四りうなんど・あまねくあたへさせ給いてのち・天に向わせ給いて朕は一切衆生のけかちの苦に・かはりて・うえじに候ぞと・こえをあげて・よばはらせ給いしかば・天きこしめして甘呂の雨を須臾に下し給いき、この雨を身にふれ・かをにかかりし人・皆食にあきみちて一国の万民・せちなのほどに・命よみがへりて候いけり。。。。

一言で申しますと、御供養をすることで大きな功徳を積み、成仏を遂げさせていただくことができるということです。

誤解されることを憚られて、御書4百余編といわれる中で、ここまでスバっと語られているのは、私はこの御書しか存じ上げません。

ただ、御書をすでにお持ちの方やこれから購入される方なら、お返事というお手紙を読まれると、すぐにお気づきになると思います。 この御書でも冒頭に「鵞目一貫文送り給い了んぬ」と、上野殿が奉じた御供養への御礼が記載されています。

これは、ただの受領書とか御礼などという軽いものではなく、御本仏様が在家の御供養を受納されたという重大意義が記されているのです。

仏典には御供養の重大さを伝えるために多くの逸話が説かれています。

文上では大きな現世利益になったとか、生まれ変わるたびに高徳・福徳の人として生きることが出来た等表現されていることが多いのですが、実際は成仏させていただけることの譬えだということです。

経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」とも或は「若し法師に親近せば速(すみや)かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」とも云へり、釈には「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住せん」とも、或は云く「初此の仏菩薩に従つて結縁し還つて此の仏菩薩に於て成就す」とも云えり、此の経釈を案ずるに過去無量劫より已来師弟の契約有りしか、我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ・忝(かたじけな)くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫(もてあそ)ぶ事・是れ偏(ひとえ)に過去の宿習なるか。(最蓮房御返事)

本未有善の末法にありながら、この日本に生まれ戒壇の大御本尊様を信受し、南無妙法蓮華経を唱えることが出来るのは、すでに宿縁があったと仰せなのです。つまり地涌の菩薩の眷属(=信者)であるとの仰せです。

そして、日蓮正宗における成仏とは、「在在諸仏土 常与師倶生」であると私は拝しております。

師とは戒壇の大御本尊様であり、歴代御法主上人猊下様であり、御縁のあった御住職様であると拝しております。 つまり、来世もその次もまた、日蓮正宗信徒として生きることが出来るということではないでしょうか?

然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか、世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし、況や来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢・霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず、不審の事をば尚尚承はるべく候、穴賢穴賢。
 建治二年丙子十二月九日 日 蓮 花押
 松野殿御返事

少し修行が進んだ松野殿には、勤行・唱題、御供養、折伏の3セットを御指南されています。いずれにしても、成仏間違いなしとの御断言を下されております。

なぜ、そんなことが言い切れるのか?それは、戒壇の大御本尊様(=法華経)の功徳が偉大だからです。

法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」 (波木井三郎殿御返事)

妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生死海の船なり成仏得道の導師なり。」(妙法曼陀羅供養事)

神経質にならなくても、退転してしまうことさえなければ、大丈夫ですということなのです。退転とは御本尊様を返してしまうことです。

私が顕正会をやめて法華講に入ったのが2010年。当時、ネットの普及で顕正会の悪事に気付き、多くの人々が日蓮正宗に入信しました。 しかし、魔に誑かされ、ささいなことで不信をいだき信仰を中断してしまった人が大勢います。

もったいないことです。

2 化儀の凄さを知っておこう。

退転した人の動機も様々ですが、多くは人間関係がきっかけとなっているようです。

  • 先輩講員の心無い言葉に傷ついた。
  • 御住職様への不信感。
  • 家族の反対。
  • 折伏や登山などの働きかけが多い。

まあ、たいしたことのない理由がほとんどですが、当人にとっては大問題だったのでしょう。上記の最蓮房御返事には続きがあります。

只今の御文(ふみ)に自今以後は日比(ごろ)の邪師を捨て偏(ひとえ)に正師と憑(たの)むとの仰せは不審に覚へ候、我等が本師釈迦如来法華経を説かんが為に出世ましませしには・他方の仏・菩薩等・来臨影響(ようごう)して釈尊の行化を助け給う、されば釈迦・多宝十方の諸仏等の御使として来つて化を日域に示し給うにもやあるらん、経に云く「我於余国遣化人(がおよこくけんげにん)・為其集聴法衆(いごしゅうちょうほうしゅ)・亦遣化随順不逆(やくけんげずいじゅんふぎゃく)」此の経文に比丘と申すは貴辺の事なり、其の故は聞法信受・随順不逆・眼前なり争(いかで)か之を疑い奉るべきや、設(たと)い又在在諸仏土・常与師倶生の人なりとも・三周の声聞の如く下種の後に・退大取小して五道・六道に沈輪し給いしが・成仏の期・来至して順次に得脱せしむべきゆへにや、念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて日蓮が弟子となり給うらん有り難き事なり。(最蓮房御返事)

いくら宿縁があったとしても、一生を貫く信仰を遂げなくては、またまた六道を彷徨うことになってしまいます。

私に言わせれば、退転者は日蓮正宗の化儀の凄さを分かっていないからだと思うのです。

罪業が消えないままでも、なぜ信徒が閻魔法皇の裁きをすり抜けることが出来るのか?

三途の川に沈むことなく、悠々とわたって行ける船に乗れるのはなぜか?

直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。(御講聞書)

私は葬儀の化儀によって、直接的に救済されるのを観てきました。悪臨終の相で亡くなった方も善相に変化するのです。

  • 導師御本尊様(閻魔法皇・五道冥官〈天上・人間・畜生・餓鬼・地獄の五道を管轄する冥官の総称。〉が勧請されている御本尊様)
  • 戒名
  • 帷子(功徳甚多・如説修行の文字が記載)
  • 回帰法要(初七日~四九日・百箇日・一周忌・三回忌。。。。)
  • 塔婆供養

死の成仏を遂げることが出来ます。

私なんか、謗法罪障が重いので、日蓮正宗の葬儀で弔いを受けることが、人生最大の願いになっております。

ですから、少々気に喰わないことがあるからと言って、極端なことはなさらないでください。

他の宗教に走ってみたり、御不敬などはもってのほかです。

自宅に御本尊様を御安置して、御給仕して、御燈明とお線香を御供養するだけでも、大きな功徳があると思ってもいいと思います。

御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是・自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり(松野殿御返事)

学会・顕正会の好きな御文ですが、日蓮正宗信徒であるならば方便品・自我偈にお題目でもいいと思います。

袈裟衣の大切さということを私は初期のころに教えられました。

中身の御僧侶は末法の凡夫でも、袈裟衣が尊いのですよと。

人間を見るのではなく、袈裟衣を通じて流れてくる法脈・法水がありがたいのです。

その辺のことは六巻抄の当家三衣抄に詳しいので、ご参照ください。

 
一切衆生に仏法僧の三宝を明かして六巻抄を結す 【当家三衣抄】十七

 問う、数珠の由来如何いかん

答う、れ数珠とは此れすなわち下根を引接いんせつし修業を牽課けんかするの具なり、木槵子もくげんじきょうに云わく「昔国王有り、波流はると名づく、仏にもうしてもうさく、我が国辺小にしてひんねん寇疫こうやくこくたかく民くるしむ、我常に安んぜず、法蔵はじんこうなり、あまねく行ずることを得ず、唯願わくば法要を垂示したまえ、仏のたまわく、大王若し煩悩を滅せんと欲せば当に木槵子もくげんじ一百八箇を貫き、常に自ら身に随え、しんに南無仏・南無法・南無僧と称え、すなわち一子を過ごすべし」云云。
 応に知るべし、木槵子の円形は是れ法性の妙理を表すなり。玄文第一に云わく「理は
へんえんを絶すれどもえんじゅに寄せて理を談ず」云云。弘五上に云わく「理体欠くること無し、之にたとうるに珠を以てす」云云。土宗どしゅうひらがた大いに所表にたがうなり、一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり、数珠は須臾しゅゆも身を離る可からず、故に「じょう随身ずいしんと云うなり。

無仏・南無法・南無僧とはけだし当流のこころは、

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思なんし境智冥合みょうごう久遠くおん元初がんじょ自受用じじゅゆうほうしん無作むさ三身本因ほんにんみょうの教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、の一念三千、無作本有ほんぬ、南無本門戒壇の大本尊。

南無本門弘通ぐつうの大導師、末法万年の貫首そうかんず、開山付法南無日興上人師、南無一閻いちえん浮提ぶだい座主ざす、伝法日目にちもく上人師、嫡々ちゃくちゃく付法歴代の諸師。

此くの如き三宝を一心に之を念じて唯まさに南無妙法蓮華経となえ、すなわち一子を過ごすべし云云。

行者つつしんで次第を超越するなかれ、勢至経の如くんば「妄語の罪にってまさに地獄につべし」、亦復母珠もじゅを超ゆること勿れ、数珠経の如き「とが諸罪に越ゆ、数珠は仏の如くせよ」云云。

 母珠を超ゆるの罪何ぞ諸罪に越ゆるや、今謂わく、けだし是れ名をむか。孔子勝母しょうぼに至り暮れる、而も宿やどらずして過ぐ。さとを勝母と名のれば曾子そうこ入らず等云云、外典しかり、況や仏氏をや。


                        当家三衣抄 畢んぬ


享保第十乙巳年六月中旬大坊に於て之を書す。

             六十一歳

                日寛   在判

 

六巻抄

六巻抄